失われるとわかっていても、君の隣を手放したくない

 今日は土曜授業のため、部活のない生徒は午前のみで下校になる。夕方から塾の授業があるので、いつもなら自習室に向かうのだが足が進まない。
 橋本さんから言われたことを、何度も何度も考えている。だけど答えがでない。自分が何をしたいのか掴めない。
 
 図書室で本でも読むかと思い、ぶらぶらと廊下を歩いていると、前から篤人が歩いてきた。目が合うとニコッと笑う。いつも通りの反応なのだが、直感で何かが違うと感じた。

「和田ちゃん、久しぶり。今日はやけに派手なセーター着てんね」
「ん? ああ……」

 いつもは紺か黒のセーターを着ているけれど、クリーニングに出されてしまい、今日は青に近い明るい色のセータ―を着ていた。「似合ってるけど、ツユクサみたい」と篤人に笑われる。いつもの笑顔なのだけれど、何かが違う。迷いや悩みから解放されたような、すっきりとした顔つき。

「……いいことでもあった?」
「いいこと?」

 うーん、と考え込むような仕草をする。「いいことっていうか……。なんといえばいいのか……」
 反応がわざとらしい。良いことはあったのは確かだか、言い方に迷っているような。俺に言いづらいことなのかもしれない。水野さんの顔が浮かび、もしかしたらと頭をよぎる。

「ま、いいや。じゃあな」

 聞かない方がいい気がして立ち去った。何かが始まろうとしていて、それは俺にとって好ましくはないだろう予感があった。不吉な胸騒ぎをおさめるように、図書室へと急いだ。

 図書室はがらんとしていた。いつも自習している酒井も、今日は塾の授業でもあるのだろう、姿が見えない。適当な場所に鞄を置き、書架をまわる。
 あるべき場所に収められ、人の手が伸びることを待ち続けるたくさんの本。開かない限りは語りかけてこない本だが、今日は書架に並んだ状態で話しかけてほしかった。
 しかたなく、目についた本を開く。外国の作家が書いた物語だった。作家の描いた古いヨーロッパの世界に入ろうと必死に文字を追っても、ただ流れていくだけ。心が此処から離れることを拒んでいるみたいだ。
 翻訳本ではだめなのかと思い、ノンフィクションの棚を探す。環境汚染、貧困、宗教の対立……。どれも頭に入ってこない。まずは自分の問題を片付けろと指摘されているようで、たまらず本を閉じた。
 ポケットからスマホを出す。
 
――今日塾に来てる?
 
 水野さんに短いメッセージを送る。彼女と繋がっていることを確かめたい、そんな衝動だった。送ったことである程度気持ちが落ち着いて、スマホをしまおうとすると、軽い振動が伝わってきた。

――今日は学校の図書室で勉強してる。あとで塾にいく

 会える。そう思った途端、騒いでいた心が凪いでいく。
 ふいに、冷たい風が頬を撫でた。換気のためか少しだけ開けられた窓に近づく。
 古い本のにおいに混じって、冬の香りがした。