ふたりの言葉が頭から抜けず、何度も夜中に目が覚めた。浅い眠りを繰り返し、朝起きたときには体は重く、頭はぼんやりとしていた。今日は土曜授業で午前終わりなのでいっそ休んだらいいものの、習慣とはおそろしいもので、きちんと学校に行き、塾にまで向かってしまう。
篤人が水野さんのことを好きなんだとしたら。俺にとって、舞とつき合われるよりいいはずだ。水野さんなら、篤人を振り回すようなことはしない。篤人の笑顔が消えることはないだろう。
ただ、今までどおり水野さんと会ったりはできなくなる。頻繁に一緒にいるのは篤人に悪い。水野さんこそ篤人といたいだろうし……。
隣で笑う、水野さんが消えていく。
授業中、誰もいない隣の席が急にさみしく感じた。
あくびを噛みころしながら歩いていると、前から水野さんが歩いてきた。歩みが遅くなる。
「和田くん! あれ、なんか眠そう?」
「うーん。ちょっと眠れなくて」
「どうしたの? なにかあった?」
顔をのぞきこまれたとき、急に昨日のことがよみがえった。
――当て馬になるぞ
――解放してあげて
目を伏せた。なんだか、ちゃんと見られない。
「……授業はもう終わり?」
すこし間を置いてから聞かれ、静かに頷いた。これじゃ俺が悩んでるみたいだ、たしかにそうなのだけれど、篤人のことでと勘違いされてしまう。ただもう頭がまわらず、説明するのも億劫だった。
「じゃあさ、出かけよう!」
「は?」
「そんな状態で勉強できないでしょ。いい季節になってきたし、公園にでも行ってリフレッシュしよう」
「ちょっと、待って」
ぐいぐいと背中を押され、しかたなく外に出る。秋の風が頬に触れ、ふっと気持ちが軽くなる。息をつくと、乗っかっていた鉛みたいな重りが取り除かれ、自然と目が開いた。
隣から、くすくす笑う声が流れてくる。
「目、覚めてきた?」
「ああ」
息をするように、自然とやわらかい声がでた。心の底からリラックスしてるって、こんな感じをいうのかもしれない。
紅葉の始まりか、色づき始めた葉が揺れている。隙間からこぼれる日差しが優しい。気持ちのいい午後だ。
「秋のはじまりって感じ」
うーんと背伸びをする水野さんの指が、俺に触れそうだった。ふわりと届いた香りに、あれと思う。
「金木犀の香り?」
「ん? ああ、ハンドクリームね。金木犀の香りなの」
手の甲を突き出されたので、流れのままに手首を掴んだ。きゅっと強張ったのが伝わってきて、即座に離す。
「ごめん。だめだった?」
「だめっていうか……びっくりしちゃって」
照れ笑いなんてしてくるものだから逆に意識してしまう。
「……なんかこう、いきなりくるよね」
「ええ?」
「和田くんにとっては、そこらへんのモノ触るくらいの感覚だろうけど。こっちはドキッてしちゃうよ。あ、へんな意味じゃないからねっ」
――ドキッてしちゃうよ
そう言われ、ふいに、黒い塊のような感情が持ち上がる。
「……俺が相手でも、そんな風になるの?」
思い返せばダンス練習で彼女の腕を引っ張って起こしたとき、同じような感覚があった。困らせたいと迫ってしまう。この感情はなに……?
「和田くんが相手っていうか、急に触れられたら驚くじゃない。そんな『男なら誰でもいいのかよ』ってことじゃなくて……。それに、わたしは好きな人にしか触れたいと思わない」
思いの外ぴしゃりと返され、音もなく切られたような衝撃と痛みが走った。
「……だから触ったんだ。あのとき、篤人の手を」
「え? 練習のときの? もう忘れてよ!」
顔を赤くして手で覆う彼女に、なんでこんなことを訊いてるのか、何を返して欲しいのか、掴めていない自分自身に苛立っていた。
「そんな風に後悔するなら、しなきゃよかったのに」と、八つ当たりだと自覚しながらも言い放つ。
「だって、どうしようもなかった」
「どうしようもなかった?」
「わたしに触れた桐島くんの手が離れてく。行かないでって思った。もっと触れていたいと思ったら、抑えられなくて……」
手を下ろした彼女の頬は紅潮し、瞳と唇は潤んでいた。見つめる先、それはあの日、あのときの篤人なんだとわかったとき、急に胸の奥が軋んで動けなくなった。
――なんだよ、これ……
感じたことのない痛みに、寝不足がたたり体を悪くしたのかと本気で思った。
「……どうしようもなく触れたいと思ったら、それは恋なの?」
消え入りそうな呟きを、彼女はきちんと聞き取り、こくりと頷く。
「わたしはたぶん、そう。桐島くんにだけは触れたいと思う。和田くんはちがう?」
「俺は……篤人に対してそう思ったことはないかな……」
「そっか……」
風が吹き、金木犀の香りを連れてきた。切なさを呼ぶそれが体のなかに入ってきたとき、どうしようもなく、かなしかった。
篤人が水野さんのことを好きなんだとしたら。俺にとって、舞とつき合われるよりいいはずだ。水野さんなら、篤人を振り回すようなことはしない。篤人の笑顔が消えることはないだろう。
ただ、今までどおり水野さんと会ったりはできなくなる。頻繁に一緒にいるのは篤人に悪い。水野さんこそ篤人といたいだろうし……。
隣で笑う、水野さんが消えていく。
授業中、誰もいない隣の席が急にさみしく感じた。
あくびを噛みころしながら歩いていると、前から水野さんが歩いてきた。歩みが遅くなる。
「和田くん! あれ、なんか眠そう?」
「うーん。ちょっと眠れなくて」
「どうしたの? なにかあった?」
顔をのぞきこまれたとき、急に昨日のことがよみがえった。
――当て馬になるぞ
――解放してあげて
目を伏せた。なんだか、ちゃんと見られない。
「……授業はもう終わり?」
すこし間を置いてから聞かれ、静かに頷いた。これじゃ俺が悩んでるみたいだ、たしかにそうなのだけれど、篤人のことでと勘違いされてしまう。ただもう頭がまわらず、説明するのも億劫だった。
「じゃあさ、出かけよう!」
「は?」
「そんな状態で勉強できないでしょ。いい季節になってきたし、公園にでも行ってリフレッシュしよう」
「ちょっと、待って」
ぐいぐいと背中を押され、しかたなく外に出る。秋の風が頬に触れ、ふっと気持ちが軽くなる。息をつくと、乗っかっていた鉛みたいな重りが取り除かれ、自然と目が開いた。
隣から、くすくす笑う声が流れてくる。
「目、覚めてきた?」
「ああ」
息をするように、自然とやわらかい声がでた。心の底からリラックスしてるって、こんな感じをいうのかもしれない。
紅葉の始まりか、色づき始めた葉が揺れている。隙間からこぼれる日差しが優しい。気持ちのいい午後だ。
「秋のはじまりって感じ」
うーんと背伸びをする水野さんの指が、俺に触れそうだった。ふわりと届いた香りに、あれと思う。
「金木犀の香り?」
「ん? ああ、ハンドクリームね。金木犀の香りなの」
手の甲を突き出されたので、流れのままに手首を掴んだ。きゅっと強張ったのが伝わってきて、即座に離す。
「ごめん。だめだった?」
「だめっていうか……びっくりしちゃって」
照れ笑いなんてしてくるものだから逆に意識してしまう。
「……なんかこう、いきなりくるよね」
「ええ?」
「和田くんにとっては、そこらへんのモノ触るくらいの感覚だろうけど。こっちはドキッてしちゃうよ。あ、へんな意味じゃないからねっ」
――ドキッてしちゃうよ
そう言われ、ふいに、黒い塊のような感情が持ち上がる。
「……俺が相手でも、そんな風になるの?」
思い返せばダンス練習で彼女の腕を引っ張って起こしたとき、同じような感覚があった。困らせたいと迫ってしまう。この感情はなに……?
「和田くんが相手っていうか、急に触れられたら驚くじゃない。そんな『男なら誰でもいいのかよ』ってことじゃなくて……。それに、わたしは好きな人にしか触れたいと思わない」
思いの外ぴしゃりと返され、音もなく切られたような衝撃と痛みが走った。
「……だから触ったんだ。あのとき、篤人の手を」
「え? 練習のときの? もう忘れてよ!」
顔を赤くして手で覆う彼女に、なんでこんなことを訊いてるのか、何を返して欲しいのか、掴めていない自分自身に苛立っていた。
「そんな風に後悔するなら、しなきゃよかったのに」と、八つ当たりだと自覚しながらも言い放つ。
「だって、どうしようもなかった」
「どうしようもなかった?」
「わたしに触れた桐島くんの手が離れてく。行かないでって思った。もっと触れていたいと思ったら、抑えられなくて……」
手を下ろした彼女の頬は紅潮し、瞳と唇は潤んでいた。見つめる先、それはあの日、あのときの篤人なんだとわかったとき、急に胸の奥が軋んで動けなくなった。
――なんだよ、これ……
感じたことのない痛みに、寝不足がたたり体を悪くしたのかと本気で思った。
「……どうしようもなく触れたいと思ったら、それは恋なの?」
消え入りそうな呟きを、彼女はきちんと聞き取り、こくりと頷く。
「わたしはたぶん、そう。桐島くんにだけは触れたいと思う。和田くんはちがう?」
「俺は……篤人に対してそう思ったことはないかな……」
「そっか……」
風が吹き、金木犀の香りを連れてきた。切なさを呼ぶそれが体のなかに入ってきたとき、どうしようもなく、かなしかった。
