パソコンを抱え映研部の部室へと向かう途中、甘い匂いが鼻をかすめた。
「金木犀か。今年は遅咲きだな」隣を歩く藤澤も気がついたらしい。
「遅咲きなの?」
「ああ。例年はもう少し早いよ。今年の夏は暑かったからな。暑い日が続くと咲くのが遅くなる」
よく知ってるもんだな、と感心する。
立ち止まり、どこに咲いているのかと窓越しに探す。
「金木犀って、小さい花なのに遠くまで香りが届くよな。見つかった?」
「いや。ここからは」
植栽の前を、木材を抱えた数人の生徒が横切る。残念ながら、可憐に咲く黄橙色の花は見つけられなかった。
先に歩き出した藤澤に並ぶ。前から体操服を絵の具で汚した中等部生徒が走ってきた。すれ違いざまに、彼の持っていた絵の具のチューブが落ち、あちらこちらに転がった。藤澤と拾うのを手伝う。「すみませんっ」と走り去ろうとする後ろ姿に「廊下は走るな!」と声をかける。文化祭前の放課後は騒々しい。
合同創作ダンスが文化祭クラス発表とみなされた高2を除き、他の学年は来週に控えた文化祭の準備で大詰めだ。そこかしこで大声や物音が響き、講堂からは軽音学部や有志のバンドの演奏が聴こえてくる。
高2も有志での企画はできるので、篤人もバンドを組んでボーカルでもするのかと思いきや、何もやらないらしい。燃え尽き症候群にかかったみたいに、ぼうっと呆けている姿をよく見かけた。
ダンス指導と舞台裏極秘動画の編集で忙しくしてたからかな、と想像する。あとでわかったことだが、篤人のクラスも振付で揉めていたようだ。S女子ダンス部の三浦さんが考えた高度な振りについていけない、とやる気を失くすやつらや、練習動画を配布しても全くやってこないやつらもいたんだとか。篤人が間に入り、うまくまとめていたらしい。
他のクラスも揉め事はあったと聞く。俺たちの作った動画に映らなかった、たくさんの葛藤と衝突。ただ全てが終わった今は、達成感や楽しかった思い出だけが残っていることを願っている。
「散らかってるけど、入って」
教室の半分くらいの大きさの部屋に、所狭しと洋画や邦画のポスターが貼られている。大型のカメラや黒くて細長いマイクをはじめ、映画製作に必要な機材のような物がひしめいている。
机に置かれたカチンコを鳴らしていると、藤澤に呼ばれた。パソコンとモニターを繋げ、動画編集ソフトを使い映像を加工していた。
「見慣れない物がたくさんあるだろ?」
「ああ。映画とかも撮るの? 自主映画っていうのかな」
「撮るよ。今度、出てよ。主役にするから」
「あー……まぁ、考えておく」
「それ絶対に出ないってやつだろ?」
「バレた?」
しかたねぇなぁ、と笑われ、画面に視線を戻す。
ちょうど騎馬戦シーンが流れていた。奇襲攻撃を仕掛けた篤人が、華麗に兜を奪う。
画面越しに見る篤人の姿が、なぜかしっくりときた。
こことは別の世界で生きている篤人。舞のことが忘れられないと宣言した篤人。
あの瞬間、大切に抱えていた想いが砕けた。不思議なくらい、一瞬だった。かき集めても元の形に戻らない。指の間から欠片がこぼれ落ちていくだけ。
篤人のことは変わらず特別に想っているけれど、以前とは別のものに変化してしまった。
水野さんが踊っている姿が映る。真剣な表情で舞っている。
水野さんは篤人の気持ちを知らない。さすがに言えなかった。彼女が傷つくから、という理由もあるけれど、俺がいやだ。静かに涙だけが溢れていく泣き顔は、心をえぐるように響く。
「どのクラスの演技も良かったよな。直接見られなかった人たちのためにも、いいもの作って上映しようぜ」
「そうだな」
パソコンの画面はエンディングシーンで静止された。同じ学校の生徒みたいな一体感があり、みんないい顔をしている。
俺たちF組が開催反対を主張し続ければ、実現できなかった光景だ。あの議論の日が遠い昔のことのように感じる。
思い返せばあの頃は、水野さんを傷つけるとわかっていても「篤人は舞のことが忘れられない」と伝えた。彼女が泣こうが喚こうが現実を知ることは必要だと信じていた。
だけど今は……。
心のざわめきは無視できないほど大きくなり、でも言葉にできるほど明確ではなくて、自分を包む濃い霧から抜け出せないままでいた。
「金木犀か。今年は遅咲きだな」隣を歩く藤澤も気がついたらしい。
「遅咲きなの?」
「ああ。例年はもう少し早いよ。今年の夏は暑かったからな。暑い日が続くと咲くのが遅くなる」
よく知ってるもんだな、と感心する。
立ち止まり、どこに咲いているのかと窓越しに探す。
「金木犀って、小さい花なのに遠くまで香りが届くよな。見つかった?」
「いや。ここからは」
植栽の前を、木材を抱えた数人の生徒が横切る。残念ながら、可憐に咲く黄橙色の花は見つけられなかった。
先に歩き出した藤澤に並ぶ。前から体操服を絵の具で汚した中等部生徒が走ってきた。すれ違いざまに、彼の持っていた絵の具のチューブが落ち、あちらこちらに転がった。藤澤と拾うのを手伝う。「すみませんっ」と走り去ろうとする後ろ姿に「廊下は走るな!」と声をかける。文化祭前の放課後は騒々しい。
合同創作ダンスが文化祭クラス発表とみなされた高2を除き、他の学年は来週に控えた文化祭の準備で大詰めだ。そこかしこで大声や物音が響き、講堂からは軽音学部や有志のバンドの演奏が聴こえてくる。
高2も有志での企画はできるので、篤人もバンドを組んでボーカルでもするのかと思いきや、何もやらないらしい。燃え尽き症候群にかかったみたいに、ぼうっと呆けている姿をよく見かけた。
ダンス指導と舞台裏極秘動画の編集で忙しくしてたからかな、と想像する。あとでわかったことだが、篤人のクラスも振付で揉めていたようだ。S女子ダンス部の三浦さんが考えた高度な振りについていけない、とやる気を失くすやつらや、練習動画を配布しても全くやってこないやつらもいたんだとか。篤人が間に入り、うまくまとめていたらしい。
他のクラスも揉め事はあったと聞く。俺たちの作った動画に映らなかった、たくさんの葛藤と衝突。ただ全てが終わった今は、達成感や楽しかった思い出だけが残っていることを願っている。
「散らかってるけど、入って」
教室の半分くらいの大きさの部屋に、所狭しと洋画や邦画のポスターが貼られている。大型のカメラや黒くて細長いマイクをはじめ、映画製作に必要な機材のような物がひしめいている。
机に置かれたカチンコを鳴らしていると、藤澤に呼ばれた。パソコンとモニターを繋げ、動画編集ソフトを使い映像を加工していた。
「見慣れない物がたくさんあるだろ?」
「ああ。映画とかも撮るの? 自主映画っていうのかな」
「撮るよ。今度、出てよ。主役にするから」
「あー……まぁ、考えておく」
「それ絶対に出ないってやつだろ?」
「バレた?」
しかたねぇなぁ、と笑われ、画面に視線を戻す。
ちょうど騎馬戦シーンが流れていた。奇襲攻撃を仕掛けた篤人が、華麗に兜を奪う。
画面越しに見る篤人の姿が、なぜかしっくりときた。
こことは別の世界で生きている篤人。舞のことが忘れられないと宣言した篤人。
あの瞬間、大切に抱えていた想いが砕けた。不思議なくらい、一瞬だった。かき集めても元の形に戻らない。指の間から欠片がこぼれ落ちていくだけ。
篤人のことは変わらず特別に想っているけれど、以前とは別のものに変化してしまった。
水野さんが踊っている姿が映る。真剣な表情で舞っている。
水野さんは篤人の気持ちを知らない。さすがに言えなかった。彼女が傷つくから、という理由もあるけれど、俺がいやだ。静かに涙だけが溢れていく泣き顔は、心をえぐるように響く。
「どのクラスの演技も良かったよな。直接見られなかった人たちのためにも、いいもの作って上映しようぜ」
「そうだな」
パソコンの画面はエンディングシーンで静止された。同じ学校の生徒みたいな一体感があり、みんないい顔をしている。
俺たちF組が開催反対を主張し続ければ、実現できなかった光景だ。あの議論の日が遠い昔のことのように感じる。
思い返せばあの頃は、水野さんを傷つけるとわかっていても「篤人は舞のことが忘れられない」と伝えた。彼女が泣こうが喚こうが現実を知ることは必要だと信じていた。
だけど今は……。
心のざわめきは無視できないほど大きくなり、でも言葉にできるほど明確ではなくて、自分を包む濃い霧から抜け出せないままでいた。
