失われるとわかっていても、君の隣を手放したくない

 濡らしたタオルで目を冷やす。(まぶた)の腫れを感じながら、こんなに泣いたのはいつぶりだろうかと考えていた。
 水野さんを盗み見る。鏡の前で顔を確認しているらしい、泣き腫らした顔が映っている。瞳も鼻の頭も赤みを帯びて、まるでうさぎみたいだ。
 こんなに泣かせたのは俺だ。なのに「ぶさいくだな」としか言えない自分を呪う。

 外のざわつきが止んで、しばらく経っていた。もうみんな帰宅したのかもしれない。貴重品以外の荷物は更衣室に置くようになっていて、この控え室には何も置かれていないため、誰も入ってこなかった。正直、そこまで考えていなかったが、結果的に良かった。
 といっても、ここにいつまでもいられるわけでもない。施錠される前に出なければならない。もうそろそろ、と帰ろうとした水野さんを呼び止める。

「その格好で?」
「あ!」
 
 彼女はまだ衣装を着ている。体操服姿の俺を見て、「和田くんだって体操服じゃない!」と慌てる。

「俺は荷物こっちに持ってきてる。貴重品は身につけてるから預けてないし」
「えー! あれだけ控え室に荷物持ってこないでって言われてたじゃん!」
「控え室のほうが会場に近いじゃん。俺は衣装に着替えるわけじゃないから荷物も少ないし。水野さんたちが演技前にこっちに入ったとき、荷物まるごと移動させといたの。結果的によかったな」
 
 今となっては本当によかったと胸を撫で下ろす。こんな顔で外に出られたもんじゃない。

「ちょっと、わたし行ってくるから!」と控室から飛び出したかと思うと、叫び声が聞こえてきた。

「どうした!?……篤人!」
 
 セーラー服の入った紙袋を下げている篤人が立っていた。

「和田ちゃんのことが気になって、帰る前に阿部と控え室に寄ろうとしたら、水野の荷物持った橋本に会ってさ。これ、渡された。貴重品も入ってるって。水野の荷物を俺が待ってちゃヤバイでしょって言ったんだけど、阿部と帰っちゃってさ……」

 気まずい顔をしながら紙袋を差し出す。たしかに、これを男子高校生が持っていることは問題だろう。

「あ……そっか、ごめん。ありがとう」

 うつむきながら荷物を受け取る水野さん。泣き腫らした顔をみられてしまうからだろう。水野さんには申し訳ないが、俺もこの顔を見られたくない。「着替えてくる」と呟き、控え室の扉を閉めた。視界の端を慌てた顔がかすめる。
 無事に逃げられたとほっとして、とりあえず着替えることにした。

 しばらくして、ふいに水野さんの声が響いた。
 扉の近くに寄って、制服のボタンを留めながら耳を澄ます。

「じゃあ、水野の好きな人って誰?」

 ボタンを留める手を止める。

「い……言わないでしょ」
「うーん、阿部かな?」
「ちがうちがう」
「菅野?」
「ちがう」
「わかった!百田だ!」
「ちがうし、てか誰それ」
「じゃあ、もしかして——」

 おいおいおい。篤人の誘導尋問に引っかかってるんじゃねーよ!!
 シャツのボタンを留めきらないまま、勢いよく扉を開ける。

「和田ちゃん、そんなに慌てて出てこなくてもー。シャツめっちゃ開いてるよ?」
「いいっ、俺はとりあえずこれでいいからっ、水野さん、着替えてきて」
 
 強制的に控え室へと送り込んだ。
 くすくすと笑う篤人の隣で、ボタンを留めていく。

「水野といるときの和田ちゃん、好きだよ」

 無防備ななか、さらりと呟かれた言葉だったから、うまく捕まえることができなかった。
 今、なんて……?
 
「よく笑うし、よくしゃべる。すごく楽しそう。うまくいくといいな、水野と」

 胸がきりっとひきつれる。俺が仕組んだことなのに、純粋な応援が痛い。

「俺が好きなのは舞だよ。水野じゃない。だから安心してよ」

——好きなのは、舞。
 言葉が突き刺さる。溢れそうなほど膨らんでいた篤人への気持ちが破裂する。ばらばらと散っていく。
 あんなに大事にしていたものが、一瞬で粉々になる。

「とりあえず、合同創作ダンスおつかれさま! 打ち上げすっか! 水野! 帰りにアイス買おうぜ!」

 扉越しに篤人が叫んだ。
 無邪気な横顔。すぐ隣にいるのに、なぜだろう、別の世界のものに感じる。
 手を伸ばしたら届きそうな距離にいるのに、届かない。いや、届きようもないのだ。
 
 篤人はここにいない。別の世界にいる、そこは舞のいる世界だ。
 俺と水野さんがどれだけ強く想っていても、彼のいない世界で愛のうたが木霊するだけ。
 すべて無駄なのだと悟る。

 まだ火照っている瞼に、冷たい指先が触れた。