失われるとわかっていても、君の隣を手放したくない

 自習からの帰り道、通り過ぎようとした公園から鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
 切なく響く、夏の終わりを教える声。
 もう少し聞いていたくなり、公園の中のベンチに座った。
 
 夜の10時すぎ、公園内はひっそりとしていた。生垣や遊具は黒い塊と化し、日中に見るものとは別物に感じる。
 鈴虫の鳴き方が変わった。雌が近くにいるとき、その鳴き声は長く優しく変わる。

 夏の終わり、切なく響く愛のうた。

 空を仰ぐと、街灯が風に揺れる木の葉を照らしていた。どこか寂しげで、ひとりみんなから離れる水野さんを思わせた。いろんなものをひとりで抱えていて潰れそうにみえる。
 思い立って電話をかけてみることにした。何回目かのコール音が途切れる。

『……もしもし』
「水野さん? 俺」

 背後を過ぎる車のエンジン音にかき消されそうになる。

『外にいるの?』
「うん。塾の講習のあと、自習室で勉強してて、いま帰るところ」
『そっか……おつかれさま』
「うん」

 スマホ越しの声はどこか幼く、そして疲れているように聞こえた。
 自分から電話をかけたものの、切り出し方に迷い黙ってしまう。沈黙のまま、車やはしゃぐ学生たちが通り過ぎていく。
 
『あの……』
「ん?」
『なにか用事……だった?』

 そうなるよな。小さく咳払いをして仕切り直す。

「用事っていうか……水野さん、最近疲れてない? 連日のダンス練習で、体力的にきついっていうのはあるだろうけど。それとは別に、なんかこう……悩みがあるんじゃないかって……」

 悩みがあれば聞くよ、と素直に言えない。
 ためらうような間のあと、彼女が静かに語りだした。

『悩みっていうか……凜花と、表面上は元に戻ったみたいになってるけど、やっぱりどこか違くて。全部話してないから、ほんとのところどう思われてるか不安っていうか……』
「そう……」
『……桐島くんとも、わたしのほうが意識しちゃって、うまく話せない。やっぱり、マイさんのことが頭から抜けない。気になって、こんな気持ちでダンスできない』
「うまく気持ちを切り替えられない? 俺も、篤人とあんな風に言い合いしたことないし、なんとなく話すようにはなったけど、あの話題に触れてないぶん解決もしてないよ。だけど、それはそれ、これはこれ、だし。合同創作ダンスを成功させたいんなら、気持ちを切り替えて——」
『そうしようって思ってもできないの』

 苛立ちをあらわにした声に、身構える。正論をぶつけるような言い方をしてしまったと、反省しても遅かった。
 正しい振る舞いなんてわかっているんだろう。できないから悩んでいるのに。

『そもそも和田くんがわたしのことが好きなんて言わなければ、凜花に誤解されなくて済んだんだよ?
 普通に桐島くんのことを好きでいたかった。かなわない想いかもしれないけど、和田くんの気持ちなんて知らなければ、普通に好きでいられたのに』

 ひとつひとつの言葉に熱が込められている。聞かなければいけない、彼女の本音を俺が全部。どんな言葉も受け止めなければ。全ては俺のせいだ。全部、俺がかき乱した。
 スマホを握る手に力を込めた。

『和田くんがいなかったら——』
「言っていいよ。全部」
「え?」

 投げやりに返していると思われないよう、諭すように告げる。

「俺が篤人を好きなこと。だけど、俺は篤人に好きになってもらえない。篤人は、異性愛者だ、そして舞が忘れられない。水野さんは舞に似てるから、篤人が好きになる可能性はある。だから、俺は水野さんのことが好きだという嘘を広めた。篤人は、友達の好きな人を好きにならないだろうから。全部言っていいよ」

 本音を言うのは苦手だ。震える声に気がつかれたくない。同情を誘いたくなんてない。

『……ごめんなさい』

 想定外の言葉に心が揺れる。
 胸がひきつれるように痛む。

「なんであやまるの? 水野さんを責めてるわけじゃないよ。巻き込んだのは俺だよ。責められるべきは俺で、だから水野さんは悪くない。水野さんの言う通りだよ。俺がいなければ、水野さんは普通に篤人のことが好きでいられたのに……」

 俺のこと、傷つけてよ。再起不能になるくらい。会いたくもない、口も聞きたくない。おまえのせいだからって。もっと責めてほしいのに。

『……和田くん?』
 
 暗闇を探るような彼女の声が伝わる。

『和田くん、泣いてるの!?』

 鼓膜を突き破るくらいの大声に、体がびくんと跳ねる。

「泣いてねぇよ、バーカ」

 なんでそうなるんだ!?

『そっか、よかった……ん? バカってなに!』
 
 気がついたように騒ぎだす水野さんに笑っていると、覚悟を決めたしっかりとした声が聞こえてきた。

『わたし』
「うん?」
『わたし、言わないよ。和田くんが、さっき言っていいって言ってくれたこと全部。言わない』

 ……どうして……
 
『それと、和田くんがいなかったら、なんて言ってごめんなさい。完全なる八つ当たり。みんなで心をひとつにしなきゃいけない時期なのに、できてないからモヤモヤしちゃって……。凜花には、ちゃんと話してみる』

 なんだよ、この子。どうしてこんなことを言えるんだ。
 胸がくるしくなって、じんわりと視界が滲んでくる。なにやってんだ、俺が泣く権利なんてないだろう。瞬きをしてやり過ごす。

「……みんな、いろんな想いを抱えてる。俺はそれでいいと思ってるよ」
『そうかな?』
「そうだよ。だからあんまり考え込まないで。って、俺が言うことじゃないけど」
『ほんとだよ』

 ふたりで笑い合い、夜空を仰ぐと、月と目が合った。
 あと少しで満ちるだろう、わずかに欠けた月。

『月?』

 声に出していたようだ。あと少しで満月だね、だいぶ夜が早くなったと、同じ月を見上げながら話す。
 秋の初めの涼しい風が、俺の心を撫でていく。今までにないくらい、凪のように落ち着いていた。

「……水野さん、ありがとう」
『どういたしまして』

 彼女のやわらかな声が耳元をくすぐる。同じ月を見上げながら、心が繋がっていくのを感じた。