失われるとわかっていても、君の隣を手放したくない

 打ち合わせが終わる頃には、校内はがらんとしていた。日は傾き始めても、日中の暑さをひきずるように熱を失わない空気に包まれる。
 吐き気がした。蝉の鳴き声が頭の芯まで響いてくる。限界かもしれない。
 隣を歩く水野さんに、休んでもいいかと訊く。
 世話になりたくなかったが、そんなことを言える状況でもなかった。
 彼女は慌てる様子もなく、さっと俺の荷物を持ち、日陰のベンチまで連れて行ってくれた。

「ひどかったら保健室いこう。先生まだいるかな……」
「いや、少し休めば大丈夫。ちょっと疲れて頭が痛いだけだから」

 うつむき、溜息をつく。
 水野さんに頼っているなんて、情けない。
 今からこんなに疲れていて、撮影の仕事をきちんとこなせるのだろうか。全部、俺がやらなきゃいけないのに。
 自分から言い出したこととはいえ、彼女のことが好きだと、本心とはちがうことが広まっていることの痛みも抜けない。
 どうしたらいいのか、どうしたいのか、よくわからない……。

「ハイ」

 差し出されたペットボトルの水と、水野さんを交互に見つめる。
 もしかして、わざわざ買いに……?

「おごり」
「あ、ありがとう……」

 受け取ると、俺の隣に腰を下ろした。
 それきり何も問わず、何も言わない。
 ただ、隣にいてくれた。

 ふわっと、体の底からゆるくほぐれていく。
 体調の悪いときにあれこれ訊かれるのはしんどいけど、誰かにそばにいてほしい。こんな風に。

 水の冷たさが、パンク寸前の頭と心に優しく沁みる。
 目の前にある噴水から、流れる水の音が聞こえる。騒がしい蝉の鳴き声をかき消して、静寂に包みこもうとする。
 耳を澄ます。
 頭の中を荒れ狂っていたうねりが小さくなり、静かに凪いでいくのを感じた。

 隣に座る水野さんを盗み見る。
 その横顔は憂いを帯びていて、手放せない想いをどう扱えばいいのか迷っているように見えた。
 手を差し伸べなければ消えてしまうくらいの儚さ。
 比べればたしかに舞によく似ているから、見た目に引きずられて、あたかも舞と接するようになってしまっていたけれど、ふたりはまったくの別人なのだと強く感じる。

「……水野さんは、夏休みどこか行ったりするの」
 
 はっとしてこちらを見た水野さんが、わずかに表情を和らげる。

「……よくなってきた?」
「うん、だいぶ。ありがとう。で?」
「えっと、夏休みは……ロンドンに行く。あ、でも少しの間ね」
「ロンドン? 旅行? 語学研修?」

 聞くと、彼女は父親のロンドン駐在についていくか迷っているらしかった。この夏ロンドンに滞在してみて、今後のことを決めるらしい。母親には系列のS大学理系学部への進学をすすめられているが興味がなく、かといって他にやりたいこともないので、いっそのことロンドンに行ってしまうのも悪くないかも、と呟く。

「ロンドンに行ってみて考えてみれば。良い機会であることは確かだし」
「でもわたし、ダンスリーダーだし……」
「練習に入ったらダンス指導役中心になるだろ。ロンドンにいたって連絡はとれるし、問題ないだろ」
「そうだね……。和田くんは医学部志望だよね。ご両親がお医者さんなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。見てのとおり、昔から病弱でさ。入院することが多くて……。学校にも行けないし、ふさぎ込んでたところで元気づけてくれたのが主治医や看護師さんで、すごく感謝してる。そこから将来は俺も医者になりたいって思った」

 篤人とは面会時間しか会えなかったし、両親も仕事や歳の離れた妹の世話で忙しく来られないことが多かった。清潔に管理された部屋で沈んでいく俺を繋ぎとめてくれたのは、主治医や看護師さんだった。激務だろうに、いつも変わらない笑顔で接してくれた。

「しっかりとした動機があってすごいなぁ……」

 褒められて、不覚にも照れ笑いが漏れた。
 医学部を目指していても動機について語ることはほどんどなく、どうしても目先の成績に一喜一憂して初心を忘れてしまう。
 医者になろうと決めたころ、過去へと記憶が泳いでいく。病院で初めて会った日の翌日、篤人が約束どおり面会に来てくれたことがどれだけ嬉しかったか。それから毎日のように通ってくれたことに、どれだけ感謝したか。

「……篤人が、いつも病室に来てくれた。学校でしたことを教えてくれて、一緒にカードゲームで遊んで、本を読んで……」
「へぇ、すごく楽しそう」
「楽しすぎて笑いまくってたら、俺の咳が止まらなくなって大変なときもあったな」
「え!? 大丈夫だった?」
「ああ。苦しかったし、あとで叱られたけど、篤人と会えなくなるのはいやだった」
「そう……」
「楽しくて時間が過ぎるのが早くて、いつもふたりで『面会時間、もう終わりなの!?』って」
「わかる〜。桐島くんが帰った途端、明日を待っちゃうよね。待つ時間って長く感じるけど、いやじゃないのが不思議。ワクワクしながら待って、時間がちかくなったらソワソワして、桐島くんが来てくれたときには、もうなんか『わ~!』って」
「あはは。そうそう」

 すらすらと言葉が出てくる。話しやすい。
 それはきっと、水野さんがきちんと話を聞いてくれて、落ち着いた声で自分のことも話すからだろう。群れて騒ぐだけで、人の話は聞かないし自分の本心も言わない生物が女だと思っていたけれど、彼女はちがうらしい。
 彼女を覆っていた舞という仮面が、みるみる剥がれていく。

「篤人、あのころから、あんな風に笑うんだ。顔全体で笑うっていうのかな……ほんとうに楽しそうに、心から笑うんだ。あの笑顔に何度助けられたか」
「桐島くんの笑顔って、すごいよね! こっちまで嬉しくなるっていうか……。つらいことがあっても、桐島くんが笑ってくれたら何でも頑張れるって、そう思う!」

 興奮して語る水野さんの表情を見て、はっと息を呑んだ。

 彼女の笑顔を初めて見た。

 つんとした冷たい印象からは程遠く、花のつぼみがほころぶように、ふわり、とやわらかくほどける。
 舞は真顔の冷たい印象を崩さないまま、口の端を上げる程度にしか笑わなかった。

 全然似てないじゃないか。彼女は水野さんだ。
 そんな当たり前なことを見せつけられる……。「……笑った顔、はじめて見た」
 
「似てないんだな、笑った顔は」

 そうか。あの打ち合わせの日、水野さんの笑顔を見た篤人は、舞との違いを見せつけられたのだ。だから逃げるように帰った。
 求めていた人ではないのだと痛感して——

「……誰に……」

 震える声に、迷う。俺が言うべきことでないかもしれない。
 ただ、彼女のこの反応、もしかしたら何か勘づいているのかもしれない。篤人の視線や言葉、行動が、自分を通して誰か別の人に向けられていることに。
 もしそうなら、ここで俺が言うべきだ。

「篤人の元カノ。……篤人は今もまだ、好きだとおもう」

 揺れる髪の隙間から、驚きに満ちた瞳がのぞいた。