失われるとわかっていても、君の隣を手放したくない

 音もなく、まるで霧のように柔らかい雨だった。
 コンクリート上に点々と増えていく染みが目に入らなければ、気がつかなかったほどの、雨。
 ふいに胸の辺りが苦しくなる。気圧の変化のせいだろう。軽く咳払いをしてやり過ごす。

 喘息の発作が再発し、入院をしていた。病棟内は歩き回れるけれど、中庭に出ることは禁止。
 今、その中庭で雨に包まれている。
 怒られるかなぁ、苦しくなって眠れなくなるかなぁ。他人事のように、ぼんやりと考える。

 ぬるい空気のなか、ミストのように降る春の雨。
 雨というか……こぼれおちてしまった溜息みたい。春の、ため息。

「濡れるよ! だいじょうぶ?」

 背後で声がした。振り向くと、俺と同い年くらい、小学4、5年くらいの男子がジーンズのポケットをひっくり返して何かを探している。入院着じゃないから、患者の兄弟か? 眺めていると、はたと目が合った。
 さらりとした黒髪と、人懐こそうな顔。見覚えがある。
 同じ学校、同じ学年の、たしか——

「ハンカチ入れたのに、ない」

 神妙な顔つきでそんなことを言うものだから、思わず吹き出してしまった。

「それ、最初から入れてないってことだろ」

 パジャマの胸ポケットからハンカチを出しながら近づく。前に立つと、俺よりも頭ひとつぶん背が高かった。

「何に使うの?」
「俺にじゃなくて、君! 濡れてるだろ」 

 渡したハンカチで頭を拭かれる。「入院中だろ、風邪ひくぞ」わしゃわしゃと頭を動かされ、軽いめまいがした。

「や、やめてって……桐島くん!」

 手が止まった。「なんで俺の名前知ってんだ」顔をのぞきこまれ至近距離で目が合い、わずかに動揺する。 

「俺、同じ学校。学年も一緒だよ」
「え!? 小5なの? てか男?」

 ふざけんなと睨みつける。俺はチビだし、よく女子と間違われるのだ(顔つきのせいなのか、体つきのせいなのかよくわからないけど。もはや知りたくもない)。

「あはは、ごめんごめん。名前は?」
「……2組の和田一臣(わだかずおみ)
「同じクラスじゃん! あー、そういえば和田っていたかも……でも学校来てないよね?」

 こくりと頷く。先週から新学期が始まっているけれど、俺は学校に行けていない。始業式の直前に体調を崩し、しばらく休んでいたところで喘息の発作が再発し、入院が決まった。

「で、桐島くんはなんでここに」
「父さんがここで働いてて、ちょっと用事があってさ。それより! 濡れるから中に入ろうぜ」

 引っ張られた腕を強張らせた。
 どうした、と目で訊かれる。

「病室にいてもつまらない」

 テレビもゲームも飽きてしまった。本はすべて読み尽くした。 憂鬱な気持ちを少しでも和らげるようにと、ところどころに描かれた動物の絵さえ見たくない。繰り返される入退院のせいだろう。
 閉じた世界はいやだ。外に出たかった。誰かと話したかった。
 そう、こんなふうに……。

 桐島くんは考えるように空を仰ぎ、降る雨に目を細めた。

「わかった! 病室で俺となんかしようぜ」
 トクン、と胸が鳴る。「……いいの?」
「面会時間中なら構わないだろ。個室?」
「個室だけど……」
「サイコーじゃん! 俺、学校終わったら明日もここに来るわ!」

 トクン、トクンと答えるように胸が鳴る。こみ上げる嬉しさで、口元が緩んでいくのを抑えられない。なんだかとても恥ずかしくなって、わざと眉間に皺を寄せて迷惑そうな風を装ってしまう。 

「だめ……だった?」

 桐島くんが、しゅんとしてそう呟いたのを、首をぶんぶんと振って否定する。「だめ、なんてそんな……」
「よかった! まじで明日、楽しみにしてる!」

 桐島くんが、笑う。
 雨はたしかに降っているのに、目の前が晴れ渡った気分になる。桐島くんは笑顔がステキ、と学年中の女子が騒ぐのもわかる。くしゃっと顔全体で笑う、愛嬌たっぷりの笑顔。
 なんだろう、この気持ち。胸が苦しい。でも、気管支が狭まるときの痛さとも違う。いやじゃない。いやじゃないんだけど、泣きたくなるほど沁みてくる。
 病棟へと戻る背中に、心の中で声をかける。
 桐島くん、ありがとう——


 その日から、俺の心の中にはいつも桐島くんが、篤人(あつひと)がいた。篤人の笑顔が好きだった。この想いが友情なのか恋なのか、そんなことはどうでもよかった。
 篤人に好きな人がいても、どうしようもなく、止められる術もなく想い続けてしまう。
 優しく降り注ぐ春の雨のように、気づかれないことを祈りながら。
 
 俺はそれでよかったのに。
 彼女に出会うまでは。