稲穂と麺太の日常

 稲穂が帰宅すると、いつも通りソファーの足元に座った麺太が、スマホを睨み付けて唸っていた。

「ただいま。どうかしたか?」
 訊ねながら、稲穂は下校途中に寄ったスーパーで購入した食材を冷蔵庫に入れるべく、台所へと向かった。麺太の様子は食材を仕舞いながらでも窺える。作業台に持っていたエコバッグを置くと、その音に反応したかのように麺太が稲穂に視線を向けた。
 そもそも可愛らしい顔立ちの麺太だが、眉根を寄せる姿は物珍しさもあって余計に可愛く見える。普段ふざけて怒る時には顔が笑っているから、これは本当に何かあったのだろう。
「稲穂ちゃん……むずい……」
「何が?」
 麺太はすぐには返事をせず、立ち上がりながら、スマホを傍にあるローテーブルの上に置き、稲穂の元に来て、彼の肩に顔を埋めてきた。
「お題、むずい」
「……何のお題だよ」
 心当たりがないので更に訊ねれば、くぐもった声で麺太は答えを口にする。
「小説のお題。……ほら、いつも僕が小説を投稿してるサイト、公式だったりユーザーだったりが、他の人に向けてお題を出せたりするんだけどさ」
「賞、みたいなやつか?」
「そういうのもある時はあるけど、だいたいは、こういう話が読みたいです、とか、腕試しとか修行として、みたいな感じで気軽に募集してるかな」
「ほーん」
 楽しそうなことしてんだなとぼんやり考えながら、ひとまず、稲穂はエコバッグの中から食材を出していき、作業台の上に並べていく。麺太が肩に顔を埋めたままだから、手が動かしにくい。それでも引き剥がす気が起きないのは、まあ、そういうことだ。
「僕が今こんな状態になっているのも、このお題で何か書いてみて、無理のない範囲で、楽しく読み合いしましょう、っていうやつなんだけど」
「また天パ攻め出すのか?」
「知らないの? 僕は天パ攻めの素晴らしさを世に広める使命を帯びているんだよ?」
「知らねえよ」
 空になったエコバッグを畳み、購入した食材が全て揃ってるか確認した後、稲穂は麺太のつむじを見た。いつも通り変わらない、麺太のつむじ。撫でてやったら調子に乗りそうだなと思いながら、稲穂は口を開く。
「仕舞っていいか?」
「………………うん」
 すごく機嫌の悪そうな「うん」であり、一度強く稲穂の身体を抱き締めてから、麺太は離れていった。彼の顔を見ると恨みがましそうな目を向けられたが、冷凍食品を仕舞いたかったのだから勘弁してほしい。
 冷凍食品を最初に仕舞い、それから残りの食材を仕舞っていく稲穂。麺太の視線を強く感じるが、あまり気にせず、冷蔵庫の中身を見て、夕食を作るのに必要な食材を取り出していった。
 この家での夕食担当は稲穂だ。いつも帰りが遅い父には仕事に集中してほしいし、麺太も作れるがレパートリーが少ない。自然と稲穂が担当になった。ちなみに父は朝食と弁当担当。麺太の分まで作ってくれる。
「今夜はピーマンのツナ詰めと、じゃがいもの味噌汁な」
「ツナ詰めにチーズ乗せてくれる?」
「もちろん」
 答えると、麺太は少し笑ってくれた。機嫌が治ってきたかと、稲穂の口角が上がるが、一瞬で麺太の笑みは消え、口を尖らせ始める。
「でさ、今回のお題が土星なんだけど、全然話が思い浮かばなくて」
「土星? 何で土星?」
「知らない」
「……土星って、あのフラフープみたいなやつがあるのだよな?」
 稲穂が訊ねると、麺太はこくりと頷いて、溜め息を溢した。
「土星でどうやっていちゃいちゃさせればいいの……?」
「別にいちゃいちゃしなくてもいいんじゃねえの?」
「駄目だよ。天パ攻めが思いっきり受けを溺愛する物語を世に広め、読者の心を激しく掴んで天パ攻めの虜にし、他の書き手をどんどん増やしていって、天パ攻めがボーイズラブの中で最高の攻めだということを世に知らしめないといけないんだから」
「何がお前をそうさせんだよ」
「鏡見なよダーリン」
 ……ダーリンって。いや、ダーリンだけれども。
 頬に熱を感じ、稲穂はそっと麺太から顔を逸らした。覗き込もうとする視線を感じたから、拒むように稲穂は言葉を紡ぐ。
「さっ、散歩とかしたらどうだ。徒歩でも、自転車でも、車でも」
「いきなりなーに? 僕、まだ中学生だから、車の免許持ってないけど?」
「いや、そういうことじゃなくて……お題」
「お題?」
「土星の、フラフープ。あそこ散歩する話とかどうだよ」
「……」
 黙り込んでしまった麺太の方は見ずに、調理道具の準備をしていく稲穂。毎日やっているからか、手際がいい。
 袋から取り出したピーマンをまな板の上に乗せ、包丁を握ったタイミングで、麺太が声を上げた。

「それだ!」

 麺太の声は思いの外大きく、少し肩が跳ねてしまったが、指を切るようなヘマはしていない。
「それで書いてみる! ありがとう稲穂ちゃん! 大好き!」
 素早い足取りで近付いたと思ったら、稲穂の頬にキスを落として、麺太は定位置に戻っていく。全ては一瞬のこと。
「……。……っ!」
 ボンっ!
 そんな音が出たかのように、稲穂の顔は盛大に赤くなり、思わず包丁を置いて顔を両手で覆ってしまった。絶好のからかいのチャンスだが、執筆に集中している麺太は気付かないまま、満面の笑みでスマホを眺めているのだった。