稲穂が帰宅すると、いつも通りソファーの足元に座った麺太が、スマホを睨み付けて唸っていた。
「無限、無限なんじゃないかな……」
そんな風に呟く麺太に首を傾げつつ、またお題で悩んでいるんだろうと結論付けて、稲穂もまたいつも通りに冷蔵庫へと向かった。
エコバッグの中身を仕舞い、夕食に使う材料を取り出す。野菜炒めと豆腐の味噌汁。もう一品欲しいなと、稲穂も唸りだした。ソーセージ、ミートボール、ハム、卵、エリンギ、と思い浮かべていき、エリンギ? となってすぐ、野菜室を見た。
今朝、稲穂の父が言っていた。職場の同僚の人からエリンギをもらったから食べていいと。合計で六本くらいあるようで、久し振りだから少し嬉しい稲穂。醤油炒めにしようか、なんて考えていたら、扉が閉まる音がした。
野菜室の引き出しを戻して辺りを見回すと、麺太の姿がない。ローテーブルには麺太のスマホがあるから、トイレか? と考えて、稲穂は再び野菜室を見た。やっぱり醤油炒めだなと、エリンギを全て取り出した。
鼻唄混じりに食材を切っていく稲穂。人参、玉ねぎ、ピーマン、キャベツ、それからエリンギ。ボールの中にそれぞれ入れていき、豆腐も切らねばと顔を上げ──声もなく驚いた。
作業台を挟んだ向かい側、麺太が立っていた。真顔で。
麺太の手には、テレビ台の下にいつも仕舞っている、百円ショップで買った手鏡があった。柄の部分が折り畳めて、机の上に置いて使えるタイプだ。
そんなの持ってどうして突っ立っているんだ、と思いながら、稲穂は麺太の名前を呼んだが、彼は返事をしなかった。もう一度呼んでも同じで、おい、と声を掛けたら、ようやくその口を開いた。
「合わせ鏡」
それだけ。それ以上は何も言わない。
合わせ鏡がどうしたんだよと訊いても、口は閉じたまま。稲穂は包丁を置いて、麺太の元に向かった。
「麺太、合わせ鏡が何だ? 次の小説のお題か?」
「……」
「おい、麺太」
「──合わせ鏡をやったらいけない」
稲穂の目をしっかりと見ながら、麺太が告げる。
「……何で、駄目なんだ?」
答えるだろうか、と思いつつ、稲穂は訊ねた。今度はすぐに答えてくれるようで、閉じていた口はゆっくりと開かれた。
「鏡が合わさると、道ができる。こちらの人間は向こうに行けるし、向こうの人間はこちらに来れる」
「……で?」
稲穂が促すと、麺太は鏡を持っていない方の手で、稲穂の手を取った。
「こんな風に、触れた。入れ替わるのは一瞬のことだった」
「……」
稲穂といる時の麺太は、いつも楽しそうに笑みを浮かべている。こんな真顔のままでいつまでもいられるような奴ではない。
「つまりお前は、俺の麺太じゃないって?」
「……」
答えは、返ってこなかった。
目の前にいて、稲穂の手に触れている少年が、麺太ではないかもしれないというのは、いくら顔が麺太と一緒でも嫌だ。稲穂が知っている麺太は──稲穂の恋人である麺太は、稲穂が一緒に育ってきた彼だけなのだ。
「……あのよ」
稲穂は素早く、触れられている手を動かしていき、恋人繋ぎの形にした。相手の眉が動いたが、気にせずに口を開いた。
「お前は、自分と同じ顔をした奴が、俺に触ったり、キ……ちゅ、ちゅーとか、それ以上のことすんのは、いいのかよ」
「………………絶対やだ、ありえない」
やだやだやだと言って、抱きついてくる麺太は、いつも通りの麺太だった。
「いくら鏡の住人が僕にそっくりでも、そんな奴と浮気なんて絶対駄目なんだからね! 普通の浮気よりも許せないよ! ありえない、ありえないったらありえない!」
「……ネタの為に身体張ったわけか。洗面台の鏡とそれで合わせ鏡やってきたのか?」
「無限だった」
無限だったらしい。
「稲穂ちゃん、絶体僕と浮気しないでよ。お願いだから、絶対ね、絶対」
「お前も、向こうの俺と浮気なんかすんなよ」
「しないよ、信じて」
「じゃあ、俺のことも信じろよ」
信じるから絶対やめてと告げる声は、若干泣いているようで。
自分から始めたことじゃねえか、と思いながら、稲穂は慰めるように麺太の背中を撫でるのだった。
「無限、無限なんじゃないかな……」
そんな風に呟く麺太に首を傾げつつ、またお題で悩んでいるんだろうと結論付けて、稲穂もまたいつも通りに冷蔵庫へと向かった。
エコバッグの中身を仕舞い、夕食に使う材料を取り出す。野菜炒めと豆腐の味噌汁。もう一品欲しいなと、稲穂も唸りだした。ソーセージ、ミートボール、ハム、卵、エリンギ、と思い浮かべていき、エリンギ? となってすぐ、野菜室を見た。
今朝、稲穂の父が言っていた。職場の同僚の人からエリンギをもらったから食べていいと。合計で六本くらいあるようで、久し振りだから少し嬉しい稲穂。醤油炒めにしようか、なんて考えていたら、扉が閉まる音がした。
野菜室の引き出しを戻して辺りを見回すと、麺太の姿がない。ローテーブルには麺太のスマホがあるから、トイレか? と考えて、稲穂は再び野菜室を見た。やっぱり醤油炒めだなと、エリンギを全て取り出した。
鼻唄混じりに食材を切っていく稲穂。人参、玉ねぎ、ピーマン、キャベツ、それからエリンギ。ボールの中にそれぞれ入れていき、豆腐も切らねばと顔を上げ──声もなく驚いた。
作業台を挟んだ向かい側、麺太が立っていた。真顔で。
麺太の手には、テレビ台の下にいつも仕舞っている、百円ショップで買った手鏡があった。柄の部分が折り畳めて、机の上に置いて使えるタイプだ。
そんなの持ってどうして突っ立っているんだ、と思いながら、稲穂は麺太の名前を呼んだが、彼は返事をしなかった。もう一度呼んでも同じで、おい、と声を掛けたら、ようやくその口を開いた。
「合わせ鏡」
それだけ。それ以上は何も言わない。
合わせ鏡がどうしたんだよと訊いても、口は閉じたまま。稲穂は包丁を置いて、麺太の元に向かった。
「麺太、合わせ鏡が何だ? 次の小説のお題か?」
「……」
「おい、麺太」
「──合わせ鏡をやったらいけない」
稲穂の目をしっかりと見ながら、麺太が告げる。
「……何で、駄目なんだ?」
答えるだろうか、と思いつつ、稲穂は訊ねた。今度はすぐに答えてくれるようで、閉じていた口はゆっくりと開かれた。
「鏡が合わさると、道ができる。こちらの人間は向こうに行けるし、向こうの人間はこちらに来れる」
「……で?」
稲穂が促すと、麺太は鏡を持っていない方の手で、稲穂の手を取った。
「こんな風に、触れた。入れ替わるのは一瞬のことだった」
「……」
稲穂といる時の麺太は、いつも楽しそうに笑みを浮かべている。こんな真顔のままでいつまでもいられるような奴ではない。
「つまりお前は、俺の麺太じゃないって?」
「……」
答えは、返ってこなかった。
目の前にいて、稲穂の手に触れている少年が、麺太ではないかもしれないというのは、いくら顔が麺太と一緒でも嫌だ。稲穂が知っている麺太は──稲穂の恋人である麺太は、稲穂が一緒に育ってきた彼だけなのだ。
「……あのよ」
稲穂は素早く、触れられている手を動かしていき、恋人繋ぎの形にした。相手の眉が動いたが、気にせずに口を開いた。
「お前は、自分と同じ顔をした奴が、俺に触ったり、キ……ちゅ、ちゅーとか、それ以上のことすんのは、いいのかよ」
「………………絶対やだ、ありえない」
やだやだやだと言って、抱きついてくる麺太は、いつも通りの麺太だった。
「いくら鏡の住人が僕にそっくりでも、そんな奴と浮気なんて絶対駄目なんだからね! 普通の浮気よりも許せないよ! ありえない、ありえないったらありえない!」
「……ネタの為に身体張ったわけか。洗面台の鏡とそれで合わせ鏡やってきたのか?」
「無限だった」
無限だったらしい。
「稲穂ちゃん、絶体僕と浮気しないでよ。お願いだから、絶対ね、絶対」
「お前も、向こうの俺と浮気なんかすんなよ」
「しないよ、信じて」
「じゃあ、俺のことも信じろよ」
信じるから絶対やめてと告げる声は、若干泣いているようで。
自分から始めたことじゃねえか、と思いながら、稲穂は慰めるように麺太の背中を撫でるのだった。



