稲穂が帰宅すると、いつも通りソファーの足元に座った麺太が、スマホを睨み付けて唸っていた。
「無理、これ無理、絶対無理……」
けっこう弱音を吐いている。漫画だったらどよんとした背景が描かれていそうだ。どうしたんだよと麺太に向けて言いながら、稲穂がエコバッグの中身を冷蔵庫に仕舞うべく台所に行くと、麺太もスマホを放ってこちらに来た。
「バケツハット&サングラス」
「あ?」
謎の単語を耳にして、うっかり柄の悪い声が出た。
「バケツハット&サングラス! バケツハット&サングラス!」
「急に何だよ」
「次のお題!」
「……あー」
毎度恒例のあれだった。
──バケツハットって、何だっけ?
稲穂が呟くと、ちょっと待っててと口にして、麺太はソファーまで戻り、スマホを手に取っていた。画像検索するんだろうなとぼんやり思いながら、稲穂は手早く食材を冷蔵庫に仕舞っていく。そろそろ終わるという頃に、これだよと麺太が画像を見せてきた。見覚えのある帽子がスマホの画面に表示されている。
「……これ、バケツハットって言うんだな」
「みたい」
「これに、サングラス?」
「みたい」
「……うちにあった気がするな」
冷蔵庫の扉を閉め、麺太の手を取ると、ちょっと来いよと言って稲穂は歩きだした。
麺太を連れてきたのは、稲穂の父の部屋、その扉の前。父は今日も仕事で不在であり、いつも通り帰りが遅くなる。親父開けるぞといない人間に告げて、稲穂は扉を開けた。
中には足を踏み入れない。頭だけ入れて中を覗き込み、目的のものを見つけると、頭を引っ込めた。
「あれ、そうじゃねえか?」
稲穂が指差した先を麺太も覗き込む。ベッド脇のサイドテーブルに乗せられた白い帽子は、画像で見たものと同じだ。確かにと頷いて、麺太が顔を引っ込めると、稲穂は扉を閉めた。
「お袋の、だと思う。三人で海に行った時に、被ってた」
「……そうなんだ」
稲穂の母親は、数年前に病で亡くなっている。母の葬式で泣き崩れていた父の背中を稲穂は未だに忘れられないし、父が泣くのを見たのも、あれが最初で最後だ。
「その海でさ、親父はサングラス着けてきて、海を背景に何回もポーズ取っては、お袋や俺に写真取ってくれってねだってきてよ。誰よりもはしゃいでた」
「稲穂ちゃんのお父さんらしいね。……ありがとう、見せてくれて」
「実際に被ればネタが浮かびそうだが、さすがにそれは親父に無断でできねえしな」
「そこまでは大丈夫。それに、稲穂ちゃんにこうして見せてもらって、お話聞かせてもらえてさ、どうにかネタができそうなんだよね」
え、今ので? と稲穂は口にしようとしたが、満足そうな顔をする麺太を見て、口を閉じた。
「優しいお話になるように、頑張るね」
「ああ。……やっぱり、天パ攻めの話になるのか?」
「もちろん」
「グラサン着けた天パか……」
稲穂がちょっと疲れた様子で呟くと、脳内にそんな人物を思い描いたのか、麺太は自身の頬に手を添えて、うっとりした声音で囁いた。
「絶対かっこいい……」
ええ……と引く稲穂に構わず、よし書くぞと言って、一足先に麺太は戻る。その後ろ姿を見送った後、一度、父の部屋の扉を見つめてから、稲穂もリビングに戻った。
「無理、これ無理、絶対無理……」
けっこう弱音を吐いている。漫画だったらどよんとした背景が描かれていそうだ。どうしたんだよと麺太に向けて言いながら、稲穂がエコバッグの中身を冷蔵庫に仕舞うべく台所に行くと、麺太もスマホを放ってこちらに来た。
「バケツハット&サングラス」
「あ?」
謎の単語を耳にして、うっかり柄の悪い声が出た。
「バケツハット&サングラス! バケツハット&サングラス!」
「急に何だよ」
「次のお題!」
「……あー」
毎度恒例のあれだった。
──バケツハットって、何だっけ?
稲穂が呟くと、ちょっと待っててと口にして、麺太はソファーまで戻り、スマホを手に取っていた。画像検索するんだろうなとぼんやり思いながら、稲穂は手早く食材を冷蔵庫に仕舞っていく。そろそろ終わるという頃に、これだよと麺太が画像を見せてきた。見覚えのある帽子がスマホの画面に表示されている。
「……これ、バケツハットって言うんだな」
「みたい」
「これに、サングラス?」
「みたい」
「……うちにあった気がするな」
冷蔵庫の扉を閉め、麺太の手を取ると、ちょっと来いよと言って稲穂は歩きだした。
麺太を連れてきたのは、稲穂の父の部屋、その扉の前。父は今日も仕事で不在であり、いつも通り帰りが遅くなる。親父開けるぞといない人間に告げて、稲穂は扉を開けた。
中には足を踏み入れない。頭だけ入れて中を覗き込み、目的のものを見つけると、頭を引っ込めた。
「あれ、そうじゃねえか?」
稲穂が指差した先を麺太も覗き込む。ベッド脇のサイドテーブルに乗せられた白い帽子は、画像で見たものと同じだ。確かにと頷いて、麺太が顔を引っ込めると、稲穂は扉を閉めた。
「お袋の、だと思う。三人で海に行った時に、被ってた」
「……そうなんだ」
稲穂の母親は、数年前に病で亡くなっている。母の葬式で泣き崩れていた父の背中を稲穂は未だに忘れられないし、父が泣くのを見たのも、あれが最初で最後だ。
「その海でさ、親父はサングラス着けてきて、海を背景に何回もポーズ取っては、お袋や俺に写真取ってくれってねだってきてよ。誰よりもはしゃいでた」
「稲穂ちゃんのお父さんらしいね。……ありがとう、見せてくれて」
「実際に被ればネタが浮かびそうだが、さすがにそれは親父に無断でできねえしな」
「そこまでは大丈夫。それに、稲穂ちゃんにこうして見せてもらって、お話聞かせてもらえてさ、どうにかネタができそうなんだよね」
え、今ので? と稲穂は口にしようとしたが、満足そうな顔をする麺太を見て、口を閉じた。
「優しいお話になるように、頑張るね」
「ああ。……やっぱり、天パ攻めの話になるのか?」
「もちろん」
「グラサン着けた天パか……」
稲穂がちょっと疲れた様子で呟くと、脳内にそんな人物を思い描いたのか、麺太は自身の頬に手を添えて、うっとりした声音で囁いた。
「絶対かっこいい……」
ええ……と引く稲穂に構わず、よし書くぞと言って、一足先に麺太は戻る。その後ろ姿を見送った後、一度、父の部屋の扉を見つめてから、稲穂もリビングに戻った。



