稲穂が帰宅すると、いつも通りソファーの足元に座った麺太が、スマホを睨み付けて唸っていた。
もはや見慣れたなと思いながら真っ直ぐに台所へと向かい、エコバッグをいつもよりも乱暴に置くと、流しに手を置いて、稲穂は息を整える。乱れていた呼吸は、ゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。
「おかえり、稲穂ちゃん。何かあったの?」
稲穂の様子に異変を感じたのか、ソファーにいたはずの麺太が稲穂の元にやってくる。ちょっとな、と稲穂は言いながら、食器棚からグラスを取り出し、水道水を注ぎ入れて呷った。生き返るような心地だ。
大丈夫? と心配そうに背中を撫でてくる麺太に礼を言って、空になったグラスを手早く洗い、稲穂はざっくりと理由を説明する。
「ちょっと、追われた」
「え、何それ、誰に?」
「よく分からん占い師に」
「……ごめん、ちょっとよく分からないんだけど」
よく分からないなりに説明するとすれば、スーパーを出てすぐに、スーパーのベンチで店を開いていたっぽい占い師が立ち上がり、「今日は麻婆豆腐にしちゃ駄目よ! 麻婆茄子にしなさい!」と叫んできた。麻婆豆腐の気分だった稲穂は、無視して歩き出したが、占い師が後ろから追い掛けてきて、
「全力ダッシュで逃げてきた」
「……」
「安心しろ、多分撒けた」
あの人何だったんだろうなとぼやく稲穂に、麺太は何も言えない様子で、困惑を顔に浮かべ、そっと稲穂に抱きついてきた。
「そんな変な人、いるんだ。……稲穂ちゃんが無事に帰ってきてくれて、本当に良かった」
「……あのな、小中と徒競走でずっと一位か二位の俺だぞ? 高校に入ってからはリレーの選手にも選ばれるくらい脚が速いんだから、追われたくらいで捕まる俺じゃねえよ」
「それ、捕まったら殺されるタイプの鬼ごっこでも同じこと言える?」
「現実で参加することねえだろ、そんなもん」
実際に参加したら、ビビってうっかり転びそうだなとぼんやり考えながら、稲穂も麺太を抱き締める。麺太が更に力を込めてきて、そんな、不安にさせるつもりじゃなかったんだけどよ……と、稲穂は心中で舌打ちをした。
「……やめる」
ぼそりと、麺太が呟く。
「何が?」
「今回のお題、全力ダッシュなんだよ」
「タイムリーな」
「不謹慎だからやめる」
「別に不謹慎じゃねえだろ、好きに書けよ」
「やだ。やらない」
稲穂ちゃん……と弱々しく名前を呼ばれ、稲穂は吐息を溢し、麺太の頭を優しく撫でる。それが嬉しかったのか、麺太の身体から力が抜けたようだった。
「ソファー、行くか?」
訊ねると、こくりと麺太が頷く。不安にさせてしまった恋人の気持ちを、落ち着かせないといけない。
とんと麺太の肩を軽く叩き、離れるよう促すと、麺太の身体は離れていき、そのまま稲穂の手を取ってきた。いつもよりも力が強い気がする。
麺太に手を引かれてソファーに向かい、一緒に腰を降ろした所で、稲穂の頬に麺太の両手が添えられて、麺太の顔が近付いてきた。
唇を重ねるごとに、音が部屋に響く。合間合間に、吐息混じりに囁かれる稲穂の名前。それがまるで、いなくならないでと言っているように聴こえ、そんな麺太の姿にだんだんと、稲穂の気持ちも昂ってくる。
麺太をソファーに押し倒すと、潤んだ麺太の瞳から、一滴涙が溢れ落ちた。稲穂は顔を近付けて、溢れた涙を舌で拭うと、そのまま、麺太の耳元に口を近付けた。
「どこにも行かねえよ、ずっと一緒にいる」
稲穂の下で、麺太の身体が震える。涙混じりに、好き、と告げてきた声は、思いの外稲穂に刺さり、時間も場所も忘れて、麺太を貪った。
結局、麻婆豆腐は翌日の夕食となり、父にはこの後、申し訳ないけれど外で食べてきてほしいと連絡した稲穂。
『ほーん。ほぉん?』
文面にいらっとして、スマホを叩き割りそうになった。
もはや見慣れたなと思いながら真っ直ぐに台所へと向かい、エコバッグをいつもよりも乱暴に置くと、流しに手を置いて、稲穂は息を整える。乱れていた呼吸は、ゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。
「おかえり、稲穂ちゃん。何かあったの?」
稲穂の様子に異変を感じたのか、ソファーにいたはずの麺太が稲穂の元にやってくる。ちょっとな、と稲穂は言いながら、食器棚からグラスを取り出し、水道水を注ぎ入れて呷った。生き返るような心地だ。
大丈夫? と心配そうに背中を撫でてくる麺太に礼を言って、空になったグラスを手早く洗い、稲穂はざっくりと理由を説明する。
「ちょっと、追われた」
「え、何それ、誰に?」
「よく分からん占い師に」
「……ごめん、ちょっとよく分からないんだけど」
よく分からないなりに説明するとすれば、スーパーを出てすぐに、スーパーのベンチで店を開いていたっぽい占い師が立ち上がり、「今日は麻婆豆腐にしちゃ駄目よ! 麻婆茄子にしなさい!」と叫んできた。麻婆豆腐の気分だった稲穂は、無視して歩き出したが、占い師が後ろから追い掛けてきて、
「全力ダッシュで逃げてきた」
「……」
「安心しろ、多分撒けた」
あの人何だったんだろうなとぼやく稲穂に、麺太は何も言えない様子で、困惑を顔に浮かべ、そっと稲穂に抱きついてきた。
「そんな変な人、いるんだ。……稲穂ちゃんが無事に帰ってきてくれて、本当に良かった」
「……あのな、小中と徒競走でずっと一位か二位の俺だぞ? 高校に入ってからはリレーの選手にも選ばれるくらい脚が速いんだから、追われたくらいで捕まる俺じゃねえよ」
「それ、捕まったら殺されるタイプの鬼ごっこでも同じこと言える?」
「現実で参加することねえだろ、そんなもん」
実際に参加したら、ビビってうっかり転びそうだなとぼんやり考えながら、稲穂も麺太を抱き締める。麺太が更に力を込めてきて、そんな、不安にさせるつもりじゃなかったんだけどよ……と、稲穂は心中で舌打ちをした。
「……やめる」
ぼそりと、麺太が呟く。
「何が?」
「今回のお題、全力ダッシュなんだよ」
「タイムリーな」
「不謹慎だからやめる」
「別に不謹慎じゃねえだろ、好きに書けよ」
「やだ。やらない」
稲穂ちゃん……と弱々しく名前を呼ばれ、稲穂は吐息を溢し、麺太の頭を優しく撫でる。それが嬉しかったのか、麺太の身体から力が抜けたようだった。
「ソファー、行くか?」
訊ねると、こくりと麺太が頷く。不安にさせてしまった恋人の気持ちを、落ち着かせないといけない。
とんと麺太の肩を軽く叩き、離れるよう促すと、麺太の身体は離れていき、そのまま稲穂の手を取ってきた。いつもよりも力が強い気がする。
麺太に手を引かれてソファーに向かい、一緒に腰を降ろした所で、稲穂の頬に麺太の両手が添えられて、麺太の顔が近付いてきた。
唇を重ねるごとに、音が部屋に響く。合間合間に、吐息混じりに囁かれる稲穂の名前。それがまるで、いなくならないでと言っているように聴こえ、そんな麺太の姿にだんだんと、稲穂の気持ちも昂ってくる。
麺太をソファーに押し倒すと、潤んだ麺太の瞳から、一滴涙が溢れ落ちた。稲穂は顔を近付けて、溢れた涙を舌で拭うと、そのまま、麺太の耳元に口を近付けた。
「どこにも行かねえよ、ずっと一緒にいる」
稲穂の下で、麺太の身体が震える。涙混じりに、好き、と告げてきた声は、思いの外稲穂に刺さり、時間も場所も忘れて、麺太を貪った。
結局、麻婆豆腐は翌日の夕食となり、父にはこの後、申し訳ないけれど外で食べてきてほしいと連絡した稲穂。
『ほーん。ほぉん?』
文面にいらっとして、スマホを叩き割りそうになった。



