送迎車が螺旋の街区を登り始めた。蒸気管が頭上を横切り、窓辺から子供が顔を出して車を指差した。サマエルは窓越しに街を見ていた。微笑みは残ったまま、目だけが別の仕事をしている。
「プロメニウム蒸気の行き届いた街ですな。港の係留柱から灯台の弁まで、一本の管系で繋がっている」
「陛下のお国からいただく燃料のおかげです。感謝しております」
「こちらこそ。聖水をいただけなければ帝国の医療は百年前に戻ります。お互い様ですな」
お互い様。それがこの二つの国の全部だった。命の水を握るヴェロンと、文明の血を握る帝国。どちらも片方だけでは立っていられない。外交の席でそれを口にするのは礼節であり、同時に牽制だった。
車がダイニングの前を通過した。一階の大きな窓から、朝の喧騒がまだ溢れている。湯気と煙と人の声。長テーブルで肘をぶつけ合いながらパンをちぎる巡礼者と、スープの匂いに顔を上げる包帯だらけの患者と、壁際でフィドルを弾く楽士。
「あれが噂に聞くスターツヴェロンダイニングですか」
「ええ。巡礼者も患者も職人も楽士も同じ屋根の下で食事を取ります。聖水医術を受けるには身体が保たなければなりませんから、治療のためにまず食べる。食べるために世界中から人が集まる。結果としてあの場所が、ヴェロンの一番大きな胃袋になりました」
「胃袋が共振母体を兼ねているわけですな」
オフィリアが一瞬だけサマエルを見た。この男は今、あの食堂の活気を文化として褒めたのではなかった。あそこに集まる数百人の呼吸が自然に同期し、クオリアの揺らぎを束ねる母体になっていることを、一目で読んだ。
「陛下は目がお早い」
「目が早いのではなく、この街が分かりやすいのです。良い街は、隠すものが少ない」
隠すものが少ない。褒め言葉の形をした観測だった。この街には何が隠されているか、それを今測っている、とオフィリアには聞こえた。車が街区の中腹を過ぎた頃、サマエルが切り込んだ。
「ところで——此度降りられたシードのことを伺いたい」
声の調子は変わらなかった。世間話の延長のように滑らかに入ってきた。だがオフィリアの指先が膝の上で一瞬だけ止まった。
「翼を持つシードは前例がないと聞いております。どのような発展を世界にもたらすのか。教会の見解は」
「まだ調査中です。コレギウムと音律院と教会の三機関で精査しているところですわ」
「ご慎重なのは結構。ただ、翼を持つシードが降りたという事実だけで、世界中の目がヴェロンに集まっている。私もその一人です」
サマエルの声が柔らかくなった。柔らかくなる時が危ない、とオフィリアは知っていた。
「オフィリア姫の医術が奇跡の側にも傾くとよいですな」
一瞬、車内の空気が冷えた。聖水医術の限界を、この男は正確に知っている。聖水は治るものを加速する。だが治れない形に崩れたものは戻せない。その限界がオフィリアの喉に刺さっていることを、この男は今、穏やかな祝辞の形で突いた。
「お気遣い痛み入ります。ですが医術は医術です。奇跡を当てにするほど、うちの現場は暇ではありませんわ」サマエルが笑った。声だけ聞けば愉快そうだった。
窓の外を、ネフィリムのオートサイクルが併走している。サマエルの視線が窓越しにそちらへ流れた。一瞬だった。だがその一瞬、微笑みの奥で別の目が動いていた。オートサイクルの上のネフィリムを、街並みを読んだ時と同じ目で見ていた。
広場が見えた。車が最後の坂を登り切ると、石畳の広場が開けた。午前中の設営は終わっていた。天幕が風に膨らみ、共振板が舞台の足元に並び、灯台の頂で大枝が午後の光を受けている。
舞台の上で、アウローラの白い楽師と帝国黒楽団の奏者が、同じ調律台の前に立っていた。白が弦を鳴らし、黒が管を合わせている。まだ本番ではない。音が短く散って消える。合わせるために合わせている段階の音だった。
サマエルが車を降りた。広場を見渡し、舞台の上の二つの楽団を見た。
「アウローラと黒楽団がこうして一つの舞台に立ち、その講和をネフィリム卿が見届ける。この世界の安寧とは、なんと美しい均衡でしょう」
卿。
オフィリアの耳がその一語を拾った。ネフィリム「卿」。執事への呼び方ではなかった。オフィリアの家の使用人に対する敬称でもなかった。講和を見届ける者。秩序の名で呼んでいた。この男は今、ネフィリムを「均衡の担保」として名指した。美しいと言いながら、その美しさが何の上に立っているかを、声に出して確認した。
ネフィリムはオートサイクルから降り、広場の端に立っていた。帽子のつばの下から、サマエルの言葉に反応した様子はなかった。
「ねえ」
小声でネフィリムに言った。
「あの男、あんたの方ばっかり見てない?」
「気のせいでしょう」
「気のせいじゃないわよ」
ネフィリムは答えなかった。帽子のつばが深くなったように見えたのは、たぶん気のせいではなかった。
オフィリアの心はなぜか、この日一番苛立った。
「プロメニウム蒸気の行き届いた街ですな。港の係留柱から灯台の弁まで、一本の管系で繋がっている」
「陛下のお国からいただく燃料のおかげです。感謝しております」
「こちらこそ。聖水をいただけなければ帝国の医療は百年前に戻ります。お互い様ですな」
お互い様。それがこの二つの国の全部だった。命の水を握るヴェロンと、文明の血を握る帝国。どちらも片方だけでは立っていられない。外交の席でそれを口にするのは礼節であり、同時に牽制だった。
車がダイニングの前を通過した。一階の大きな窓から、朝の喧騒がまだ溢れている。湯気と煙と人の声。長テーブルで肘をぶつけ合いながらパンをちぎる巡礼者と、スープの匂いに顔を上げる包帯だらけの患者と、壁際でフィドルを弾く楽士。
「あれが噂に聞くスターツヴェロンダイニングですか」
「ええ。巡礼者も患者も職人も楽士も同じ屋根の下で食事を取ります。聖水医術を受けるには身体が保たなければなりませんから、治療のためにまず食べる。食べるために世界中から人が集まる。結果としてあの場所が、ヴェロンの一番大きな胃袋になりました」
「胃袋が共振母体を兼ねているわけですな」
オフィリアが一瞬だけサマエルを見た。この男は今、あの食堂の活気を文化として褒めたのではなかった。あそこに集まる数百人の呼吸が自然に同期し、クオリアの揺らぎを束ねる母体になっていることを、一目で読んだ。
「陛下は目がお早い」
「目が早いのではなく、この街が分かりやすいのです。良い街は、隠すものが少ない」
隠すものが少ない。褒め言葉の形をした観測だった。この街には何が隠されているか、それを今測っている、とオフィリアには聞こえた。車が街区の中腹を過ぎた頃、サマエルが切り込んだ。
「ところで——此度降りられたシードのことを伺いたい」
声の調子は変わらなかった。世間話の延長のように滑らかに入ってきた。だがオフィリアの指先が膝の上で一瞬だけ止まった。
「翼を持つシードは前例がないと聞いております。どのような発展を世界にもたらすのか。教会の見解は」
「まだ調査中です。コレギウムと音律院と教会の三機関で精査しているところですわ」
「ご慎重なのは結構。ただ、翼を持つシードが降りたという事実だけで、世界中の目がヴェロンに集まっている。私もその一人です」
サマエルの声が柔らかくなった。柔らかくなる時が危ない、とオフィリアは知っていた。
「オフィリア姫の医術が奇跡の側にも傾くとよいですな」
一瞬、車内の空気が冷えた。聖水医術の限界を、この男は正確に知っている。聖水は治るものを加速する。だが治れない形に崩れたものは戻せない。その限界がオフィリアの喉に刺さっていることを、この男は今、穏やかな祝辞の形で突いた。
「お気遣い痛み入ります。ですが医術は医術です。奇跡を当てにするほど、うちの現場は暇ではありませんわ」サマエルが笑った。声だけ聞けば愉快そうだった。
窓の外を、ネフィリムのオートサイクルが併走している。サマエルの視線が窓越しにそちらへ流れた。一瞬だった。だがその一瞬、微笑みの奥で別の目が動いていた。オートサイクルの上のネフィリムを、街並みを読んだ時と同じ目で見ていた。
広場が見えた。車が最後の坂を登り切ると、石畳の広場が開けた。午前中の設営は終わっていた。天幕が風に膨らみ、共振板が舞台の足元に並び、灯台の頂で大枝が午後の光を受けている。
舞台の上で、アウローラの白い楽師と帝国黒楽団の奏者が、同じ調律台の前に立っていた。白が弦を鳴らし、黒が管を合わせている。まだ本番ではない。音が短く散って消える。合わせるために合わせている段階の音だった。
サマエルが車を降りた。広場を見渡し、舞台の上の二つの楽団を見た。
「アウローラと黒楽団がこうして一つの舞台に立ち、その講和をネフィリム卿が見届ける。この世界の安寧とは、なんと美しい均衡でしょう」
卿。
オフィリアの耳がその一語を拾った。ネフィリム「卿」。執事への呼び方ではなかった。オフィリアの家の使用人に対する敬称でもなかった。講和を見届ける者。秩序の名で呼んでいた。この男は今、ネフィリムを「均衡の担保」として名指した。美しいと言いながら、その美しさが何の上に立っているかを、声に出して確認した。
ネフィリムはオートサイクルから降り、広場の端に立っていた。帽子のつばの下から、サマエルの言葉に反応した様子はなかった。
「ねえ」
小声でネフィリムに言った。
「あの男、あんたの方ばっかり見てない?」
「気のせいでしょう」
「気のせいじゃないわよ」
ネフィリムは答えなかった。帽子のつばが深くなったように見えたのは、たぶん気のせいではなかった。
オフィリアの心はなぜか、この日一番苛立った。
