転生世界のフィロソフィア

 控え室を出ると、ネフィリムが廊下に立っていた。

 「待たせた?」
 「いいえ」

 教会の奥にもう一つ部屋を借りてある。ネフィリムが包みを開くと、外交衣装が皺一つなく整えられていた。

 「いつ準備したの」
 「先ほど」
 「先ほどっていつよ。ずっと後ろにいたでしょ」

 ネフィリムは答えずに衣装を掲げた。オフィリアは睨みながら袖を通した。金糸の刺繍が肩から胸に流れ、重い絹が腰から裾へ落ちる。ネフィリムが背中のボタンを留めていく。指が速かった。最後の一つを留め終えた時、オフィリアが振り返った。

 「どう」
 「お似合いです」
 「なんかこう、言えないの?アタシの美貌について」
 「それ以上は職務外です」

 オフィリアが鼻で笑って、鏡も見ずに廊下へ出た。

 襟元を指先で一度だけ直して、顎を上げた。それだけで廊下の空気が変わった。すれ違った侍女が息を呑んだのが、背中越しに分かった。

 教会の裏口を抜けると、オフィリアのモービルが石畳の上で待っていた。白い小型の蒸気二人乗り。オフィリアが豪奢なスカートを豪快に翻し運転席に納まった。慣れた手つきで蒸気弁を開き、コンパクトな蒸気機関の目を覚ます。

 オフィリアの趣味がよく反映された、美しい赤色のボディが規則正しい重低音と音と共に揺れる。

 「乗らないの?」
 「先導いたします」

 ネフィリムは隣のオートサイクルに跨がった。

 「港まで。飛ばすわよ!」
 「お気をつけて」

 オフィリアが操縦輪を切った。モービルが石畳の傾斜を下り始めた。ヴェロンの螺旋状の街区を、教会のある頂から港へ向かって降りていく。朝に見下ろした景色の中へ、今度は自分が入っていく。石造りの家並みの隙間から海峡の光が差し、蒸気管が頭上を横切るたびに影が顔を過った。

 ネフィリムのオートサイクルが半車身後ろに付いた。排気音が石壁に跳ねて、二つの機関が交互に鳴っている。埠頭にモービルを寄せると、もう一台停まっていた。とても頑丈そうなリュシアンの車だった。車の扉と思えない重々しさで一仰々しくそれが開くと、リュシアンが降りてきた。

 「お召し替えになりましたか。よくお似合いです」
 「あんたもでしょ。ビジネスが息巻いて服を着ている感じ」

 リュシアンは外套の前を合わせたまま埠頭に立っていた。仕立ての良さが一段上がっていた。大資本家が外交の席に出る時の身なりだった。オフィキナの工業力と資本を背負って、帝国の経済的ホストとして出迎える。それがリュシアンの今日のもう一つの役割だった。

 「三隻、ですか」

 リュシアンが海峡の方を見た。水平線の少し上に、煙が三本立っていた。朝に見えた貿易船の煙とは違う。黒く、太く、規則正しい間隔で並んでいる。

 ドミニオン帝国のクロイツ艦隊だった。

 旗艦が先に姿を見せた。黒鉄の船体が海峡の光を弾いて鈍く光っている。プロメニウム蒸気機関の排気が、船尾から重く立ち上がっていた。朝に高台から見えた貿易船と同じ海峡から、まるで違うものが来た。あの穏やかな煙が商いの匂いなら、これは国家の重さだった。二隻目、三隻目が旗艦の後ろに続いている。編隊を崩さないまま、港の入口へ静かに滑り込んでくる。

 船体がようやく静止した。ほどなくして、タラップの展開が始まる。鉄板が噛み合う硬い音が港に響いた。
 
 降りたタラップから最初に降りてきたのは大柄な男だった。顔面から首筋まで退色した青緑の刺青がびっしりと詰まっている。聖人像、骸骨、判読できない文字。皮膚そのものが別の素材に変わったような男だった。タラップを降り切った足が埠頭を踏んだ時、視線が一度だけ港全体を舐めた。三秒で済ませて、目を戻した。

 その後ろから、ドミニオン帝国皇帝サマエルがゆっくりと降り立つ。

 その歩みには旅の疲れがなかった。タラップの最後の一段を踏んだ時、すでに港の全体を見渡しているようだった。螺旋状に登っていく石造りの街区を、下から一つずつ数えるように目が追う。教会の尖塔、音律院の屋根、灯台の頂部。まだ聖火は灯っていない。目が止まったのは一瞬ずつだった。風景を楽しむ人間の目は、もう少し長く止まる。 

 リュシアンが先に歩いた。経済的ホストとして、最初の挨拶はこの男の役割だった。

 「ようこそヴェロンへ、サマエル陛下。長い航海でいらっしゃったでしょう。オフィキナの全設備を挙げて歓迎いたします」
 「リュシアン殿。お出迎え痛み入ります。港の空気が良い。潮と蒸気が混ざる街ですな」

 穏やかだった。よく通る声だった。だがリュシアンが笑った時、サマエルの目はもうリュシアンを見ていなかった。つぎに、オフィリアがやうやうしく進み出た。

 「ドミニオン帝国サマエル陛下。ヴェロンを代表して、降臨祭へのご臨席を心より感謝いたします」

 「これはオフィリア姫。わざわざ港までお越しくださるとは。恐縮です」
 「長旅のお疲れもございましょう。お車をご用意しております」

 サマエルの視線が、オフィリアの肩越しに動いた。その視線の先。ネフィリムはオートサイクルの横に立っていた。 帽子のつばが深く、表情は見えない。護衛の位置から一歩も動いていない。

 「ネフィリム」

 敬語が消えていた。オフィリアの背筋に冷たいものが走った。今まで完璧な外交の微笑みを崩さなかった男が、たった一語、名前を呼んだだけで別の声になった。皇帝が執事に声をかける音ではなかった。

 「息災か」

 サマエルの左手が、手袋をしたまま、ネフィリムの方へわずかに動いた。触れかけて、止めた。手袋の指先が空を掴んで、離れた。壊れていないか確かめる目だった。手は止めたのに、目だけが一瞬長くネフィリムの身体を読んでいた。

 「ご壮健で何よりです、陛下」

 ネフィリムの声は平坦だった。帽子のつばの下から、微かに頭を下げただけだった。だがオフィリアは、手袋の中で指が一瞬だけ強く握られたのを、気配で感じた。サマエルの微笑みが戻った。完璧な外交の顔が、継ぎ目なく元の位置に収まった。

 「港からはラザルに任せてください。道と車には慣れた男です」

 刺青の男が、名前を呼ばれても表情を変えなかった。サマエルの半歩後ろに立ったまま、埠頭の石畳の目地を靴先で踏んでいた。オフィリアは一拍だけ間を置いた。ヴェロンの送迎車にヴェロンの運転手がつくのが外交の礼だった。それを帝国の随行に渡す。信頼の表明として受け取るか、主導権を明け渡したと見るか。判断は一瞬だった。

 「お任せします。ヴェロンの道は螺旋ですから、運転の上手な方に越したことはないわ」

 リュシアンがわずかに目を細めた。オフィリアの判断が速いことに、感心したのか測ったのか、その目からは読めなかった。ヴェロンの送迎車が埠頭の奥に停まっていた。聖都の国賓用大型蒸気車だった。刺青の男が運転席に座った。初めて触る操縦輪の感触を、手のひらで確かめている。

 助手席にリュシアンが乗った。運転席の後ろにサマエル、助手席の後ろにオフィリア。

 「ネフィリムは」
 「併走いたします」

 オートサイクルのエンジンが低く唸った。ネフィリムが送迎車の左後方に付いた。護衛の位置だった。サマエルの窓側だった。