ミレイユは教会の控え室の中央に立ち、声を出さずに口だけ動かしていた。
唇が拍を刻み、指先が膝の横で小さく開閉する。今夜の白を身体に通している最中だった。声はまだ出さない。息を深く吸い、胸を開き、喉の奥を確かめる。器の方が先に整わなければ、声は鳴らない。鳴らなければ、クオリアも応えない。
ふいに足が止まった。目を閉じたまま、指先で広場の方角を指した。石壁越しに、遠くの共振板の調律音がかすかに振動として届いている。ミレイユはその振動を拾って、自分の拍と合わせようとしていた。
ふいに控室の簡素な扉が開いた。
「呼吸、整ってる?」
ミレイユが振り返った。衣装の襟元を直しかけた手が止まる。
「オフィリア。来てくれたの」
「巡回のついで」
ミレイユが黙って見た。オフィリアが目を逸らした。天井を見た。壁を見た。
「——嘘。顔見に来た」
ミレイユが笑った。舞台用の笑顔ではなかった。唇の端が片方だけ上がる、素の顔だった。オフィリアの前でだけ出る顔。舞台の上では両方の口角が均等に上がる完璧な笑みを作れる。素では左だけ上がって、右がちょっと遅れてついてくる。オフィリアの前では直さない。
「緊張してる?」
「してない」
少し間があった。
「——してるかも。今夜の予想人数、聞いちゃったから。ちょっとだけ」
「あんたが歌うんだから大丈夫よ。盛り上がりすぎたらあたしが止める」
「止めないで。お願いだから」
ミレイユが両手を合わせて拝む真似をした。オフィリアが鼻で笑った。この二人の間には、片方が切り込んで片方が受け流す呼吸があった。やり方が正反対だからこそ一緒にいると楽だった。
二人の間に短い沈黙が落ちた。控え室の石壁が、遠くの共振板の調律音を柔らかく反響させている。低い振動が床を伝い、足の裏にかすかに触れた。
「ねえ、シードの子。どんな子だろうね」
「さあ。報告書には翼があるとしか。あたしもまだ会ってない」
「翼かあ」
ミレイユが天井を見上げた。ガス灯の光が瞳の中で揺れている。
「天使みたいなのかしら?歌、聞いてくれるかな」
「聞くでしょ。耳がついてれば」
「そういう意味じゃないの」
声が少し低くなった。
「あたしが歌うと、みんな同じ方を向くでしょ。それは分かってる。技術だから。でもその後に、その子の中に何か残るかどうかは、技術じゃどうにもならない」
オフィリアは次の言葉を選ばなかった。
「あんたの歌を聴いて何も残らない生き物がいたら、そっちが壊れてるわ」
雑で、乱暴で、だからこそ本気だった。ミレイユがまた笑った。今度は両方の口角が上がっていた。
「行くね。あたしも準備が残ってる」
「うん。ありがとう」
オフィリアは扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「今夜、よろしく」
扉の向こうに広場の喧騒が一瞬だけ流れ込み、すぐにまた閉じた。控え室にひんやりとした静寂が戻る。
ガス灯の炎が揺れ、石壁の影がゆっくり動いた
さっきより少しだけ、ミレイユの肩の力が抜けていた。
唇が拍を刻み、指先が膝の横で小さく開閉する。今夜の白を身体に通している最中だった。声はまだ出さない。息を深く吸い、胸を開き、喉の奥を確かめる。器の方が先に整わなければ、声は鳴らない。鳴らなければ、クオリアも応えない。
ふいに足が止まった。目を閉じたまま、指先で広場の方角を指した。石壁越しに、遠くの共振板の調律音がかすかに振動として届いている。ミレイユはその振動を拾って、自分の拍と合わせようとしていた。
ふいに控室の簡素な扉が開いた。
「呼吸、整ってる?」
ミレイユが振り返った。衣装の襟元を直しかけた手が止まる。
「オフィリア。来てくれたの」
「巡回のついで」
ミレイユが黙って見た。オフィリアが目を逸らした。天井を見た。壁を見た。
「——嘘。顔見に来た」
ミレイユが笑った。舞台用の笑顔ではなかった。唇の端が片方だけ上がる、素の顔だった。オフィリアの前でだけ出る顔。舞台の上では両方の口角が均等に上がる完璧な笑みを作れる。素では左だけ上がって、右がちょっと遅れてついてくる。オフィリアの前では直さない。
「緊張してる?」
「してない」
少し間があった。
「——してるかも。今夜の予想人数、聞いちゃったから。ちょっとだけ」
「あんたが歌うんだから大丈夫よ。盛り上がりすぎたらあたしが止める」
「止めないで。お願いだから」
ミレイユが両手を合わせて拝む真似をした。オフィリアが鼻で笑った。この二人の間には、片方が切り込んで片方が受け流す呼吸があった。やり方が正反対だからこそ一緒にいると楽だった。
二人の間に短い沈黙が落ちた。控え室の石壁が、遠くの共振板の調律音を柔らかく反響させている。低い振動が床を伝い、足の裏にかすかに触れた。
「ねえ、シードの子。どんな子だろうね」
「さあ。報告書には翼があるとしか。あたしもまだ会ってない」
「翼かあ」
ミレイユが天井を見上げた。ガス灯の光が瞳の中で揺れている。
「天使みたいなのかしら?歌、聞いてくれるかな」
「聞くでしょ。耳がついてれば」
「そういう意味じゃないの」
声が少し低くなった。
「あたしが歌うと、みんな同じ方を向くでしょ。それは分かってる。技術だから。でもその後に、その子の中に何か残るかどうかは、技術じゃどうにもならない」
オフィリアは次の言葉を選ばなかった。
「あんたの歌を聴いて何も残らない生き物がいたら、そっちが壊れてるわ」
雑で、乱暴で、だからこそ本気だった。ミレイユがまた笑った。今度は両方の口角が上がっていた。
「行くね。あたしも準備が残ってる」
「うん。ありがとう」
オフィリアは扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「今夜、よろしく」
扉の向こうに広場の喧騒が一瞬だけ流れ込み、すぐにまた閉じた。控え室にひんやりとした静寂が戻る。
ガス灯の炎が揺れ、石壁の影がゆっくり動いた
さっきより少しだけ、ミレイユの肩の力が抜けていた。
