ヴェロンの広場では年に何度か催事がある。そのたびにオフィリアは朝の広場を歩いた。
今夜ここに何千人が詰めるか。昂った群衆は足元を見ない。転倒、将棋倒し、圧死。そうならないための導線と退避路と搬送経路を、催事の朝に自分の足で確かめて回る。夜の降臨祭はこれまでのどの催事より規模が大きい。新しいシードのお披露目に、帝国の代表団まで来ている。
石畳の上に木箱が積まれ、天幕の支柱が半分だけ立ち、オフィリアは広場の東端から歩き始めた。目が医術師の目をしていた。祝祭の飾りではなく、石畳の段差を見ている。群衆が詰まった時にここで躓く。夜になったら足元は見えない。
「この段差、ガス灯を二本。ここと------ここ。足元を照らす角度で」
設営の職人が振り向いた。年配の男だった。オフィリアの顔を見て背筋が伸びた。オフィリアは笑って、男の手から巻尺をひょいと取った。段差に当てて数字を読み、返しざまに肩をぽんと叩く。男の肩からようやく力が抜けた。
天幕の列を抜けると、露店の仕込みが始まっていた。串焼きの炭が熾され、香ばしい煙が低く流れている。果物を山に積んだ荷車の隣で、母親が小さな女の子の髪を結い直していた。女の子がオフィリアを見上げた。オフィリアは指先でひらひらと手を振った。女の子は目を丸くして母親の腰に隠れた。通り過ぎてから、オフィリアが言った。
「あの子の額、ぶつけた跡があった」
「古い傷です。治りかけています」
「そう」
それだけだった。振り返りもしない。
中央広場を抜けると、灯台の足場が頭上に迫った。その脇の石段を数段上がると、螺旋状に港まで降りていくヴェロンの街並みが足元に開けた。海峡を渡るプロメニウム貿易船の煙が霞の向こうに見えた。
石段を降りて灯台の基部に戻った。蒸気管が四方へ伸びている。オフィリアは手袋を外して弁に触れた。金属が冷たかった。両手で掴んで回した。動かない。足を踏ん張って、体重をかけた。動かない。顔が赤くなった。
「何これ、硬っ……!」
ネフィリムの手が伸びて、片手で回した。ぎ、と音がして弁が動いた。オフィリアがその手を睨んだ。ネフィリムは何も言わなかった。
「油を差して。それと目印を付けて。夜、手探りで回す人間が迷わないように」
それを聞いた設営班の責任者が慌てて走った。オフィリアの指示は二度目が無いことを知っている男の走り方だった。
広場の南側に回った。白い天幕がいくつも風に膨らんでいる。天幕の向こうの階段を見て、非常口の幅を測った。オフィリアは天幕と天幕の隙間に頭を突っ込んで、両腕を広げた。担架の幅を自分の身体で測っている。
「ここ、担架二台通れる?」
「一台半です」
「半って何よ」
「横向きにすればもう一台」
オフィリアが天幕の隙間から顔だけ出して、信じられないという顔をした。
「患者を横向きに運ぶ気?」
「天幕を半メートルずらします」
「席順が変わるわよ」
「オフィリア様が調整なさるでしょう」
オフィリアが天幕から抜け出し、両手を腰に当てて、ネフィリムを見上げた。ネフィリムは見下ろしもせず手帳に書き込んでいた。オフィリアの肘がネフィリムの脇腹を小突いた。手帳を持つ手がわずかに揺れただけだった。
途中ですれ違った鍛冶屋の手に目が落ちた。足は止めなかった。三歩先で、振り返らずに言った。
「その手、また焼いたでしょ。祭が終わったらコレギウムに来なさい」
鍛冶屋は苦笑いして頭を掻いた。オフィリアはもう前を向いている。見たのは一瞬だった。だがその一瞬で、火傷の深さと受傷からの日数と、前回の傷がまだ完治していないことまで読んでいる。
指摘しない。命令もしない。「来なさい」とだけ言う。
最後に灯台の足場を見上げた。職人たちが最上部で天華の放出口を磨いていた。白い粉が風に舞い、朝の光に散った。前の聖火の時にこびりついた天華の欠片だろう。
それが削られて粉になって、風に乗って、オフィリアの頬をかすめた。
微かに甘い匂い。鉱物と花の間のような匂い。
オフィリアは足を止めた。
今夜、あの光の下に降臨したばかりのシードがいる。
まだ会っていない。報告書には年齢不詳、白髪、翼状器官としか書いていなかった。翼があるなら背中が開いた服がいる。
靴は履くのだろうか。足のサイズも分からない。報告書に足のサイズくらい書いておきなさいよ、と誰にともなく思った。
「オフィリア様。次は北門の搬入口です」
「ええ。行くわ」
今夜ここに何千人が詰めるか。昂った群衆は足元を見ない。転倒、将棋倒し、圧死。そうならないための導線と退避路と搬送経路を、催事の朝に自分の足で確かめて回る。夜の降臨祭はこれまでのどの催事より規模が大きい。新しいシードのお披露目に、帝国の代表団まで来ている。
石畳の上に木箱が積まれ、天幕の支柱が半分だけ立ち、オフィリアは広場の東端から歩き始めた。目が医術師の目をしていた。祝祭の飾りではなく、石畳の段差を見ている。群衆が詰まった時にここで躓く。夜になったら足元は見えない。
「この段差、ガス灯を二本。ここと------ここ。足元を照らす角度で」
設営の職人が振り向いた。年配の男だった。オフィリアの顔を見て背筋が伸びた。オフィリアは笑って、男の手から巻尺をひょいと取った。段差に当てて数字を読み、返しざまに肩をぽんと叩く。男の肩からようやく力が抜けた。
天幕の列を抜けると、露店の仕込みが始まっていた。串焼きの炭が熾され、香ばしい煙が低く流れている。果物を山に積んだ荷車の隣で、母親が小さな女の子の髪を結い直していた。女の子がオフィリアを見上げた。オフィリアは指先でひらひらと手を振った。女の子は目を丸くして母親の腰に隠れた。通り過ぎてから、オフィリアが言った。
「あの子の額、ぶつけた跡があった」
「古い傷です。治りかけています」
「そう」
それだけだった。振り返りもしない。
中央広場を抜けると、灯台の足場が頭上に迫った。その脇の石段を数段上がると、螺旋状に港まで降りていくヴェロンの街並みが足元に開けた。海峡を渡るプロメニウム貿易船の煙が霞の向こうに見えた。
石段を降りて灯台の基部に戻った。蒸気管が四方へ伸びている。オフィリアは手袋を外して弁に触れた。金属が冷たかった。両手で掴んで回した。動かない。足を踏ん張って、体重をかけた。動かない。顔が赤くなった。
「何これ、硬っ……!」
ネフィリムの手が伸びて、片手で回した。ぎ、と音がして弁が動いた。オフィリアがその手を睨んだ。ネフィリムは何も言わなかった。
「油を差して。それと目印を付けて。夜、手探りで回す人間が迷わないように」
それを聞いた設営班の責任者が慌てて走った。オフィリアの指示は二度目が無いことを知っている男の走り方だった。
広場の南側に回った。白い天幕がいくつも風に膨らんでいる。天幕の向こうの階段を見て、非常口の幅を測った。オフィリアは天幕と天幕の隙間に頭を突っ込んで、両腕を広げた。担架の幅を自分の身体で測っている。
「ここ、担架二台通れる?」
「一台半です」
「半って何よ」
「横向きにすればもう一台」
オフィリアが天幕の隙間から顔だけ出して、信じられないという顔をした。
「患者を横向きに運ぶ気?」
「天幕を半メートルずらします」
「席順が変わるわよ」
「オフィリア様が調整なさるでしょう」
オフィリアが天幕から抜け出し、両手を腰に当てて、ネフィリムを見上げた。ネフィリムは見下ろしもせず手帳に書き込んでいた。オフィリアの肘がネフィリムの脇腹を小突いた。手帳を持つ手がわずかに揺れただけだった。
途中ですれ違った鍛冶屋の手に目が落ちた。足は止めなかった。三歩先で、振り返らずに言った。
「その手、また焼いたでしょ。祭が終わったらコレギウムに来なさい」
鍛冶屋は苦笑いして頭を掻いた。オフィリアはもう前を向いている。見たのは一瞬だった。だがその一瞬で、火傷の深さと受傷からの日数と、前回の傷がまだ完治していないことまで読んでいる。
指摘しない。命令もしない。「来なさい」とだけ言う。
最後に灯台の足場を見上げた。職人たちが最上部で天華の放出口を磨いていた。白い粉が風に舞い、朝の光に散った。前の聖火の時にこびりついた天華の欠片だろう。
それが削られて粉になって、風に乗って、オフィリアの頬をかすめた。
微かに甘い匂い。鉱物と花の間のような匂い。
オフィリアは足を止めた。
今夜、あの光の下に降臨したばかりのシードがいる。
まだ会っていない。報告書には年齢不詳、白髪、翼状器官としか書いていなかった。翼があるなら背中が開いた服がいる。
靴は履くのだろうか。足のサイズも分からない。報告書に足のサイズくらい書いておきなさいよ、と誰にともなく思った。
「オフィリア様。次は北門の搬入口です」
「ええ。行くわ」
