オフィリアがミレイユの手首から手を離した時、広場の音が変わっていることに気づいた。
低い旋律が敷かれていた。処置区画だけではない。広場全体に黒い音が薄く広がっている。帝国式の黒い外套を纏った音律師が処置区画の四隅に立ち、共振板を足元に据えて同じ旋律を鳴らしていた。白の音律のように寄り添う音ではない。もっと硬く、痛みの信号を規格ごと押さえ込んで動けなくする音だった。処置を待つ負傷者のうめき声が、明らかに減っている。
誰が指示を出したのか。オフィリアは振り返らなかった。だが広場の端、群衆の外側に帝国代表の長い影が立っている。友誼でも慈悲でもない。講和の席で自国の医療能力を見せつける機会を、逃す男ではない。だが結果として、痛みは押さえられている。使えるものは使う。オフィリアは視線を戻した。
その隣に、もう一つの視線があった。
リュシアンだった。群衆の外縁に立ち、手帳を胸の前に開いている。祝祭の残骸と蒸気管が混在する広場を、感嘆でも恐怖でもない目で眺めていた。楽団席が搬送路に、聖火舞台が蒸気呼吸器の台座に、白布が処置区画に。二分で祝祭が医療に変わった手順を、あの目が全部記録している。目が合った。リュシアンが小さく頷いた。見事だ、と言っている顔だった。オフィリアは何も返さず、次の患者に向き直った。
処置区画には七人の負傷者がいた。ミレイユの動脈縫合が終わった時点で、残る六人のうち三人は既に他の医術師が処置を終えていた。擦過傷、打撲、肋骨の不全骨折。聖水を浸したガーゼと固定帯で安定化されている。
二人が中等症だった。瓦礫による腹部打撲と頭部裂傷。腹部は内臓損傷をネフィリムが透視で否定し、経過観察に回した。頭部裂傷は出血が派手だが深くない。圧迫止血と縫合で対処できる。
最後の一人。瓦礫の下から救出された男。灯台の足元で構造材の下敷きになっていた。
両下肢の開放骨折。左脛骨が皮膚を破って白い断端を晒している。右大腿骨は骨折はしているが開放ではない。だが右足の色が悪い。
「輸液路。右の肘正中。聖水混合液で全開にしろ」
針が刺さり、聖水混合液が静脈に流れ始めた。骨折の整復と区画切開の前にクオリアの血中濃度を上げておく。骨膜も筋膜も、聖水が届かなければ正常相に戻れない。
「ネフィリム」
六度目の透視。杖が叩かれ、膜が開く。オフィリアの目がその向こうに沈む。
「右膝窩動脈が骨折片で圧迫されています。完全閉塞ではありませんが、灌流不足で筋区画の内圧が上昇し始めています。このまま放置すると筋壊死に入ります」
区画症候群の前段階。骨折で血管が圧迫され、下流の筋肉に血が行かなくなり、腫れた筋肉がさらに血管を圧迫する。放置すれば足を失う。
膜が消えた。
「左の開放骨折を先に整復固定する。右は区画切開で圧を抜いてから骨片を処理する。順番を間違えるな。左を放置すると感染で足ごと腐る。右を放置すると筋肉が死ぬ。どちらも時間切れがある」
二つの手術を連続で行う。一人の患者の両足を、左右違う手順で、同時進行で管理する。
「左脛骨。洗浄してから整復する。開放創に突っ込む前に聖水で異物を流せ」
聖水が開放創に注がれた。土と木屑と繊維が洗い出され、白い骨の断端がきれいに露出する。骨折は単純な横骨折。断端同士を合わせれば戻る。
「牽引。足を引く。遠位骨片を正しい軸に乗せろ」
医術師が足首を握り、オフィリアの合図で軸方向に引いた。筋肉の攣縮に逆らって断端を引き離し、正しい位置に戻す。骨が噛み合う鈍い音が処置台の上で響いた。
「副子。固定。聖水を染ませた布で巻け。二時間後にもう一度透視する」
左脛骨が副子で固定された。聖水の浸透が始まり、骨膜が正常相への復帰を始める。骨がくっつくのは聖水だけでは無理だ。だが骨折端の出血を止め、周囲組織の腫脹を抑え、回復の条件は整えられる。
「右に移る。区画切開」
メスが右脛骨の外側、筋膜の直上に入った。皮膚を一直線に切り開く。筋膜が露出する。腫れた筋肉が筋膜を内側から押し上げ、パンパンに張っている。
筋膜を切った。
腫れた筋肉が切開線から溢れ出すように膨隆した。筋区画内の圧が一気に下がり、圧迫されていた血管への外圧が緩んだ。
「ネフィリム」
「膝窩動脈の灌流が回復し始めています。足趾の色が戻ります。骨折片の位置は安定しています。今は動かさない方がいい」
足の指先に、赤みが差した。
「骨折片の処理は腫れが引いてからでいい。今夜はこれで止める。筋膜は開放のまま。閉じるな。圧が戻る」
切開創に聖水で湿らせたガーゼを当て、開放状態のまま被覆した。
蒸気機関の音が処置区画を満たしている。加温、照明、吸引、滅菌。全てがまだ稼働している。プロメニウムの怒りが蒸気に変わり、蒸気が道具に変わり、道具が手順に変わって、命を繋いでいる。
オフィリアは手袋を外した。指が震えていた。
手技の最中には微動だにしなかった指が、全てが終わった今になって、遅れてきた疲労を告白している。オフィリアはその手を膝の上で握り、一度だけ強く握って、開いた。
処置区画の白布はもう白くなかった。赤と茶と聖水の薄い虹が混じり合い、石畳の上に広がっている。二時間前にはここで群衆が空を見上げ、結晶が降り、ソフィの翼が光っていた。
今は蒸気管が這い、血が乾き、うめき声と麻酔の呼吸と蒸気機関の排気だけがある。
ネフィリムが隣に立っていた。杖を左手に、右手をオフィリアに差し出した。
「水を。それと、あなたも座ってください」
「座らない。コレギウムに収容された全員の経過を一巡する」
「巡回は十分後にしてください。座らなくてもいいですが、水は飲んでください」
革袋が差し出された。オフィリアはそれを受け取り、一口だけ含んだ。水が喉を通る感覚が、手術台の上では完全に消えていた時間の厚みを、一瞬で取り戻させた。
広場の向こうで、白い光が消え残っていた。
ソフィが天華の舞台の端に座っている。翼は畳まれている。やぐらが崩れる直前に翼が開き、死ぬはずだった配置がずれた。七人の負傷者は全員、即死の配置にいたはずだった。それが重傷で止まった。
ソフィが最悪を外した。
そうとしか思えなかった。
そしてオフィリアがその先を拾いきった。命のリレーは理解不能な現象と一緒に確かに救命の成功に繋がたのだ。
二人の間に会話はなかった。視線が一瞬交わり、ソフィが小さく頷き、オフィリアは頷き返さずに次の患者に目を向けた。頷き返す余裕は、まだなかった。
蒸気機関の排気が白く夜空に昇り続けている。灯台の聖火は薪としてまだ小さく燃えていた。
祝祭は終わっていた。だが広場に残った全員が、しっかりと生きていた。
低い旋律が敷かれていた。処置区画だけではない。広場全体に黒い音が薄く広がっている。帝国式の黒い外套を纏った音律師が処置区画の四隅に立ち、共振板を足元に据えて同じ旋律を鳴らしていた。白の音律のように寄り添う音ではない。もっと硬く、痛みの信号を規格ごと押さえ込んで動けなくする音だった。処置を待つ負傷者のうめき声が、明らかに減っている。
誰が指示を出したのか。オフィリアは振り返らなかった。だが広場の端、群衆の外側に帝国代表の長い影が立っている。友誼でも慈悲でもない。講和の席で自国の医療能力を見せつける機会を、逃す男ではない。だが結果として、痛みは押さえられている。使えるものは使う。オフィリアは視線を戻した。
その隣に、もう一つの視線があった。
リュシアンだった。群衆の外縁に立ち、手帳を胸の前に開いている。祝祭の残骸と蒸気管が混在する広場を、感嘆でも恐怖でもない目で眺めていた。楽団席が搬送路に、聖火舞台が蒸気呼吸器の台座に、白布が処置区画に。二分で祝祭が医療に変わった手順を、あの目が全部記録している。目が合った。リュシアンが小さく頷いた。見事だ、と言っている顔だった。オフィリアは何も返さず、次の患者に向き直った。
処置区画には七人の負傷者がいた。ミレイユの動脈縫合が終わった時点で、残る六人のうち三人は既に他の医術師が処置を終えていた。擦過傷、打撲、肋骨の不全骨折。聖水を浸したガーゼと固定帯で安定化されている。
二人が中等症だった。瓦礫による腹部打撲と頭部裂傷。腹部は内臓損傷をネフィリムが透視で否定し、経過観察に回した。頭部裂傷は出血が派手だが深くない。圧迫止血と縫合で対処できる。
最後の一人。瓦礫の下から救出された男。灯台の足元で構造材の下敷きになっていた。
両下肢の開放骨折。左脛骨が皮膚を破って白い断端を晒している。右大腿骨は骨折はしているが開放ではない。だが右足の色が悪い。
「輸液路。右の肘正中。聖水混合液で全開にしろ」
針が刺さり、聖水混合液が静脈に流れ始めた。骨折の整復と区画切開の前にクオリアの血中濃度を上げておく。骨膜も筋膜も、聖水が届かなければ正常相に戻れない。
「ネフィリム」
六度目の透視。杖が叩かれ、膜が開く。オフィリアの目がその向こうに沈む。
「右膝窩動脈が骨折片で圧迫されています。完全閉塞ではありませんが、灌流不足で筋区画の内圧が上昇し始めています。このまま放置すると筋壊死に入ります」
区画症候群の前段階。骨折で血管が圧迫され、下流の筋肉に血が行かなくなり、腫れた筋肉がさらに血管を圧迫する。放置すれば足を失う。
膜が消えた。
「左の開放骨折を先に整復固定する。右は区画切開で圧を抜いてから骨片を処理する。順番を間違えるな。左を放置すると感染で足ごと腐る。右を放置すると筋肉が死ぬ。どちらも時間切れがある」
二つの手術を連続で行う。一人の患者の両足を、左右違う手順で、同時進行で管理する。
「左脛骨。洗浄してから整復する。開放創に突っ込む前に聖水で異物を流せ」
聖水が開放創に注がれた。土と木屑と繊維が洗い出され、白い骨の断端がきれいに露出する。骨折は単純な横骨折。断端同士を合わせれば戻る。
「牽引。足を引く。遠位骨片を正しい軸に乗せろ」
医術師が足首を握り、オフィリアの合図で軸方向に引いた。筋肉の攣縮に逆らって断端を引き離し、正しい位置に戻す。骨が噛み合う鈍い音が処置台の上で響いた。
「副子。固定。聖水を染ませた布で巻け。二時間後にもう一度透視する」
左脛骨が副子で固定された。聖水の浸透が始まり、骨膜が正常相への復帰を始める。骨がくっつくのは聖水だけでは無理だ。だが骨折端の出血を止め、周囲組織の腫脹を抑え、回復の条件は整えられる。
「右に移る。区画切開」
メスが右脛骨の外側、筋膜の直上に入った。皮膚を一直線に切り開く。筋膜が露出する。腫れた筋肉が筋膜を内側から押し上げ、パンパンに張っている。
筋膜を切った。
腫れた筋肉が切開線から溢れ出すように膨隆した。筋区画内の圧が一気に下がり、圧迫されていた血管への外圧が緩んだ。
「ネフィリム」
「膝窩動脈の灌流が回復し始めています。足趾の色が戻ります。骨折片の位置は安定しています。今は動かさない方がいい」
足の指先に、赤みが差した。
「骨折片の処理は腫れが引いてからでいい。今夜はこれで止める。筋膜は開放のまま。閉じるな。圧が戻る」
切開創に聖水で湿らせたガーゼを当て、開放状態のまま被覆した。
蒸気機関の音が処置区画を満たしている。加温、照明、吸引、滅菌。全てがまだ稼働している。プロメニウムの怒りが蒸気に変わり、蒸気が道具に変わり、道具が手順に変わって、命を繋いでいる。
オフィリアは手袋を外した。指が震えていた。
手技の最中には微動だにしなかった指が、全てが終わった今になって、遅れてきた疲労を告白している。オフィリアはその手を膝の上で握り、一度だけ強く握って、開いた。
処置区画の白布はもう白くなかった。赤と茶と聖水の薄い虹が混じり合い、石畳の上に広がっている。二時間前にはここで群衆が空を見上げ、結晶が降り、ソフィの翼が光っていた。
今は蒸気管が這い、血が乾き、うめき声と麻酔の呼吸と蒸気機関の排気だけがある。
ネフィリムが隣に立っていた。杖を左手に、右手をオフィリアに差し出した。
「水を。それと、あなたも座ってください」
「座らない。コレギウムに収容された全員の経過を一巡する」
「巡回は十分後にしてください。座らなくてもいいですが、水は飲んでください」
革袋が差し出された。オフィリアはそれを受け取り、一口だけ含んだ。水が喉を通る感覚が、手術台の上では完全に消えていた時間の厚みを、一瞬で取り戻させた。
広場の向こうで、白い光が消え残っていた。
ソフィが天華の舞台の端に座っている。翼は畳まれている。やぐらが崩れる直前に翼が開き、死ぬはずだった配置がずれた。七人の負傷者は全員、即死の配置にいたはずだった。それが重傷で止まった。
ソフィが最悪を外した。
そうとしか思えなかった。
そしてオフィリアがその先を拾いきった。命のリレーは理解不能な現象と一緒に確かに救命の成功に繋がたのだ。
二人の間に会話はなかった。視線が一瞬交わり、ソフィが小さく頷き、オフィリアは頷き返さずに次の患者に目を向けた。頷き返す余裕は、まだなかった。
蒸気機関の排気が白く夜空に昇り続けている。灯台の聖火は薪としてまだ小さく燃えていた。
祝祭は終わっていた。だが広場に残った全員が、しっかりと生きていた。
