転生世界のフィロソフィア

 オフィリアとネフェリムがミレイユの大腿部から横木を引き抜いた。

 組織の断裂面が露出した。筋膜は裂け、筋繊維の束は横木の形に押し潰されて赤黒い溝を作っている。砕けた木片が傷の底に食い込み、その一つひとつが感染源になる。
 蒸気吸引器が血と滲出液を吸い上げ、術野が見えた。

 「ネフィリム」

 杖が石畳を叩いた。青白い膜がミレイユの大腿部に再び展開する。
 球体が弾かれた。硬質な連打。青白い膜がミレイユの大腿部に再び展開する。

 「木片残留三箇所。筋膜直下に一、内側広筋内に二。大腿動脈の損傷長は約三寸。鉗子の遠位側に小さな裂孔がもう一つあります」
 膜が霧散する。ネフィリムが読んだ透視像は、もうオフィリアの指先に落ちていた。

 「木片を先に取る。細かいわね。もう!」

 ピンセットが傷の底に入った。筋膜直下の木片は浅い。つまんで引き出す。血が湧く。吸引が追う。
 二つ目。内側広筋の中に埋まった木片。筋繊維の束を鑷子で割り、木片の端を露出させる。引く。反対側が筋繊維に引っ掛かって動かない。

 「鉤を寄越せ」

 小さな鉤で筋繊維を横に避け、木片を真っ直ぐ引き抜いた。小指の半分ほどの破片が血に濡れてピンセットの先に摘まれている。
 三つ目。最も深い。ピンセットの先が届く深さだが、動脈遮断中の鉗子の近くにある。

 「ネフィリム。もう一回」

 杖が叩かれた。弾かれた。膜が開く。

 「鉗子の遠位二分のところに木片の端が出ています。鉗子の柄方向に二分、動脈壁方向に一分。角度をつければ触れずに取れます」
 膜が消える。

 オフィリアはピンセットの角度を手首で作り、斜めから木片の端に到達した。引く。抵抗。組織が木片を噛んでいる。無理に入れれば、先に鉗子が動く。肩の力を意図的に抜いた。ピンセットをメスに持ち替える。木片の周囲の壊死組織を薄く一枚削ぎ、木片を遊離させてから、鑷子で摘み出した。

 「木片除去完了。縫合に入る」

 処置台の上で聖水が術野を洗った。傷の底に溜まった血を流し、損傷組織の表面に薄い膜を作る。治れる形に、人間が整えた。ここから聖水が効く。

 「動脈の縫合に入る。鉗子の遠位側の裂孔から先に閉じる」

 小さい方から閉じる。先にそちらを止めておかないと、滲みで視界が濁る。本体に入るのは、そのあとでいい。
 縫合針が動脈壁に入った。
 血管壁は薄い。残っている内膜の断端と中膜の一部に針を通し、壁を寄せて結ぶ。強すぎれば裂ける。弱ければ漏れる。

 一針。結紮。糸を切る。
 二針。壁の寄りが悪い。鑷子で内膜の端を反転させ、断端同士を正確に合わせてから針を通す。結紮。
 三針。ここで遠位の裂孔が閉じた。聖水を流す。漏れない。

 「本体の損傷に移る」

 鉗子の直下。三寸の動脈損傷。今は鉗子が血流を止めている。だが外さなければ縫えない。

 「部分遮断に切り替える。もう一本鉗子を寄越せ」

 二本目の鉗子で損傷部の遠位端を追加で遮断した。一本目をわずかに緩め、近位端だけを露出させる。損傷部が二本の鉗子の間に孤立した。

 「ネフィリム」

 四度目。杖が叩かれ、光膜が開く。

 「近位端の内膜が巻き込まれています。このまま縫合すると内腔に折れ込んで血栓の核になります。端を整えてから入ってください」

 メスの先で巻き込まれた内膜を薄く切除した。断端が新鮮面になる。ここに針を入れる。

 一針。動脈壁の外膜側から入り、内膜を拾い、対岸の内膜を拾い、外膜側へ抜ける。全層縫合。血管壁が合わさった。
 二針。間隔を均等に。引き攣れを作らない。
 三針。四針。五針。蒸気機関の排気音がリズムを刻み、白と黒の音律がミレイユの体を二方向から押さえ、オフィリアの指だけが動いている。

 六針目で、糸が滑った。

 血管壁が濡れていた。聖水と血の混合液に覆われ、鑷子で持ち上げた壁が指の間から逃げた。針の先が予定より内側に寄る。
 止めた。
 針を抜いた。孔は残る。だが今の孔は後から埋められる。間違った位置で結べば壁が歪む。正しい位置に打ち直す方が速い。
 六針目、やり直し。壁を鑷子で正確に保持し、針を入れ直した。今度は通った。結紮。
 七針。八針。損傷部の中央を過ぎ、遠位端へ向かう。

 九針目で、ネフィリムが声を出した。

 「末梢が冷えてきています。足趾の色が落ちている」

 遮断してから時間が経っている。下流への血流が途絶えたまま、ミレイユの足先が白くなりつつある。虚血が長引くほど、鉗子を外した後の再灌流で組織は腫れる。

 「あと四針」

 オフィリアの手が速くなった。だが雑にはならない。速くなったというより、余分が消える。
 十針。十一針。十二針。

 「最終針」

 十三針目を結紮した。糸を切った。

 「聖水。用意しろ。まだかけるな」

 オフィリアの目が縫合線から離れ、術野全体を見た。切り開かれた大腿部の断面。筋繊維、その間に挟まった脂肪層。健康な脂肪は黄色い。ミレイユのそれは薄いが色が良い。出血量と体格から、応答できる聖水の量を逆算する。多すぎれば体が処理しきれない。

 「縫合線に沿って、細く。溜めるな。一往復だけ」

 医術師が聖水の瓶を傾け、細い筋になった聖水が十三針の縫合面を伝った。オフィリアは鑷子の先で液の流れを誘導し、余分が外へ逃げるようにする。聖水が血管壁に触れた瞬間、断端の色が半音だけ明るい赤に寄った。針孔の周囲で壁が微かに収縮し、糸と組織の隙間を埋めようとする。

 それ以上はかけなかった。今のミレイユの体が受け取れる量はこれで限界に近い。残りは輸液路から入れた聖水混合液が時間をかけて届ける。急がない。急いだら台無しになってしまう。

 治れる形は、オフィリアが作った。十三針で壁を寄せ、断端を合わせ、血管が管であり続けられる形に戻した。聖水はその形を受け取って中から押し固める。順番通りだ。

 「遠位鉗子を外す」

 二本目の鉗子が開いた。遠位側から血液が損傷部に向かって逆流する。縫合線から漏れがないか、全員の目が集中した。
 漏れなかった。

 「近位鉗子を外す」

 一本目の鉗子が、ゆっくりと開いた。
 心臓から送り出された血液が、大腿動脈を下り、オフィリアが十三針で閉じた縫合線を通過し、膝窩動脈へ流れていく。
 足の色が戻り始めた。蒼白だった足先に、淡い赤みが差していく。爪床に血の色が戻る。

 「ネフィリム」

 五度目。杖。透視。

 「血流再開。縫合線からの漏出なし。末梢の灌流が回復しています。木片除去跡の筋膜に滲出がありますが、動脈系は完了です」
 膜が消えた。

 オフィリアの手が止まった。

 一拍。
 蒸気機関の排気音だけが残った。白の音律師が弦を弛め、黒の音律師が共振板を床から上げた。鎮痛の二重奏が、一段下がった。
 ミレイユの胸が規則的に上下している。麻酔の呼吸。脈拍は安定している。
 オフィリアは血に濡れた手袋を外し、ミレイユの手首を素手で握った。脈を数えた。手首の皮膚が温かかった。血が巡っている。