大腿動脈の深い傷。ネフィリムの透視が灼きつけた像が、まだ目の裏にある。
オフィリアはミレイユの傍から立ち上がり、広場を見渡した。灯台の残り火がやぐらの骨格を赤く照らし、天華の欠片が石畳に散っている。群衆の半分はまだ何が起きたか理解していない。その頭越しに、倒れている人間を数えた。
七人。うち二人は自力で動いている。一人は瓦礫の下で手だけが見えている。残り四人は判断がつかない。
「白布を十二枚。楽団席を空けて搬送路にしろ。柵は壊していい」
白衣の紋章が声に重みを足した。ヴェロン医術コレギウムの医術師たちは祝祭の裏方として待機していたが、オフィリアの声が飛んだ瞬間に走り出した。階級ではない。この声に、現場は従う。
「蒸気管を引け。中核機関から処置区画まで最短で。呼吸器、吸引、滅菌、照明、加温。全系統同時に立ち上げる」
楽団席の椅子が倒され、譜面台が蹴り飛ばされ、白布が石畳の上に広げられていく。祝祭のために磨かれた石の床が、二分で処置区画に変わった。
蒸気が来た。
舞台裏の中核蒸気機関が唸りを上げ、太い銅管から枝分かれした配管が処置区画へ伸びていく。継ぎ目から白い蒸気が噴き、蒸気灯が白布を昼のように照らし、高圧蒸気が術具の上を通る。プロメニウムの怒りの蒸気が、今は人間の命を繋ぐ道具に変わっていた。
オフィリアはミレイユの傍に戻った。
彼女の美しい目元が痛みで歪んでいる。自分の脚に食い込んだ横木と、石畳に広がっていく赤を、はっきりと見据えていた。
「ミレイユ。処置台に移す。横木はそのまま。脚の角度を変えなければ大丈夫」
大丈夫、は嘘だった。角度を変えなくても、持ち上げる振動だけで裂ける可能性がある。だが今ここでは縫合できない。処置台まで運ばなければ何も始まらない。
「......うん」
ミレイユの声は掠れていた。歌い手の喉が、痛みと恐怖で干上がっている。
オフィリアは四人の医術師を手で呼んだ。一人が頭、一人が胴、二人が下肢。ネフィリムが杖を左手に持ち替え、右手をミレイユの腰の下に差し入れる。暗い痣の走る手の甲が、白い衣装の血に触れた。
オフィリアは自分の両手をミレイユの大腿部の横木に添え、角度を固定した。横木が一度でも傾けば、血管が裂ける。この両手だけが、それを許さない。
「いちで構える。にで浮かす。さんで歩く。いくわよ」
ミレイユが頷いた。唇を噛んでいた。
「いち」
六人の手がミレイユの体の下に揃った。
「に」
持ち上がった。ミレイユの体が石畳から離れた。横木の角度は変わっていない。オフィリアの手首に力が入り、木材の表面が掌に食い込んだ。
「さん」
歩き始めた。灯台の下から処置区画まで三十歩。石畳の継ぎ目を踏むたびに振動が伝わる。速く運びたい。だが揺らせない。三十歩が永遠のように長かった。
ついに白布の処置台を目視する。そこは蒸気灯が白く希望を照らしているかのようだった。
「下ろすわよ!そっとね。そっと!!膝から先に接地させて、大腿部は最後!」
ミレイユの体が白布の上に降りていく。膝が着いた。腰が着いた。背中が着いた。最後にオフィリアの手が横木ごと大腿部を白布に預けた。
それでも起こる着地の衝撃。
最小限に制御したはずの振動が、内膜一枚で繋がっていた動脈壁を裂いた。
血が噴いた。
鮮血が天華の残る夜空へ吹き上がった。赤い弧が聖火の残光を透かし、一瞬だけ美しく見えた。大腿動脈の拍動性出血。心臓が一回打つたびに、ミレイユの命が白布の上に溢れ出す。
「遮断鉗子!!」
オフィリアの右手が伸びた。医術師が鉗子を叩きつけるように手渡す。柄が掌に食い込み、左手が噴き出す血の中に潜って動脈を探した。指先が脈打つ管に触れる。滑る。爪の端で管壁を引っ掛け、開いた顎を噛ませた。ギザギザに尖れた金属が血管壁を挟んだ。
「ぐっっ......!」
ミレイユの背が弓なりに反った。鉗子が動脈壁を噛んだ圧が、損傷部の神経叢を直に叩いた。声にならない呻きが喉の奥から漏れ、両手が白布を掴み、次の瞬間、全身から力が抜けた。痛みの壁を越えて、体が自分を守るために意識を落とした。
血が止まった。拍動性の噴出が消え、術野が静かになった。
「輸液路を取れ。左の肘正中。聖水混合液で全開」
医術師がミレイユの左腕を取り、肘の内側に針を刺した。蒸気加温された聖水混合液が管を伝って静脈に流れ込む。失った血を補うだけではない。損傷組織をこの先の縫合に応答できる相へ押し戻すためだ。聖水は壊れたものをそのまま治す薬ではない。人間が切り、縫い、形を整えた先で効く。
ミレイユの唇にわずかに赤みが戻った。聖水が循環に乗り始めている。
「麻酔に入れろ。蒸気系統で吸入。導入量は体重から逆算、見た目でいい!四十五キロくらいを目安に!」
蒸気機関に接続された吸入器の管がミレイユの口元に運ばれた。蒸気に混ぜた聖水ベースの揮発麻酔剤が肺に入り、呼吸が深く、規則的になっていく。
鎮痛が必要だった。
麻酔は意識を落とすが、痛みそのものを消すわけではない。体の奥で痛覚の信号が暴れ続ければ、心拍が跳ね、血圧が暴れ、術野が荒れる。
そこに白い旋律が処置区画に流れ込んだ。ミレイユの仲間の音律師が処置台の脇に膝をつき、弦を低く鳴らしていた。寄り添う音だった。痛みの波形に沿い、揺らぎごと大きなうねりに包んで鈍らせていく。ミレイユの眉間の皺がわずかに緩む。白の音律だった。
その間に素早くミレイユのあごをあげたオフィリアが躊躇なく気道に挿管を済ませ、蒸気供給機のベローズの動きにミレイユの呼吸を預ける。
そして、オフィリアは素早くミレイユの足もとに移動すると、動脈遮断鉗子を一本追加した。遮断が長引く前に縫合を終わらせなければならない。
その時、鎮痛の音律が広場を奏でた。
処置区画の外縁で、サマエルが立っていた。帝国代表の長身が血と聖水と蒸気の匂いの際まで踏み込み、片手を上げる。黒楽団の音律師が二人、白の音律師の両脇に膝をつき、共振板を床に据えた。白と黒が並び、サマエルの手が下りた。
国境を越えた小編成の合奏が始まった。白が痛みの波形に寄り添い、その上から黒が硬い骨格で振幅を押さえ込む。白は眠りに誘い、黒は痛みを檻に入れる。
処置区画のうめき声が消えた。肋骨を折った男が天を仰ぎ、瓦礫で腕を裂いた女が目を見開いている。痛みが消えたのではない。痛みが「動けなく」なっている。
「痛くない......」
「サマエル様......!」
意識のある負傷者が口々に声を上げた。声は震えていたが、さっきまでの悲鳴とは違う。黒い外套の音律師たちに向けられた感謝だった。
血の匂いの中で、サマエルだけが異質だった。汗も表情も動かない。だが片手の合図ひとつで、敵国の白と自国の黒を一つに束ねてみせた。講和の席に座る男の、もう一つの顔がそこにあった。
オフィリアはその全てを視界の端で受け取り、一度も振り返らなかった。静まった。だから切る。
「横木を抜く。抜いた瞬間に吸引を入れろ。視野を確保する」
オフィリアはミレイユの傍から立ち上がり、広場を見渡した。灯台の残り火がやぐらの骨格を赤く照らし、天華の欠片が石畳に散っている。群衆の半分はまだ何が起きたか理解していない。その頭越しに、倒れている人間を数えた。
七人。うち二人は自力で動いている。一人は瓦礫の下で手だけが見えている。残り四人は判断がつかない。
「白布を十二枚。楽団席を空けて搬送路にしろ。柵は壊していい」
白衣の紋章が声に重みを足した。ヴェロン医術コレギウムの医術師たちは祝祭の裏方として待機していたが、オフィリアの声が飛んだ瞬間に走り出した。階級ではない。この声に、現場は従う。
「蒸気管を引け。中核機関から処置区画まで最短で。呼吸器、吸引、滅菌、照明、加温。全系統同時に立ち上げる」
楽団席の椅子が倒され、譜面台が蹴り飛ばされ、白布が石畳の上に広げられていく。祝祭のために磨かれた石の床が、二分で処置区画に変わった。
蒸気が来た。
舞台裏の中核蒸気機関が唸りを上げ、太い銅管から枝分かれした配管が処置区画へ伸びていく。継ぎ目から白い蒸気が噴き、蒸気灯が白布を昼のように照らし、高圧蒸気が術具の上を通る。プロメニウムの怒りの蒸気が、今は人間の命を繋ぐ道具に変わっていた。
オフィリアはミレイユの傍に戻った。
彼女の美しい目元が痛みで歪んでいる。自分の脚に食い込んだ横木と、石畳に広がっていく赤を、はっきりと見据えていた。
「ミレイユ。処置台に移す。横木はそのまま。脚の角度を変えなければ大丈夫」
大丈夫、は嘘だった。角度を変えなくても、持ち上げる振動だけで裂ける可能性がある。だが今ここでは縫合できない。処置台まで運ばなければ何も始まらない。
「......うん」
ミレイユの声は掠れていた。歌い手の喉が、痛みと恐怖で干上がっている。
オフィリアは四人の医術師を手で呼んだ。一人が頭、一人が胴、二人が下肢。ネフィリムが杖を左手に持ち替え、右手をミレイユの腰の下に差し入れる。暗い痣の走る手の甲が、白い衣装の血に触れた。
オフィリアは自分の両手をミレイユの大腿部の横木に添え、角度を固定した。横木が一度でも傾けば、血管が裂ける。この両手だけが、それを許さない。
「いちで構える。にで浮かす。さんで歩く。いくわよ」
ミレイユが頷いた。唇を噛んでいた。
「いち」
六人の手がミレイユの体の下に揃った。
「に」
持ち上がった。ミレイユの体が石畳から離れた。横木の角度は変わっていない。オフィリアの手首に力が入り、木材の表面が掌に食い込んだ。
「さん」
歩き始めた。灯台の下から処置区画まで三十歩。石畳の継ぎ目を踏むたびに振動が伝わる。速く運びたい。だが揺らせない。三十歩が永遠のように長かった。
ついに白布の処置台を目視する。そこは蒸気灯が白く希望を照らしているかのようだった。
「下ろすわよ!そっとね。そっと!!膝から先に接地させて、大腿部は最後!」
ミレイユの体が白布の上に降りていく。膝が着いた。腰が着いた。背中が着いた。最後にオフィリアの手が横木ごと大腿部を白布に預けた。
それでも起こる着地の衝撃。
最小限に制御したはずの振動が、内膜一枚で繋がっていた動脈壁を裂いた。
血が噴いた。
鮮血が天華の残る夜空へ吹き上がった。赤い弧が聖火の残光を透かし、一瞬だけ美しく見えた。大腿動脈の拍動性出血。心臓が一回打つたびに、ミレイユの命が白布の上に溢れ出す。
「遮断鉗子!!」
オフィリアの右手が伸びた。医術師が鉗子を叩きつけるように手渡す。柄が掌に食い込み、左手が噴き出す血の中に潜って動脈を探した。指先が脈打つ管に触れる。滑る。爪の端で管壁を引っ掛け、開いた顎を噛ませた。ギザギザに尖れた金属が血管壁を挟んだ。
「ぐっっ......!」
ミレイユの背が弓なりに反った。鉗子が動脈壁を噛んだ圧が、損傷部の神経叢を直に叩いた。声にならない呻きが喉の奥から漏れ、両手が白布を掴み、次の瞬間、全身から力が抜けた。痛みの壁を越えて、体が自分を守るために意識を落とした。
血が止まった。拍動性の噴出が消え、術野が静かになった。
「輸液路を取れ。左の肘正中。聖水混合液で全開」
医術師がミレイユの左腕を取り、肘の内側に針を刺した。蒸気加温された聖水混合液が管を伝って静脈に流れ込む。失った血を補うだけではない。損傷組織をこの先の縫合に応答できる相へ押し戻すためだ。聖水は壊れたものをそのまま治す薬ではない。人間が切り、縫い、形を整えた先で効く。
ミレイユの唇にわずかに赤みが戻った。聖水が循環に乗り始めている。
「麻酔に入れろ。蒸気系統で吸入。導入量は体重から逆算、見た目でいい!四十五キロくらいを目安に!」
蒸気機関に接続された吸入器の管がミレイユの口元に運ばれた。蒸気に混ぜた聖水ベースの揮発麻酔剤が肺に入り、呼吸が深く、規則的になっていく。
鎮痛が必要だった。
麻酔は意識を落とすが、痛みそのものを消すわけではない。体の奥で痛覚の信号が暴れ続ければ、心拍が跳ね、血圧が暴れ、術野が荒れる。
そこに白い旋律が処置区画に流れ込んだ。ミレイユの仲間の音律師が処置台の脇に膝をつき、弦を低く鳴らしていた。寄り添う音だった。痛みの波形に沿い、揺らぎごと大きなうねりに包んで鈍らせていく。ミレイユの眉間の皺がわずかに緩む。白の音律だった。
その間に素早くミレイユのあごをあげたオフィリアが躊躇なく気道に挿管を済ませ、蒸気供給機のベローズの動きにミレイユの呼吸を預ける。
そして、オフィリアは素早くミレイユの足もとに移動すると、動脈遮断鉗子を一本追加した。遮断が長引く前に縫合を終わらせなければならない。
その時、鎮痛の音律が広場を奏でた。
処置区画の外縁で、サマエルが立っていた。帝国代表の長身が血と聖水と蒸気の匂いの際まで踏み込み、片手を上げる。黒楽団の音律師が二人、白の音律師の両脇に膝をつき、共振板を床に据えた。白と黒が並び、サマエルの手が下りた。
国境を越えた小編成の合奏が始まった。白が痛みの波形に寄り添い、その上から黒が硬い骨格で振幅を押さえ込む。白は眠りに誘い、黒は痛みを檻に入れる。
処置区画のうめき声が消えた。肋骨を折った男が天を仰ぎ、瓦礫で腕を裂いた女が目を見開いている。痛みが消えたのではない。痛みが「動けなく」なっている。
「痛くない......」
「サマエル様......!」
意識のある負傷者が口々に声を上げた。声は震えていたが、さっきまでの悲鳴とは違う。黒い外套の音律師たちに向けられた感謝だった。
血の匂いの中で、サマエルだけが異質だった。汗も表情も動かない。だが片手の合図ひとつで、敵国の白と自国の黒を一つに束ねてみせた。講和の席に座る男の、もう一つの顔がそこにあった。
オフィリアはその全てを視界の端で受け取り、一度も振り返らなかった。静まった。だから切る。
「横木を抜く。抜いた瞬間に吸引を入れろ。視野を確保する」
