カチャリ、と硬質な音が部屋に響いた。
僕は指先で小さな南京錠を摘み、それが確実にロックされたことを確認する。
木製の学習机の一番上の引き出し。そこには、僕の命とも言える通帳と印鑑、そして今月分の生活費を入れた茶封筒が眠っている。
シェアハウスの個室で、机の引き出しに鍵をかけるなんて、神経質だと思われるかもしれない。いや、間違いなく思われているだろう。
だが、僕には必要な儀式だった。
窓の外から、セミの鳴き声が降り注いでいる。
ミーン、ミーン、ミーン。
……夏は嫌いだ。
僕は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、深いため息をついた。
僕の名前は倉木羽依(くらき・うい)。都内の私立大学に通う文学部の3年生だ。
「羽依」という名前は、「羽」を広げて自由に生きてほしいという願いでつけられたらしい。
そんな願いとは裏腹に、僕の人生は「依」存の泥沼に沈んでいる親に侵され、僕もまたその支配から完全に逃げきれず、鎖を引きずっている。
羽ばたくことなど許されず、地を這うだけの今の僕に、これほど皮肉な名前があるだろうか。
***
梅雨が明け、セミの鳴き声が聞こえ始める季節になると、高校1年生の忌まわしい思い出が蘇る。
それは、僕が初めて「労働」という対価によって、自由の片鱗を掴みかけた夏であり、同時にその翼を無惨にもぎ取られた夏でもあった。
高校に入学してすぐ、僕はアルバイトを探した。
理由は単純だ。一日でも早く、一秒でも早く、あの家を出るための資金が欲しかったからだ。
父のギャンブル、母の見て見ぬふり、常に怒号と金策の電話が飛び交うリビング。そこは家庭ではなく、精神を摩耗させるだけの収容所だった。
僕は年齢を誤魔化せるような体格ではなかったが、駅前の個人経営の運送会社の倉庫が、高校生可の仕分けバイトを募集しているのを見つけた。
時給は最低賃金スレスレ。環境は劣悪。
空調の効かない巨大な倉庫内は、夏になれば蒸し風呂と化した。
その年の夏休み、僕は文字通り、すべてを労働に捧げた。
同級生たちが海だ、祭りだと浮かれている間、僕は朝から晩まで倉庫に篭り、ひたすら段ボールを運び続けた。
埃っぽい空気。Tシャツが絞れるほどの汗。段ボールの摩擦で擦りむけた指先。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、足は棒のようになった。
それでも、苦ではなかった。
重い荷物を一つ運ぶたびに、家を出るための距離が1センチ縮まるような気がしたからだ。肉体的な疲労は、精神的な苦痛を麻痺させてくれる鎮痛剤代わりにもなった。
給料日は手渡しだった。
分厚い作業用手袋を外し、茶封筒を受け取った時の震えを、今でも覚えている。
一月分の労働の結晶。
10万円と少し。
高校生の僕にとっては、目が眩むほどの大金だった。それは単なる紙切れではなく、「自由への切符」そのものに見えた。
僕はその封筒をリュックの底に隠し、誰にも見つからないように抱きしめて帰った。
銀行口座に入れれば、親に管理される可能性がある。
だから僕は、自室の勉強机の裏側、引き出しの奥の隙間に、封筒をガムテープで貼り付けて隠した。
夜中、家族が寝静まった後にこっそりと封筒を取り出し、諭吉の顔を眺めるのが唯一の安らぎだった。
あと2年。
あと2年、こうして耐え抜いて金を貯めれば、卒業と同時にこの家を捨てられる。
そう信じていた。
***
最初は、なにが起きたのか。なにが起きているのか、わからなかった。
8月の終わり、夏休みも残り少なくなった日のことだ。
僕はいつものようにバイトを終え、くたくたになって帰宅した。
その日は記録的な猛暑日だった。
暑さに焼かれながらの肉体労働で疲れ切った己を労うため、一刻も早く諭吉様の顔を眺めようと、引き出しの奥に手を伸ばした。
「……ない」
……封筒が、消えていたのだ。
早鐘を打つように鼓動が早まり、その振動で視界が揺れた。
いや、部屋のどこかに落としたのかもしれない。
”誰かさん”にさえ盗られていなければ、まだ金は無事だ。
そう自分に言い聞かせた矢先、背後から湿った声が聞こえてきた。
「おかえり、羽依」
背筋が凍る。
振り返ると、部屋の入り口に父が立っていた。
ひどく酒臭く、パチンコ屋特有のタバコの臭いが染み付いた服を着て、充血した目で僕を見ていた。その手はぶらりと下がっており、何も持っていなかった。
「……父さん、僕の金……あそこにあった封筒……」
「ああ、あれか」
父は視線を泳がせ、頭をボリボリと掻いた。
そして、まるで「冷蔵庫のプリンを食べてしまった」くらいの軽い口調で、とんでもないことを言った。
「すまん。……全部、溶かしちまった」
時が止まった気がした。
溶かした?
10万円を? 僕が炎天下の倉庫で、血豆を作りながら貯めたあの金を?
「……嘘だろ? 返せよ。あれは僕の……」
「だから、ねえんだよ!」
父がいきなり大声を出した。
それは威圧ではなく、追い詰められた人間特有の、甲高いヒステリックな叫びだった。
父はドカドカと部屋に入ってくると、その場に胡座をかいて座り込んだ。
「倍にして返そうと思ったんだよ! お前だって、家計が苦しいのは知ってただろ? だから、父さんが増やしてやろうと思って……。そしたら、今日は台の調子が悪くて……」
「そんなの言い訳だろ! なんで勝手に持ち出したんだよ!」
僕が詰め寄ると、父は怯えたように身を縮こまらせ、次の瞬間、開き直ったように顔を歪めた。
「しょうがないだろ! 見つけちまったんだから! 親に隠れてこそこそ貯め込んで……水臭い真似するお前が悪いんだ!」
「僕の金だぞ! 泥棒!」
「泥棒だと!?」
父が立ち上がり、僕の胸をドンと突き飛ばした。
力は弱かった。酒に溺れた男の、へなへなとした突き飛ばしだった。
僕は尻餅をついた。
「誰が飯を食わせてやってると思ってるんだ。親の金で育ったくせに、10万やそこらで目くじら立てやがって……。ケチくさいガキだ」
父は吐き捨てるように言ったが、その目は潤んでいた。
罪悪感と、それを認めたくないプライドと、金がない惨めさが入り混じった、どうしようもなく情けない目だった。
「……来月。来月勝ったら返すから。な? ガタガタ言うな」
父は僕から逃げるように背を向け、フラフラと部屋を出て行った。
殴り合いの喧嘩をして奪われたなら、まだマシだったかもしれない。
けれど現実は、僕が気づいた時にはもう、すべてが手遅れだった。
あの汗と涙の結晶は、僕の知らない間に、パチンコ台の電子音とタバコの煙に消えていたのだ。
残されたのは、空っぽの隠し場所と、空っぽの僕だけ。
怒りよりも先に、深い徒労感が押し寄せた。
この男には、言葉が通じない。
この家にある限り、僕のものは何一つ守られない。
僕は床に突っ伏し、声を殺して泣いた。
窓の外では、セミが狂ったように鳴いていた。
ミーン、ミーン、ミーン。
その声は、僕の愚かさを嘲笑っているようだった。
あの夏、僕は死んだんだと思う。
希望を持っていた僕は死に、代わりに、誰も信用せず、金だけに執着し、息を潜めて生きる今の僕が生まれた。
だから僕は、夏が嫌いだ。
セミの声を聞くと、あの時の蒸し暑い倉庫の匂いと、父の腐った酒の臭い、そして絶望の味が、昨日のことのように蘇るからだ。
***
実家という名の地獄から逃げ出し、この古びた洋館風シェアハウス『メゾン・ブルー』にたどり着いて半年。
月1万円という破格の家賃と、大学への近さだけで選んだこの場所は、男だらけのむさ苦しさを除けば、隠れ家としては悪くなかった。
住人たちは皆、能天気で、善良で、そして「普通の幸せ」を知っている人種だった。
だからこそ、僕は彼らと一線を引いている。
彼らの光が眩しすぎて、僕の影が色濃く浮き彫りになってしまうからだ。
「……バイト、行かなきゃ」
壁掛け時計を見る。夕方からのシフトまであと1時間。
僕は鍵をチェーンに通して首から下げ、Tシャツの中に隠した。冷たい金属が胸骨に触れる感触だけが、僕に安心感を与えてくれる。
僕はリュックを背負い、部屋を出た。
1階のリビングに降りると、美味そうな匂いが充満していた。
キッチンでは、料理担当の三上晴(みかみ・はる)が、鼻歌交じりに鍋をかき混ぜている。
「あ、羽依! 起きた?」
晴さんが振り返る。エプロン姿が妙に似合う、優男だ。
「……おはようございます」
「今日、新しい入居者が来る日だって知ってる? 晩ご飯、歓迎会でビーフシチューにするんだけど、羽依も食べるでしょ?」
新しい入居者。
そういえば、数日前からオーナーの守屋武(もりや・たけし)さんが騒いでいた気がする。202号室、つまり僕の部屋のもう一つのベッドが埋まるのだ。
最悪だ。
今まで一人部屋のように使えていた聖域が、今日から他人との共有スペースになる。
「いえ、バイトあるんで」
僕は短く断った。
「えー、また? たまには付き合いなよ。今度の新人くん、経営学部のイケメンらしいよ?」
「興味ないです」
僕は視線を逸らし、靴箱に向かった。
イケメンだろうが何だろうが、関係ない。どうせまた、能天気な陽キャが増えるだけだ。夜中に騒がれたり、部屋に友達を連れ込まれたりしたら溜まったものじゃない。
早くここを出ていきたい。
あと200万円。それが貯まれば、僕は誰にも居場所を知られない遠くへ行って、一人で暮らすんだ。
玄関でスニーカーの踵を潰さないように履いていた、その時だった。
玄関のドアが、勢いよく開いた。
夏の強烈な日差しと一緒に、熱風が吹き込んでくる。
「こんにちは! 今日からお世話になります!」
大きく、よく通る声。
逆光で顔が見えない。ただ、背が高いことと、赤茶色に染めた髪が光を反射して輝いていることだけが分かった。
男は大きなボストンバッグを肩に担ぎ、汗を拭いながら一歩中に入ってきた。
そして、靴を履こうとしていた僕と、真正面から鉢合わせた。
「よろしくな!」
男がニカっと笑った。
ドクン。
心臓が、聞いたことのない音を立てた。
血液が沸騰し、思考が白く弾け飛ぶ。自分の中で何かが決定的に壊れてしまう、甘く絶望的な崩壊の音だった。
目の前に立っていたのは、同じ人類とは思えないほど造形の整った男だった。
意志の強そうな太い眉。涼しげなのに熱を帯びた切れ長の目。高く通った鼻筋に、笑うと片方だけできるえくぼ。
汗に濡れた前髪をかき上げる仕草が、スローモーションのように目に焼き付く。
白いTシャツから伸びる腕は、適度に筋肉がついていて逞しい。
(……きれいだ)
思考のフィルターを通す前に、本能がそう結論づけてしまった。
かっこいい、なんて安っぽい言葉じゃ足りない。
美しい。
生命力に溢れていて、眩しくて、直視できない。
まずい。
これは、まずい。
僕の人生において、関わってはいけないタイプだ。
僕のような日陰者が、こんな太陽みたいな人間に近づけば、焼き尽くされて影すら残らない。
それに、なんだこの胸の高鳴りは。
うるさい。心臓がうるさい。肋骨を蹴破って出てきそうなほど暴れている。
顔が熱い。耳まで赤いのが自分でも分かる。
見られたくない。
こんな、間抜けに見とれている顔を、彼に見られたくない。
逃げなきゃ。
防衛本能がサイレンを鳴らした。
僕は差し出された手を無視し、視線を足元に落とした。
表情筋を総動員して、鉄のような無表情を作る。
「……どうも」
喉から絞り出したのは、愛想のかけらもない低い声だった。
しかし、僕の冷たい態度など、そよ風程度にしか感じていないかのように、彼の顔にはりついた笑顔は微動だにしなかった。
それどころか、僕の鉄仮面に対抗するかのように、彼の表情筋もフル稼働しているようだった。
完璧な角度で口角が上がり、白い歯がキラリと光る。鉄壁の笑顔。
「俺、202号室に入居することになった甲斐原涼(かいはら・りょう)!……えっと、君も住人だよね? 名前は?」
「……倉木」
「倉木くんか。よろしく! これから仲良く……」
「急いでるんで」
僕は彼の言葉を遮り、逃げるように横をすり抜けた。
すれ違いざま、ふわりと香水の匂いがした。摘み取ったばかりのベリーの果汁と、草木のみずみずしさが弾けるような、深く透明感のある香り。それに混じって、男らしい汗の匂い。
脳髄が痺れるような感覚。
僕は息を止め、玄関を飛び出した。
外の熱気が肌にまとわりつく。
僕はシェアハウスが見えなくなる角まで早歩きし、そこで膝に手をついて荒い息を吐いた。
「……はぁ、はぁ……ッ」
心臓がまだバクバク言っている。
なんだ、今の。
なんなんだ、あの人は。
ただのルームメイトだろ? 新入居者だろ?
なんであんなに、キラキラしてるんだよ。
「……最悪だ」
僕はアスファルトに滴る自分の汗を見つめた。
一目惚れ。
そんな馬鹿げた単語が頭をよぎり、僕は激しく首を振った。
ありえない。僕は恋愛なんてしている余裕はないんだ。金もない、未来もない、親という爆弾を抱えた人間に、恋をする資格なんてない。
それに、あんな華やかな人間が、僕みたいな根暗を相手にするわけがない。
もし、僕が彼に惹かれていると知られたら?
きっと軽蔑される。「気持ち悪い」と思われるか、あるいは「可哀想な奴」と同情されるかだ。
どっちも耐えられない。
絶対にバレてはいけない。
僕は決めた。
彼とは関わらない。
必要最低限の会話しかしない。目は合わせない。
徹底的に「愛想の悪い奴」になりきって、彼の方から僕を嫌ってもらうように仕向けるんだ。
そうすれば、この暴走しそうな心臓も、いつか静かになるはずだ。
------「俺、202号室に入居することになった甲斐原涼!」
鼓動を抑えようとしても、彼の笑顔が脳裏にこびりついて離れない。
……ん、202号室?
彼が言っていた部屋番号の意味に、今さら気づいて、僕は頭を抱えた。
同室じゃん。
逃げ場、ないじゃん。
***
バイトが終わったのは夜の11時過ぎだった。
コンビニの廃棄弁当をリュックに詰め込み、僕は重い足取りでシェアハウスに帰った。
帰りたくなかった。
あの部屋に、彼がいると思うだけで、胃がキリキリと痛む。
でも、帰らないわけにはいかない。
玄関を開けると、リビングは消灯されていたが、飲み会の残り香が漂っていた。空き缶やピザの箱がテーブルに残されている。
歓迎会は盛り上がったらしい。
僕は音を立てないように階段を上がった。
202号室の前で立ち止まる。
深呼吸。
大丈夫。僕はただの不機嫌な同居人だ。感情なんてない。石ころだ。
そう言い聞かせて、ドアノブを回した。
部屋は暗かった。
二段ベッドの上段から、規則正しい寝息が聞こえる。
寝てる……?
ほっとしたような、少し残念なような、複雑な感情を押し殺し、僕は部屋に入った。
スマホのライトで足元を照らす。
部屋の空気が変わっていた。
今までは無味乾燥な空間だったのに、今は彼の匂いが充満している。机の上には、見慣れない整髪料やアクセサリーが置かれ、椅子の背には派手な柄のシャツが掛けられていた。
生活感。
他人の、それも圧倒的な「強者」の気配。
僕は息が詰まりそうになった。
自分のスペース――部屋の右側、二段ベッドの下段と、右半分のデスクに向かう。
そこだけが僕の陣地だ。
僕は音を立てないように着替えようとした。
その時。
上段のベッドがギシッと鳴った。
「……ん……帰ったのか?」
眠たげな、低い声。
ビクリと肩が跳ねた。
起きてたのかよ。
僕は心臓を押さえながら、冷たく言い放つ。
「……起こしましたか」
「いや、起きてた。……倉木、だっけ?」
暗闇の中で、彼が身じろぎする気配がする。
「歓迎会、来ればよかったのに。みんな待ってたぞ」
「忙しかったんで」
「そっか。……あ、これ」
ギシッ、と頭上のスプリングが大きく軋んだ。
次の瞬間。
二段ベッドの柵から、影が覆いかぶさるように身を乗り出してきた。
「!?」
息を呑んで見上げると、すぐそこ――鼻先が触れそうな距離に、涼の顔があった。
彼は柵に腕を絡ませ、上半身をだらりとぶら下げるようにして、逆さまに僕を覗き込んでいたのだ。
重力に従って、赤茶色の前髪がサラサラと落ちてくる。
暗闇に慣れた目が、至近距離でカチリと僕の視線を捉えた。
ドクン。
心臓が、肋骨を蹴り上げるような音を立てた。
近い。
あまりにも、近すぎる。
薄暗がりの中でも分かる、整いすぎた目鼻立ち。二重の幅。
そして、上から降り注ぐ体温と、あのベリーの甘酸っぱい残り香。
圧倒的な「雄」の質量が、頭上から僕を圧迫してくる。
「差し入れ。お疲れさん」
彼は悪びれもなくニッと笑い、ぶら下げた右手を目の前に突き出した。
微糖の缶コーヒーだ。
僕は金縛りにあったように動けなかった。
彼の無防備な視線が、僕の瞳孔の奥まで覗き込んでくるようで、全身の毛穴が開くような緊張感に襲われた。
バレる。
この距離で、こんな爆音の鼓動を聞かれたら、僕が動揺していることがバレてしまう。
「……ど、どうも」
僕はひったくるように缶コーヒーを受け取ろうとした。
その瞬間だ。
缶から離れるはずだった彼の指が、なぜか離れない。
それどころか、まるで意志を持った生き物のように、ぬるりと僕の指の隙間に滑り込んできた。
「え……?」
思考が停止する。
冷たいスチール缶の上で、彼の熱い指と僕の指が、互い違いに深く絡み合っていた。
ギュッ、と一瞬、彼が確かめるように力を込める。
硬いタコのある指の感触。脈打つ血管の振動。
そして、不当なほど高い彼の体温が、指の股という敏感な部分から侵入してきて、僕の血液を沸騰させる。
捕まった。
逃げられない。
僕が息を呑んで固まっていると、彼は悪びれもなくニカっと笑い、ゆっくりと指を解いた。
名残惜しむように、指先が掌を擦っていく感触に、ゾクリとする。
「これからよろしくな、ルームメイト」
彼は満足そうに言うと、身を翻してベッドの上に戻っていった。
ふわりと舞った風圧が、火照った僕の頬を撫でた。
僕は握りしめた缶コーヒーを、そっと頬に当てた。
冷たい。
火照った頬には気持ちよかった。
すぐ上に、彼がいる。
薄い板一枚隔てたところに、あの甲斐原涼が寝ている。
彼の寝息が聞こえる。スースーというリズム。
寝返りを打つ音。
その一つ一つが、僕の神経を逆撫でする。いや、逆撫でじゃない。快感と恐怖がないまぜになったような、奇妙な感覚だ。
なんで、あんなにカッコいいんだよ。
なんで、あんなに気さくなんだよ。
神様は不公平だ。全部持ってる人間がいるなんて。
僕は惨めだ。
引き出しに鍵をかけて、数百円の弁当代を惜しんで、親に怯えて暮らしている。
彼と僕とでは、住む世界が違う。
関わっちゃいけない。好きになっちゃいけない。
その夜、僕はほとんど眠れなかった。
上の段から聞こえる彼の存在感が、あまりにも大きすぎたからだ。
***
翌朝。
僕はアラームが鳴る前に目を覚ました。
睡眠不足で頭が重い。
時計を見ると6時。まだ彼は寝ているだろう。
今のうちに支度をして、顔を合わせずに出て行こう。
僕は音を立てないようにベッドから抜け出した。
洗面所で顔を洗い、シャツを着替える。鏡に映る自分の顔は、クマが酷くて死人のようだった。
彼とは大違いだ。
机の前に座り、いつものルーティンを行う。
首から下げた鍵で、南京錠を開ける。
引き出しを開け、中を確認する。
通帳。印鑑。封筒。
ある。大丈夫だ。
僕は小さく息を吐き、また南京錠をかけた。
カチャリ。
その音が、早朝の静寂に響いた。
「……何してんの?」
背後から声がした。
心臓が口から飛び出るかと思った。
バッと振り返ると、甲斐原がベッドから上半身を起こしていた。
寝癖のついた髪。眠そうな目。はだけた胸元。
無防備すぎるその姿に、僕の視線が釘付けになる。
いや、違う。
見られた。
引き出しに鍵をかけているところを、見られた。
「……おはよう」
彼は欠伸を噛み殺しながら言った。
怪訝そうな顔をしている。当然だ。自分の部屋の引き出しに南京錠をかけている奴なんて、異常者だ。
恥ずかしさが一気に込み上げてきた。
貧乏くさい。信用していないみたいだ。
でも、弁解なんてできない。
「……おはようございます」
僕は引き出しを背中で隠し、鞄を掴んだ。
「え、もう行くの? 朝飯は?」
「食べません」
「待てよ、俺も起きるから一緒に行こうぜ」
彼がシーツを跳ね除けて降りてこようとする。
やめてくれ。
これ以上、僕のパーソナルスペースに入ってこないでくれ。
君のその無邪気な「仲良くしようぜ」というオーラが、僕には刃物のように痛いんだ。
「……迷惑です」
僕は精一杯の棘を含んで言った。
甲斐原の動きが止まる。
「朝は一人でいたいんです。……構わないでください」
拒絶。
明確な拒絶の言葉。
これでいい。これで彼は僕を「感じの悪い奴」認定して、話しかけてこなくなるはずだ。
彼の顔を見る勇気はなかった。
僕は逃げるようにドアを開け、廊下に飛び出した。
1階に降りると、守屋さんがコーヒーを飲んでいた。
「お、羽依。早いな」
「行ってきます」
「甲斐原はどうした? まだ寝てるか?」
「……知りません」
僕は靴を履き、外に飛び出した。
朝の空気はまだ少し冷たい。
僕は駅に向かって歩きながら、唇を噛み締めた。
自己嫌悪で胸が潰れそうだ。
あんな言い方しなくてもよかったのに。
「迷惑です」なんて。
でも、そうでもしないと、あの無防備な寝顔に見とれてしまいそうだった。
彼の視線に耐えられそうになかった。
「ごめんなさい」
僕は心の中で呟いた。
届くはずのない謝罪。
でも、これが正解だ。
僕は影の中で生きる人間。彼は光の中で生きる人間。
交わってはいけない。
たとえ、一目見た瞬間に、世界が色づいて見えてしまったとしても。
僕はリュックのストラップを強く握りしめ、振り返らずに歩き出した。
胸元の冷たい鍵の感触だけが、今の僕を支えていた。
僕は指先で小さな南京錠を摘み、それが確実にロックされたことを確認する。
木製の学習机の一番上の引き出し。そこには、僕の命とも言える通帳と印鑑、そして今月分の生活費を入れた茶封筒が眠っている。
シェアハウスの個室で、机の引き出しに鍵をかけるなんて、神経質だと思われるかもしれない。いや、間違いなく思われているだろう。
だが、僕には必要な儀式だった。
窓の外から、セミの鳴き声が降り注いでいる。
ミーン、ミーン、ミーン。
……夏は嫌いだ。
僕は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、深いため息をついた。
僕の名前は倉木羽依(くらき・うい)。都内の私立大学に通う文学部の3年生だ。
「羽依」という名前は、「羽」を広げて自由に生きてほしいという願いでつけられたらしい。
そんな願いとは裏腹に、僕の人生は「依」存の泥沼に沈んでいる親に侵され、僕もまたその支配から完全に逃げきれず、鎖を引きずっている。
羽ばたくことなど許されず、地を這うだけの今の僕に、これほど皮肉な名前があるだろうか。
***
梅雨が明け、セミの鳴き声が聞こえ始める季節になると、高校1年生の忌まわしい思い出が蘇る。
それは、僕が初めて「労働」という対価によって、自由の片鱗を掴みかけた夏であり、同時にその翼を無惨にもぎ取られた夏でもあった。
高校に入学してすぐ、僕はアルバイトを探した。
理由は単純だ。一日でも早く、一秒でも早く、あの家を出るための資金が欲しかったからだ。
父のギャンブル、母の見て見ぬふり、常に怒号と金策の電話が飛び交うリビング。そこは家庭ではなく、精神を摩耗させるだけの収容所だった。
僕は年齢を誤魔化せるような体格ではなかったが、駅前の個人経営の運送会社の倉庫が、高校生可の仕分けバイトを募集しているのを見つけた。
時給は最低賃金スレスレ。環境は劣悪。
空調の効かない巨大な倉庫内は、夏になれば蒸し風呂と化した。
その年の夏休み、僕は文字通り、すべてを労働に捧げた。
同級生たちが海だ、祭りだと浮かれている間、僕は朝から晩まで倉庫に篭り、ひたすら段ボールを運び続けた。
埃っぽい空気。Tシャツが絞れるほどの汗。段ボールの摩擦で擦りむけた指先。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、足は棒のようになった。
それでも、苦ではなかった。
重い荷物を一つ運ぶたびに、家を出るための距離が1センチ縮まるような気がしたからだ。肉体的な疲労は、精神的な苦痛を麻痺させてくれる鎮痛剤代わりにもなった。
給料日は手渡しだった。
分厚い作業用手袋を外し、茶封筒を受け取った時の震えを、今でも覚えている。
一月分の労働の結晶。
10万円と少し。
高校生の僕にとっては、目が眩むほどの大金だった。それは単なる紙切れではなく、「自由への切符」そのものに見えた。
僕はその封筒をリュックの底に隠し、誰にも見つからないように抱きしめて帰った。
銀行口座に入れれば、親に管理される可能性がある。
だから僕は、自室の勉強机の裏側、引き出しの奥の隙間に、封筒をガムテープで貼り付けて隠した。
夜中、家族が寝静まった後にこっそりと封筒を取り出し、諭吉の顔を眺めるのが唯一の安らぎだった。
あと2年。
あと2年、こうして耐え抜いて金を貯めれば、卒業と同時にこの家を捨てられる。
そう信じていた。
***
最初は、なにが起きたのか。なにが起きているのか、わからなかった。
8月の終わり、夏休みも残り少なくなった日のことだ。
僕はいつものようにバイトを終え、くたくたになって帰宅した。
その日は記録的な猛暑日だった。
暑さに焼かれながらの肉体労働で疲れ切った己を労うため、一刻も早く諭吉様の顔を眺めようと、引き出しの奥に手を伸ばした。
「……ない」
……封筒が、消えていたのだ。
早鐘を打つように鼓動が早まり、その振動で視界が揺れた。
いや、部屋のどこかに落としたのかもしれない。
”誰かさん”にさえ盗られていなければ、まだ金は無事だ。
そう自分に言い聞かせた矢先、背後から湿った声が聞こえてきた。
「おかえり、羽依」
背筋が凍る。
振り返ると、部屋の入り口に父が立っていた。
ひどく酒臭く、パチンコ屋特有のタバコの臭いが染み付いた服を着て、充血した目で僕を見ていた。その手はぶらりと下がっており、何も持っていなかった。
「……父さん、僕の金……あそこにあった封筒……」
「ああ、あれか」
父は視線を泳がせ、頭をボリボリと掻いた。
そして、まるで「冷蔵庫のプリンを食べてしまった」くらいの軽い口調で、とんでもないことを言った。
「すまん。……全部、溶かしちまった」
時が止まった気がした。
溶かした?
10万円を? 僕が炎天下の倉庫で、血豆を作りながら貯めたあの金を?
「……嘘だろ? 返せよ。あれは僕の……」
「だから、ねえんだよ!」
父がいきなり大声を出した。
それは威圧ではなく、追い詰められた人間特有の、甲高いヒステリックな叫びだった。
父はドカドカと部屋に入ってくると、その場に胡座をかいて座り込んだ。
「倍にして返そうと思ったんだよ! お前だって、家計が苦しいのは知ってただろ? だから、父さんが増やしてやろうと思って……。そしたら、今日は台の調子が悪くて……」
「そんなの言い訳だろ! なんで勝手に持ち出したんだよ!」
僕が詰め寄ると、父は怯えたように身を縮こまらせ、次の瞬間、開き直ったように顔を歪めた。
「しょうがないだろ! 見つけちまったんだから! 親に隠れてこそこそ貯め込んで……水臭い真似するお前が悪いんだ!」
「僕の金だぞ! 泥棒!」
「泥棒だと!?」
父が立ち上がり、僕の胸をドンと突き飛ばした。
力は弱かった。酒に溺れた男の、へなへなとした突き飛ばしだった。
僕は尻餅をついた。
「誰が飯を食わせてやってると思ってるんだ。親の金で育ったくせに、10万やそこらで目くじら立てやがって……。ケチくさいガキだ」
父は吐き捨てるように言ったが、その目は潤んでいた。
罪悪感と、それを認めたくないプライドと、金がない惨めさが入り混じった、どうしようもなく情けない目だった。
「……来月。来月勝ったら返すから。な? ガタガタ言うな」
父は僕から逃げるように背を向け、フラフラと部屋を出て行った。
殴り合いの喧嘩をして奪われたなら、まだマシだったかもしれない。
けれど現実は、僕が気づいた時にはもう、すべてが手遅れだった。
あの汗と涙の結晶は、僕の知らない間に、パチンコ台の電子音とタバコの煙に消えていたのだ。
残されたのは、空っぽの隠し場所と、空っぽの僕だけ。
怒りよりも先に、深い徒労感が押し寄せた。
この男には、言葉が通じない。
この家にある限り、僕のものは何一つ守られない。
僕は床に突っ伏し、声を殺して泣いた。
窓の外では、セミが狂ったように鳴いていた。
ミーン、ミーン、ミーン。
その声は、僕の愚かさを嘲笑っているようだった。
あの夏、僕は死んだんだと思う。
希望を持っていた僕は死に、代わりに、誰も信用せず、金だけに執着し、息を潜めて生きる今の僕が生まれた。
だから僕は、夏が嫌いだ。
セミの声を聞くと、あの時の蒸し暑い倉庫の匂いと、父の腐った酒の臭い、そして絶望の味が、昨日のことのように蘇るからだ。
***
実家という名の地獄から逃げ出し、この古びた洋館風シェアハウス『メゾン・ブルー』にたどり着いて半年。
月1万円という破格の家賃と、大学への近さだけで選んだこの場所は、男だらけのむさ苦しさを除けば、隠れ家としては悪くなかった。
住人たちは皆、能天気で、善良で、そして「普通の幸せ」を知っている人種だった。
だからこそ、僕は彼らと一線を引いている。
彼らの光が眩しすぎて、僕の影が色濃く浮き彫りになってしまうからだ。
「……バイト、行かなきゃ」
壁掛け時計を見る。夕方からのシフトまであと1時間。
僕は鍵をチェーンに通して首から下げ、Tシャツの中に隠した。冷たい金属が胸骨に触れる感触だけが、僕に安心感を与えてくれる。
僕はリュックを背負い、部屋を出た。
1階のリビングに降りると、美味そうな匂いが充満していた。
キッチンでは、料理担当の三上晴(みかみ・はる)が、鼻歌交じりに鍋をかき混ぜている。
「あ、羽依! 起きた?」
晴さんが振り返る。エプロン姿が妙に似合う、優男だ。
「……おはようございます」
「今日、新しい入居者が来る日だって知ってる? 晩ご飯、歓迎会でビーフシチューにするんだけど、羽依も食べるでしょ?」
新しい入居者。
そういえば、数日前からオーナーの守屋武(もりや・たけし)さんが騒いでいた気がする。202号室、つまり僕の部屋のもう一つのベッドが埋まるのだ。
最悪だ。
今まで一人部屋のように使えていた聖域が、今日から他人との共有スペースになる。
「いえ、バイトあるんで」
僕は短く断った。
「えー、また? たまには付き合いなよ。今度の新人くん、経営学部のイケメンらしいよ?」
「興味ないです」
僕は視線を逸らし、靴箱に向かった。
イケメンだろうが何だろうが、関係ない。どうせまた、能天気な陽キャが増えるだけだ。夜中に騒がれたり、部屋に友達を連れ込まれたりしたら溜まったものじゃない。
早くここを出ていきたい。
あと200万円。それが貯まれば、僕は誰にも居場所を知られない遠くへ行って、一人で暮らすんだ。
玄関でスニーカーの踵を潰さないように履いていた、その時だった。
玄関のドアが、勢いよく開いた。
夏の強烈な日差しと一緒に、熱風が吹き込んでくる。
「こんにちは! 今日からお世話になります!」
大きく、よく通る声。
逆光で顔が見えない。ただ、背が高いことと、赤茶色に染めた髪が光を反射して輝いていることだけが分かった。
男は大きなボストンバッグを肩に担ぎ、汗を拭いながら一歩中に入ってきた。
そして、靴を履こうとしていた僕と、真正面から鉢合わせた。
「よろしくな!」
男がニカっと笑った。
ドクン。
心臓が、聞いたことのない音を立てた。
血液が沸騰し、思考が白く弾け飛ぶ。自分の中で何かが決定的に壊れてしまう、甘く絶望的な崩壊の音だった。
目の前に立っていたのは、同じ人類とは思えないほど造形の整った男だった。
意志の強そうな太い眉。涼しげなのに熱を帯びた切れ長の目。高く通った鼻筋に、笑うと片方だけできるえくぼ。
汗に濡れた前髪をかき上げる仕草が、スローモーションのように目に焼き付く。
白いTシャツから伸びる腕は、適度に筋肉がついていて逞しい。
(……きれいだ)
思考のフィルターを通す前に、本能がそう結論づけてしまった。
かっこいい、なんて安っぽい言葉じゃ足りない。
美しい。
生命力に溢れていて、眩しくて、直視できない。
まずい。
これは、まずい。
僕の人生において、関わってはいけないタイプだ。
僕のような日陰者が、こんな太陽みたいな人間に近づけば、焼き尽くされて影すら残らない。
それに、なんだこの胸の高鳴りは。
うるさい。心臓がうるさい。肋骨を蹴破って出てきそうなほど暴れている。
顔が熱い。耳まで赤いのが自分でも分かる。
見られたくない。
こんな、間抜けに見とれている顔を、彼に見られたくない。
逃げなきゃ。
防衛本能がサイレンを鳴らした。
僕は差し出された手を無視し、視線を足元に落とした。
表情筋を総動員して、鉄のような無表情を作る。
「……どうも」
喉から絞り出したのは、愛想のかけらもない低い声だった。
しかし、僕の冷たい態度など、そよ風程度にしか感じていないかのように、彼の顔にはりついた笑顔は微動だにしなかった。
それどころか、僕の鉄仮面に対抗するかのように、彼の表情筋もフル稼働しているようだった。
完璧な角度で口角が上がり、白い歯がキラリと光る。鉄壁の笑顔。
「俺、202号室に入居することになった甲斐原涼(かいはら・りょう)!……えっと、君も住人だよね? 名前は?」
「……倉木」
「倉木くんか。よろしく! これから仲良く……」
「急いでるんで」
僕は彼の言葉を遮り、逃げるように横をすり抜けた。
すれ違いざま、ふわりと香水の匂いがした。摘み取ったばかりのベリーの果汁と、草木のみずみずしさが弾けるような、深く透明感のある香り。それに混じって、男らしい汗の匂い。
脳髄が痺れるような感覚。
僕は息を止め、玄関を飛び出した。
外の熱気が肌にまとわりつく。
僕はシェアハウスが見えなくなる角まで早歩きし、そこで膝に手をついて荒い息を吐いた。
「……はぁ、はぁ……ッ」
心臓がまだバクバク言っている。
なんだ、今の。
なんなんだ、あの人は。
ただのルームメイトだろ? 新入居者だろ?
なんであんなに、キラキラしてるんだよ。
「……最悪だ」
僕はアスファルトに滴る自分の汗を見つめた。
一目惚れ。
そんな馬鹿げた単語が頭をよぎり、僕は激しく首を振った。
ありえない。僕は恋愛なんてしている余裕はないんだ。金もない、未来もない、親という爆弾を抱えた人間に、恋をする資格なんてない。
それに、あんな華やかな人間が、僕みたいな根暗を相手にするわけがない。
もし、僕が彼に惹かれていると知られたら?
きっと軽蔑される。「気持ち悪い」と思われるか、あるいは「可哀想な奴」と同情されるかだ。
どっちも耐えられない。
絶対にバレてはいけない。
僕は決めた。
彼とは関わらない。
必要最低限の会話しかしない。目は合わせない。
徹底的に「愛想の悪い奴」になりきって、彼の方から僕を嫌ってもらうように仕向けるんだ。
そうすれば、この暴走しそうな心臓も、いつか静かになるはずだ。
------「俺、202号室に入居することになった甲斐原涼!」
鼓動を抑えようとしても、彼の笑顔が脳裏にこびりついて離れない。
……ん、202号室?
彼が言っていた部屋番号の意味に、今さら気づいて、僕は頭を抱えた。
同室じゃん。
逃げ場、ないじゃん。
***
バイトが終わったのは夜の11時過ぎだった。
コンビニの廃棄弁当をリュックに詰め込み、僕は重い足取りでシェアハウスに帰った。
帰りたくなかった。
あの部屋に、彼がいると思うだけで、胃がキリキリと痛む。
でも、帰らないわけにはいかない。
玄関を開けると、リビングは消灯されていたが、飲み会の残り香が漂っていた。空き缶やピザの箱がテーブルに残されている。
歓迎会は盛り上がったらしい。
僕は音を立てないように階段を上がった。
202号室の前で立ち止まる。
深呼吸。
大丈夫。僕はただの不機嫌な同居人だ。感情なんてない。石ころだ。
そう言い聞かせて、ドアノブを回した。
部屋は暗かった。
二段ベッドの上段から、規則正しい寝息が聞こえる。
寝てる……?
ほっとしたような、少し残念なような、複雑な感情を押し殺し、僕は部屋に入った。
スマホのライトで足元を照らす。
部屋の空気が変わっていた。
今までは無味乾燥な空間だったのに、今は彼の匂いが充満している。机の上には、見慣れない整髪料やアクセサリーが置かれ、椅子の背には派手な柄のシャツが掛けられていた。
生活感。
他人の、それも圧倒的な「強者」の気配。
僕は息が詰まりそうになった。
自分のスペース――部屋の右側、二段ベッドの下段と、右半分のデスクに向かう。
そこだけが僕の陣地だ。
僕は音を立てないように着替えようとした。
その時。
上段のベッドがギシッと鳴った。
「……ん……帰ったのか?」
眠たげな、低い声。
ビクリと肩が跳ねた。
起きてたのかよ。
僕は心臓を押さえながら、冷たく言い放つ。
「……起こしましたか」
「いや、起きてた。……倉木、だっけ?」
暗闇の中で、彼が身じろぎする気配がする。
「歓迎会、来ればよかったのに。みんな待ってたぞ」
「忙しかったんで」
「そっか。……あ、これ」
ギシッ、と頭上のスプリングが大きく軋んだ。
次の瞬間。
二段ベッドの柵から、影が覆いかぶさるように身を乗り出してきた。
「!?」
息を呑んで見上げると、すぐそこ――鼻先が触れそうな距離に、涼の顔があった。
彼は柵に腕を絡ませ、上半身をだらりとぶら下げるようにして、逆さまに僕を覗き込んでいたのだ。
重力に従って、赤茶色の前髪がサラサラと落ちてくる。
暗闇に慣れた目が、至近距離でカチリと僕の視線を捉えた。
ドクン。
心臓が、肋骨を蹴り上げるような音を立てた。
近い。
あまりにも、近すぎる。
薄暗がりの中でも分かる、整いすぎた目鼻立ち。二重の幅。
そして、上から降り注ぐ体温と、あのベリーの甘酸っぱい残り香。
圧倒的な「雄」の質量が、頭上から僕を圧迫してくる。
「差し入れ。お疲れさん」
彼は悪びれもなくニッと笑い、ぶら下げた右手を目の前に突き出した。
微糖の缶コーヒーだ。
僕は金縛りにあったように動けなかった。
彼の無防備な視線が、僕の瞳孔の奥まで覗き込んでくるようで、全身の毛穴が開くような緊張感に襲われた。
バレる。
この距離で、こんな爆音の鼓動を聞かれたら、僕が動揺していることがバレてしまう。
「……ど、どうも」
僕はひったくるように缶コーヒーを受け取ろうとした。
その瞬間だ。
缶から離れるはずだった彼の指が、なぜか離れない。
それどころか、まるで意志を持った生き物のように、ぬるりと僕の指の隙間に滑り込んできた。
「え……?」
思考が停止する。
冷たいスチール缶の上で、彼の熱い指と僕の指が、互い違いに深く絡み合っていた。
ギュッ、と一瞬、彼が確かめるように力を込める。
硬いタコのある指の感触。脈打つ血管の振動。
そして、不当なほど高い彼の体温が、指の股という敏感な部分から侵入してきて、僕の血液を沸騰させる。
捕まった。
逃げられない。
僕が息を呑んで固まっていると、彼は悪びれもなくニカっと笑い、ゆっくりと指を解いた。
名残惜しむように、指先が掌を擦っていく感触に、ゾクリとする。
「これからよろしくな、ルームメイト」
彼は満足そうに言うと、身を翻してベッドの上に戻っていった。
ふわりと舞った風圧が、火照った僕の頬を撫でた。
僕は握りしめた缶コーヒーを、そっと頬に当てた。
冷たい。
火照った頬には気持ちよかった。
すぐ上に、彼がいる。
薄い板一枚隔てたところに、あの甲斐原涼が寝ている。
彼の寝息が聞こえる。スースーというリズム。
寝返りを打つ音。
その一つ一つが、僕の神経を逆撫でする。いや、逆撫でじゃない。快感と恐怖がないまぜになったような、奇妙な感覚だ。
なんで、あんなにカッコいいんだよ。
なんで、あんなに気さくなんだよ。
神様は不公平だ。全部持ってる人間がいるなんて。
僕は惨めだ。
引き出しに鍵をかけて、数百円の弁当代を惜しんで、親に怯えて暮らしている。
彼と僕とでは、住む世界が違う。
関わっちゃいけない。好きになっちゃいけない。
その夜、僕はほとんど眠れなかった。
上の段から聞こえる彼の存在感が、あまりにも大きすぎたからだ。
***
翌朝。
僕はアラームが鳴る前に目を覚ました。
睡眠不足で頭が重い。
時計を見ると6時。まだ彼は寝ているだろう。
今のうちに支度をして、顔を合わせずに出て行こう。
僕は音を立てないようにベッドから抜け出した。
洗面所で顔を洗い、シャツを着替える。鏡に映る自分の顔は、クマが酷くて死人のようだった。
彼とは大違いだ。
机の前に座り、いつものルーティンを行う。
首から下げた鍵で、南京錠を開ける。
引き出しを開け、中を確認する。
通帳。印鑑。封筒。
ある。大丈夫だ。
僕は小さく息を吐き、また南京錠をかけた。
カチャリ。
その音が、早朝の静寂に響いた。
「……何してんの?」
背後から声がした。
心臓が口から飛び出るかと思った。
バッと振り返ると、甲斐原がベッドから上半身を起こしていた。
寝癖のついた髪。眠そうな目。はだけた胸元。
無防備すぎるその姿に、僕の視線が釘付けになる。
いや、違う。
見られた。
引き出しに鍵をかけているところを、見られた。
「……おはよう」
彼は欠伸を噛み殺しながら言った。
怪訝そうな顔をしている。当然だ。自分の部屋の引き出しに南京錠をかけている奴なんて、異常者だ。
恥ずかしさが一気に込み上げてきた。
貧乏くさい。信用していないみたいだ。
でも、弁解なんてできない。
「……おはようございます」
僕は引き出しを背中で隠し、鞄を掴んだ。
「え、もう行くの? 朝飯は?」
「食べません」
「待てよ、俺も起きるから一緒に行こうぜ」
彼がシーツを跳ね除けて降りてこようとする。
やめてくれ。
これ以上、僕のパーソナルスペースに入ってこないでくれ。
君のその無邪気な「仲良くしようぜ」というオーラが、僕には刃物のように痛いんだ。
「……迷惑です」
僕は精一杯の棘を含んで言った。
甲斐原の動きが止まる。
「朝は一人でいたいんです。……構わないでください」
拒絶。
明確な拒絶の言葉。
これでいい。これで彼は僕を「感じの悪い奴」認定して、話しかけてこなくなるはずだ。
彼の顔を見る勇気はなかった。
僕は逃げるようにドアを開け、廊下に飛び出した。
1階に降りると、守屋さんがコーヒーを飲んでいた。
「お、羽依。早いな」
「行ってきます」
「甲斐原はどうした? まだ寝てるか?」
「……知りません」
僕は靴を履き、外に飛び出した。
朝の空気はまだ少し冷たい。
僕は駅に向かって歩きながら、唇を噛み締めた。
自己嫌悪で胸が潰れそうだ。
あんな言い方しなくてもよかったのに。
「迷惑です」なんて。
でも、そうでもしないと、あの無防備な寝顔に見とれてしまいそうだった。
彼の視線に耐えられそうになかった。
「ごめんなさい」
僕は心の中で呟いた。
届くはずのない謝罪。
でも、これが正解だ。
僕は影の中で生きる人間。彼は光の中で生きる人間。
交わってはいけない。
たとえ、一目見た瞬間に、世界が色づいて見えてしまったとしても。
僕はリュックのストラップを強く握りしめ、振り返らずに歩き出した。
胸元の冷たい鍵の感触だけが、今の僕を支えていた。
