虹色コントラスト

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 「ピピピ、ピピピ、ピピピ」

 目はまだ開かないが、手を彷徨わせて何とか携帯を見つけて目覚ましのアラームを止める。
 やっぱりどれだけ時が経っても朝は苦手だ。
 なかなか体を起こせず布団の中にうずくまっていると、五分後に設定していたアラームが再び鳴る。
 さすがにきりがないので、覚悟を決めて布団を思いっきりはいで重い体を無理やり起こす。
 昔の自分に戻りそうになるのは朝起きる時だけで、体を起こしてしまえばこっちのものだ。
 自然と今の僕の肩書きである『省エネ男子』のスイッチが入り、あらかじめ夜のうちに準備していたリュックを背負って無駄なく洗面台に向かった。
 それから歯を磨いて顔を洗い、寝癖を軽く直して普段のナチュラルマッシュに整える。
 今まで面倒くさくて自然乾燥で暴発していた髪が、朝少しでも時間を短縮するためにお風呂上がりドライヤーでしっかり乾かすようになってから最小限に抑えられるようになった。
 毎日同じメニューである納豆ご飯に牛乳という何とも歪な組み合わせの朝食を平らげて、家族と当たり障りのない会話を交わして家を出る。
 
 外に出ると、新しい門出や新しい日々への出発として申し分のないような朗らかな春の気候に包まれていた。
 ただ、僕の心の中はそんな朗らかな気候とは真逆で、空全体を埋め尽くすような分厚い雲に覆われている。
 高校三年に上がってから初めての登校日ということで、今日は省エネ男子の僕にとって鬼門である新クラス発表の日なのだ。
 今日の朝からの行動は何ら今までの日常と変わらなかったが、心はずっとざわついていて抑え込むのに必死だった。
 僕が省エネ男子として最も重要視しているのは心の平穏である。
 今日みたいに心がざわつくと、僕の今の人格を形成することになったあの言葉が蘇ってきてしまうから。
 体力面での省エネも、体が疲れると心が乱れやすくなるというのが一番の大きな理由であった。
 一度大きな深呼吸をして自転車に跨り、高校一年の時に生み出した学校までの最速ルートに向けてペダルを踏み込む。

 「せっかく完璧な状態を作れたのに……」

 自転車を漕ぎながらひとりごちる。
 二年の時のクラスでは、自分が思い描いた通り完璧な状態を作れていた。
 まず、人とは極力関わりたくないので、こいつには話しかけないほうがいいというオーラを纏う。
 自分がよっぽどオーラを出すのが上手いのかわからないが、高校に入ってから一度も相手から話しかけられたことはない。
 ただ、孤立するとイベント毎など何かグループに分かれないといけない時に厄介なので、自分と同じ感性を持ってそうな一人でいるクラスメイトに自分から声をかけ、グループになる時だけ一緒になろうと同盟関係を持ちかける。
 二年の時はこれがぴたりとはまり、三人と同盟関係を結ぶことができた。
 悪目立ちしないように他のクラスメイトとも当たり障りない会話はするよう心がけ、二年は何のストレスもない省エネ男子として完璧な日常を過ごすことができた。
 あの状態をまた一から構築しないといけないと思うと気が重く、ペダルを漕ぐ足がいつもより重たく感じられた。

 僕の家から高校まではさほど遠くないので、思いを巡らせる間もなく学校にたどり着いてしまった。
 まだ覚悟も何もできていないが、いつもの駐輪場の一番端に自転車を停めて、人が群がっている新クラスが書かれている掲示板に向かって歩き出す。
 何とか人混みを掻き分けて、自分の名前—影山勇翔(かげやまはやと)の文字を探す。
 
 「三組か。えっ……」

 正直クラスはどこでもよかった。
 別に親しい関係の人がいるわけでもないし、一から関係値を構築することにクラスがどことか関係のない話だから。
 ただ問題なのは、僕の出席番号のすぐ下に今日の気候のような爽やかさをはらんだ名前を発見したことだ。

 〝風晴陽太(かぜはるようた)

 人に興味がない僕でもフルネームを知ってるぐらいだから、学校中にその名前を知らない人はいないと思う。
 それどころか世間一般でも高校野球ファンなら誰もが知っている名前であるだろう。
 ほぼ帰宅部状態の放送部に所属している僕には無縁であるが、僕が通っている高校は運動部が盛んな学校で、どの部活も全国レベルの実績で名を馳せている。
 中でも野球部は甲子園常連の強豪で、風晴君はそんな強豪校の中で二年からエースを務めていた。
 それだけでも十分ニュースになり得るのだが、彼を語る上で強豪で二年でエースだけではまだ足りない。
 彼は身長百八十センチ越えの高身長で、目鼻立ちがくっきりとした甘いルックスを持ち合わせているのだ。
 学校の敷地内とは別にある練習グラウンドに、同じ高校の女性ファンはもちろん他校のファンも駆けつけるほどの人気を誇っている。
 実力でも将来のドラフト候補と謳われており、人気も兼ね備えていることから、学校でよく取材を受けている姿を目の当たりにしていた。
 一見すると風晴君が僕の省エネライフに及ぼす影響はほぼ皆無であるが、僕が問題視しているのは別の点にある。
 
 風晴君の名前が脳裏にこびりついたまま三組の教室に向かって歩を進めるにつれて、ここ一年で感じたことのない緊張感が心を支配し始めた。
 三階への階段を登り終えて教室前のクラス表示にたどり着き、心のざわつきが最高潮に達した時、予測はしていたが思い出したくもないあの言葉が降ってきた。

 『影山って名前の通り影薄いよな』

 中学二年の時にクラスメイトから放たれた、僕の人格を変えるきっかけになったこの言葉。
 それまでの僕は今みたいに自分が傷つかないように人との関わりを避けるような人間ではなかった。
 友達や人との関わりを大切にしていたし、何より人と過ごす時間が好きだった。
 その分その言葉は僕の心を深く傷つけ、反動的に自分自身を守るために人と一定の距離を保つようになった。
 最初こそ寂しさや孤独になるかもしれないという恐怖に駆られたが、慣れてくると心が安定するその距離感に安心感を抱くようになっていき、いつしかその安心感が手放せないものになっていった。
 心がざわつくと必ずと言っていいほどこの言葉が降ってくるので、心の安定は僕の人生において必要不可欠である。
 
 「落ち着け、落ち着け。大丈夫」

 目を閉じて、この言葉が降ってきた時に対処するための呪文を何回も唱えて心を落ち着かせる。
 
 「よし、行こう」

 覚悟を決めて瞑っていた目を開け、まだ見ぬ未来への扉に手をかけた。






 教室に入り黒板に掲示されている座席表を確認すると、窓際から二列目の前から三番目の席に僕の名前があった。
 嫌な予感はしていたが、席順は予想通り名前順で、同じカ行の風晴君は否応なく僕の真後ろに配置されている。
 恐る恐る振り返って自分の席の方を確認すると、風晴君らしき人物はまだ見受けられない。
 張りつめていた緊張感が少しだけ和らぐ。
 思考を変えて別の視点で全体を見渡すと、もうすでに何個かグループができていたが、輪に入らずに一人でいる子も散見された。
 その中でも理由はうまく言葉にできないが、窓際の一番後ろの席で黙々と読書をしている男の子が自分の感性に最も近いように感じた。

 「あの子にしよう」

 二年の時と同様に同盟関係を結ぶ相手を定める。
 そこまでは思い浮かべていた通りになったが、やはり話しかける勇気が出ない。
 無意識に握っていた拳が汗ばむ。
 ただ、どうしても風晴君が来る前に同盟関係を結べる相手を確保しておきたかった。
 二年の時の平穏な日々を送っていた自分を想像する。
 少し前を向いた気持ちに逃げ道を作らないように、強引に一歩を踏み出そうとしたその時だった。
 教室の扉が勢いよく開かれ、その音に引き寄せられるように僕含め全員の視線が扉に向く。
 高身長の坊主頭の彼が目に入った途端、前を向いていた気持ちは一瞬でその風に流された。

 「みんな、おはよう!風晴陽太っていいます。俺みんなと仲良くしたいからよろしくね!」

 風晴君はそう言うと、廊下側の席から順に握手をし始めた。
 元から知っている子たちには『またよろしくな』と言ってハグまでしている。
 この常人では考えられないような行動から見てわかる通り、彼は生粋の陽キャなのだ。
 陽キャなだけなら僕にとって何の害もないのだが、
 彼は省エネライフを生きる僕の日常を脅かすような厄介な性質を携えていた。
 今の行動にも顕著に現れている。
 とりあえず握手から逃れることはできなさそうなので、自分の席に座ってじっと待つことにした。
 今まで経験したことがない状況に、胸のざわつきが抑えられない。
 風晴君は当たり前だが僕の気持ちなんてお構いなしといった様子で、テンポよく握手をしていく。
 心の準備もままならないまま、とうとう僕の席の列まで来てしまった。
 胸が早鐘を打つ。
 最前列の子と握手し終え、いよいよ次は僕の番だ。
 腹を括って風晴君へと視線を向ける。
 
 「そういえば俺の席ってどこなんだ?」

 視線が重なった途端、突然僕に向かって問いかけてきた。
 不意をつかれた僕の頭は真っ白になる。

 「えっと……そこだよ」

 何とか頭を働かせて思考を巡らせ、真後ろの空席を指差す。
 
 「えっ、ここか!何か運命感じるわ。俺ら仲良くなれそうだな」

 彼はそう言って右手を差し出す。
 僕も少し汗ばんだ右手を軽く振るわせて、手のひらを合わせる。
 普通なら仲良くなれそうと言われたら喜びの感情が芽生えると思うが、僕の今の感情は喜びとは真逆のものだった。
 風晴君に目をつけられた今、僕が望んでいる穏やかな日常に終止符を打たれたと言っても過言ではないのだ。

 「よろしく」

 だいぶ引き攣った笑顔だったと思うが、嬉しいという感情を自分なりに見せれるよう尽力して声を絞り出す。

 「こちらこそ!仲良くしような」

 彼は疑うという感情が入る余地がないほど満面の笑みを浮かべていたので、僕の繕った感情をそのまま受け取ってくれたみたいだ。
 僕と握手し終えてからも快活に一人一人と握手を重ねていき、とうとう窓際の一番最後列までやってきた。
 最後を飾るのは、僕が同盟関係を最初に結ぼうと試みた織田光輝(おだこうき)君だ。
 風晴君はみんなと同様に声をかけて握手を求める。

 「こういうの迷惑だからやめてくれないかな」

 突然放たれた棘のある言葉に、反射的に二人の方へと体が向く。

 「どういうこと?」

 「そのままの意味だよ。迷惑だからやめてくれ。俺は誰とも関わらずに一人でいたいんだ」

 こんな時に自分のことを考えるのは野暮だと思うが、同盟関係を結ぼうと織田君に声をかけなくて良かったと安堵する。

 「まあお前みたいなやつもクラスに一人はいると思ったよ。でも俺は諦めないからな」

 「……」

 織田君は風晴君の言葉に反応することなく、読んでいた本に目を落とす。
 
 「確かに俺みたいなやつがいると迷惑だと思うやつがいることもわかってる。でも、必ずみんなを楽しませるから。せっかく同じクラスになった縁だし、クラスみんなで何かを成し遂げたり仲良くしたいんだ。改めてみんなよろしくな!」

 風晴君はクラス全体を見渡しながら声を上げた。
 そう、僕が恐れていた風晴君の性質とはこのことである。
 彼がただの陽キャなだけならよかったのだが、彼はクラス全体を巻き込んで何かをすることをとても大切にしていた。
 なので、クラスメイト一人一人と密にコミュニケーションを取るんだと一年の時に不意に噂話を耳にしたことがある。
 穏やかな日常を送りたい僕にとって、天敵以外のなにものでもない。
 たぶん織田君にとってもそうなんだろう。

 「風晴また言ってんのかよ。みんな逃げられないから覚悟しときな」

 風晴君と仲が良いんであろう野球部のクラスメイトが全員に向かって語りかける。
 
 「あったりまえよ!」

 風晴君は笑いながらその子に言葉を投げ返し、自分の席に戻ってくる。
 
 「影山勇翔君だよね、よろしく!前後の席だから名前覚えちゃった」

 終わった……
 僕は静かに机に顔を突っ伏した。
 こうして穏やかな日々とは真逆の日常が幕を開けようとしていた。
 
 『頼むからそっとしておいて』

 僕の心は無意識にその言葉を反芻していた。