しかし、悩んでいる暇はなかった。
視界の端で、無情にも時間がカウントダウンされていく。
【残り時間:十五秒】
心臓が激しく脈打つ。
これは本当に正しいのか?
【残り時間:十秒】
選ばなければ。今、この瞬間に。
頭では分かっている。だが、体が動かない。恐怖か、絶望か、それとも――希望を信じることへの躊躇いか。
【残り時間:五秒】
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックした。
暴走する馬車。凍りついた自分の足。そして、助けを求める妹の瞳。
あの時、動けなかった。何もできなかった。
――でも。
今度は、違う。
――くそっ!
レオンは最後の力を振り絞り、震える足で立ち上がった。
ズキン、と腹部に激痛が走る。カインに殴られた傷が、まだ熱を持って疼いていた。口の中には錆びた鉄の味。視界が何度も暗転しそうになり、世界が揺らいでは戻る。
それでも――歩く。
一歩。また一歩。
よろよろと、裏口へ向かって歩き出す。
「おい、見ろよ! 逃げやがった!」
背後から、嘲笑が飛んでくる。
「腰抜けめ! やっぱり戦えないクズは違うな!」
「奴隷決定だな! 来週には首輪つけてるぜ! はっはっは!」
「せいぜい鉱山で石でも砕いてろ!」
嘲笑と罵声が、まるで無数の矢のようにレオンの背中に突き刺さる。
一歩ごとに、心が軋む。
プライドが悲鳴を上げる。
振り返って、何か言い返したい。この理不尽に、一矢報いたい。黙れ!と、叫びたい。
でも――。
もう振り返らない。
振り返る必要など、どこにもない。
この先に何があるか、もう視えているのだから。
レオンは確信していた。
この不思議な力――【運命鑑定】で、必ず運命を変えてみせる。
自分を裏切った奴らを土下座させてやるのだ。
裏口への古びた扉に手をかける。
錆びた金具が、ギィ、と軋んだ。
その瞬間。
レオンの瞳が、一瞬だけ黄金に輝いた。
ギルドホールの誰も気づかない。
カインも。セリナも。笑い転げる冒険者たちも。
誰一人として。
運命の歯車が、軋みながら回り始めたことに。
――これが、全ての始まりだった。
◇
裏口から続く路地裏は、まるで世界から忘れ去られた場所だった。
表通りの喧騒が嘘のように、そこには静寂と薄闇だけが広がっている。
朝日すら遠慮がちにしか差し込まない。苔むした石壁が両側から迫り、頭上では傾いた建物同士が寄りかかるように空を塞いでいる。
腐敗した残飯の匂い。淀んだ水溜まりに浮かぶ得体の知れないもの。壁に染みついた、名も知らぬ者たちの絶望。
ここは、光の世界から零れ落ちた者たちが流れ着く、最後の吹き溜まり。
夢破れた者。運命に見放された者。誰にも必要とされなくなった者。
そんな者たちの悲嘆が、この空気を重く淀ませていた。
レオンは壁に手をつきながら、よろよろと歩いていく。
頭がまだズキズキと痛む。さっきの【運命鑑定】への強制アップデートの後遺症だろう。それに加えて、カインに殴られた腹部の傷。全身が悲鳴を上げている。
だが、足は止めない。
【運命鑑定】が示した未来。その先に、希望があると信じて。
そして――。
それは、唐突に訪れた。
路地裏の奥――陽光すら届かない薄闇の中に、四つの人影を見つけた。
レオンは思わず足を止め、息を呑む。
そこに、運命の四人の少女がいた。
埃にまみれ、泥に汚れ、あちこちに傷を負って。冷たい石畳に座り込み、あるいは壁に背を預け、虚ろな目で虚空を見つめている。
絶望の底にいる者たち。
だが――。
なんと美しいのだろう。
レオンは、自分の目を疑った。
こんな場所に、こんな存在がいるなんて。
黒髪の剣士――――。
腰まで届く艶やかな黒髪が、薄闘の中でもなお漆黒の光沢を放っている。あちこちに青痣があり、唇は切れて血が滲んでいた。だが、その漆黒の瞳には不屈の炎が宿っている。
傷ついてなお気高い、黒豹のような少女。
どれほど痛めつけられても、決して膝を屈しない。そんな意志の強さが、その佇まいから滲み出ていた。
金髪の僧侶――――。
陽光のように輝く金髪を、優雅なツーサイドアップに結い上げている。白い僧衣は煤こけていたが、その下から覗く肌は透けるように白い。
聖女のような美貌。空色の瞳には、全てを見透かすような深い知性が宿っている。
赤髪の魔法使い――――。
情熱的な赤髪のショートヘアが、暗がりの中でもなお炎のように鮮やかだった。小さな体を震わせ、膝を抱えてうずくまっている。
だが、その緋色の瞳には消えない情熱が宿っていた。怯えながらも、内に秘めた炎は決して消えていない。
燃え盛る炎の精霊のような、危うくも美しい少女。
銀髪の弓手――――。
月光を紡いだような銀髪を短く切り揃え、男装で素性を隠している。だが、その優雅な所作は隠しきれない。汚れた旅装の下から覗く指先は、弓を引くためにできた繭だこがあるものの、貴族特有の白さを保っていた。
中性的な美貌。傷ついた王子のような気高さ。碧眼の輝きは、どれほど薄汚れていても失われていなかった。
彼女たちは確かに汚れていた。傷ついていた。絶望の底に沈んでいた。
だが、その姿は――。
泥の中に咲く蓮華のように。
いや、地獄に堕ちた女神たちのように。
圧倒的な存在感を放っていた。
視界の端で、無情にも時間がカウントダウンされていく。
【残り時間:十五秒】
心臓が激しく脈打つ。
これは本当に正しいのか?
【残り時間:十秒】
選ばなければ。今、この瞬間に。
頭では分かっている。だが、体が動かない。恐怖か、絶望か、それとも――希望を信じることへの躊躇いか。
【残り時間:五秒】
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックした。
暴走する馬車。凍りついた自分の足。そして、助けを求める妹の瞳。
あの時、動けなかった。何もできなかった。
――でも。
今度は、違う。
――くそっ!
レオンは最後の力を振り絞り、震える足で立ち上がった。
ズキン、と腹部に激痛が走る。カインに殴られた傷が、まだ熱を持って疼いていた。口の中には錆びた鉄の味。視界が何度も暗転しそうになり、世界が揺らいでは戻る。
それでも――歩く。
一歩。また一歩。
よろよろと、裏口へ向かって歩き出す。
「おい、見ろよ! 逃げやがった!」
背後から、嘲笑が飛んでくる。
「腰抜けめ! やっぱり戦えないクズは違うな!」
「奴隷決定だな! 来週には首輪つけてるぜ! はっはっは!」
「せいぜい鉱山で石でも砕いてろ!」
嘲笑と罵声が、まるで無数の矢のようにレオンの背中に突き刺さる。
一歩ごとに、心が軋む。
プライドが悲鳴を上げる。
振り返って、何か言い返したい。この理不尽に、一矢報いたい。黙れ!と、叫びたい。
でも――。
もう振り返らない。
振り返る必要など、どこにもない。
この先に何があるか、もう視えているのだから。
レオンは確信していた。
この不思議な力――【運命鑑定】で、必ず運命を変えてみせる。
自分を裏切った奴らを土下座させてやるのだ。
裏口への古びた扉に手をかける。
錆びた金具が、ギィ、と軋んだ。
その瞬間。
レオンの瞳が、一瞬だけ黄金に輝いた。
ギルドホールの誰も気づかない。
カインも。セリナも。笑い転げる冒険者たちも。
誰一人として。
運命の歯車が、軋みながら回り始めたことに。
――これが、全ての始まりだった。
◇
裏口から続く路地裏は、まるで世界から忘れ去られた場所だった。
表通りの喧騒が嘘のように、そこには静寂と薄闇だけが広がっている。
朝日すら遠慮がちにしか差し込まない。苔むした石壁が両側から迫り、頭上では傾いた建物同士が寄りかかるように空を塞いでいる。
腐敗した残飯の匂い。淀んだ水溜まりに浮かぶ得体の知れないもの。壁に染みついた、名も知らぬ者たちの絶望。
ここは、光の世界から零れ落ちた者たちが流れ着く、最後の吹き溜まり。
夢破れた者。運命に見放された者。誰にも必要とされなくなった者。
そんな者たちの悲嘆が、この空気を重く淀ませていた。
レオンは壁に手をつきながら、よろよろと歩いていく。
頭がまだズキズキと痛む。さっきの【運命鑑定】への強制アップデートの後遺症だろう。それに加えて、カインに殴られた腹部の傷。全身が悲鳴を上げている。
だが、足は止めない。
【運命鑑定】が示した未来。その先に、希望があると信じて。
そして――。
それは、唐突に訪れた。
路地裏の奥――陽光すら届かない薄闇の中に、四つの人影を見つけた。
レオンは思わず足を止め、息を呑む。
そこに、運命の四人の少女がいた。
埃にまみれ、泥に汚れ、あちこちに傷を負って。冷たい石畳に座り込み、あるいは壁に背を預け、虚ろな目で虚空を見つめている。
絶望の底にいる者たち。
だが――。
なんと美しいのだろう。
レオンは、自分の目を疑った。
こんな場所に、こんな存在がいるなんて。
黒髪の剣士――――。
腰まで届く艶やかな黒髪が、薄闘の中でもなお漆黒の光沢を放っている。あちこちに青痣があり、唇は切れて血が滲んでいた。だが、その漆黒の瞳には不屈の炎が宿っている。
傷ついてなお気高い、黒豹のような少女。
どれほど痛めつけられても、決して膝を屈しない。そんな意志の強さが、その佇まいから滲み出ていた。
金髪の僧侶――――。
陽光のように輝く金髪を、優雅なツーサイドアップに結い上げている。白い僧衣は煤こけていたが、その下から覗く肌は透けるように白い。
聖女のような美貌。空色の瞳には、全てを見透かすような深い知性が宿っている。
赤髪の魔法使い――――。
情熱的な赤髪のショートヘアが、暗がりの中でもなお炎のように鮮やかだった。小さな体を震わせ、膝を抱えてうずくまっている。
だが、その緋色の瞳には消えない情熱が宿っていた。怯えながらも、内に秘めた炎は決して消えていない。
燃え盛る炎の精霊のような、危うくも美しい少女。
銀髪の弓手――――。
月光を紡いだような銀髪を短く切り揃え、男装で素性を隠している。だが、その優雅な所作は隠しきれない。汚れた旅装の下から覗く指先は、弓を引くためにできた繭だこがあるものの、貴族特有の白さを保っていた。
中性的な美貌。傷ついた王子のような気高さ。碧眼の輝きは、どれほど薄汚れていても失われていなかった。
彼女たちは確かに汚れていた。傷ついていた。絶望の底に沈んでいた。
だが、その姿は――。
泥の中に咲く蓮華のように。
いや、地獄に堕ちた女神たちのように。
圧倒的な存在感を放っていた。



