イケメン転校生はなぜか俺を離さない


  男子の百メートル走は、予定通り始まりを告げた。まだ順番が回ってきていない俺は、その場にしゃがんで競技の様子を見守ることにする。ルールは簡単。レーンに沿って百メートルを走り、誰が一位になるかを競う競技だ。まずは一年生から順に走り、そのあと二年生、三年生と順番が回ってくることになっている。組分けを見た様子だと、神内聖は最初の方に、俺は最後に順番が回ってくるようだった。遠くから見える神内聖の背中を目で追って、俺は小さく息を吐く。
  現在は、まだ一年生が走っている最中だった。そういえば賢人もこの競技に出ると言っていたな、と思い出してすぐ。スタート地点に立っている、見知った背中が視界に入って、俺は意味もなく姿勢を伸ばした。賢人だ。黒いハチマキを身につけた、不良少年のような男がそこには立っていた。後ろからでは表情が見えないが、相変わらず落ち着いた様子だった。
  頑張れ賢人。心の中でそっと念を送る。
  位置について。よーいどん!
  静まり返った空間の中で、ピストルの音は盛大に鳴った。走者が一斉に走り出す。俺はしゃがんでいた身体を僅かに上げて、遠くなっていく賢人の背を眺めた。
 「……おいおい、マジかよ」
  気づけば勝手に声が漏れていた。なぜか? 全速力で走る走者のなかで、明らかに、賢人がリードを取っていたからだ。後半にかけて加速していくスピードと、相変わらずの無表情に、順番を待っている他の走者もざわめき始める。
 「おい見ろ、一年の只木賢人が走ってるぞ」
 「うわ、ほんとだ」
 「あいつ運動神経良いから、うちの野球部に誘ったことがあるんだよ。断られたけど」
 「俺もテニス部に誘ったわ。断られるどころか無視だったけどな」
 「まあ只木賢人は誰に対しても素っ気ないって噂だからな。運動神経いいのに勿体ねえ」
 「あいつが誰かと仲良さそうに話すところなんて、見たことねえよ」
  ゴールテープを一番に切ったのは、やはり賢人だった。黒いハチマキを風になびかせて、ゴールした本人は無表情で汗を拭っている。黒軍から歓声が上がった。だが賢人は興味なさそうな顔のまま、素知らぬ顔で応援席に戻って行った。
 ※
  一年生の百メートル走が終わると、いよいよ二年の番がやってきた。緊張の空気が場を包み、心臓の鼓動が激しくなる。パン食い競走での悲惨な事態を繰り返さないように、俺は頭の中でイメージトレーニングをする。恐怖がないといえば嘘になるが、このままでは終われないという、強い思いがあるのは確かだった。
 「おっ、きたきた」
  周りの走者が発した言葉を受けて、釣られるように顔をあげる。俺の視界が捉えたのは、堂々とレーンに立つ、神内聖の屈強な背中だった。辺りがざわざわと騒がしくなる。
  それもそのはず。神内聖という噂の転校生を前に、興味を示さない人間の方が珍しかった。この男の運動神経の良さはもちろん、頭の良さも性格の良さも、人伝に聞いているであろう周囲は、期待と興味を帯びた目で、神内聖の眺めていた。
  頑張れ。心の中でそっと呟く。声に出していないのだから、本人に届くわけがないと分かっていた。しかしどうだろう。
 「……え」
  神内聖はおもむろに後ろを振り返ると、無数にいる人の中で、まっすぐ俺を見つめてきた。どうしてここに居ると分かったのか。ただでさえ緊張していた心臓が、さらに激しく鼓動するのが分かる。身体からボッと火が吹いて、その場に倒れる思いだった。動揺を浮かべる俺とは裏腹に、神内聖は俺の方に視線を向けると、何か言いたげに、ぱくぱくと口を動かした。
  が、ん、ば、る
 「!」
  まさか、俺の心の声が届いたわけじゃないよな。なぜだろう。あいつを見ていると、心臓が痛くて、落ち着かない気分になる。でも、自然と嫌な気はしないから不思議だった。言葉を返す代わりに、俺がその場で小さく頷くと、神内聖は真剣な顔で前を向いた。いよいよ競技がスタートする。
  位置について。よーいどん!
  走者が勢いよく走り出した。俺はたまらず身を乗り出すようにして、競技の行方を目で追いかけた。
 「どうせ噂の転校生が一位だろ」
  周りの誰かが、雑談混じりに声を震わせた。
 「いや分からねえぜ。だって転校生の対戦相手に、サッカー部のエースが居るんだからよ」
  競技の状況を遠くから眺める。他の生徒が話していた通り、走者の中で頭ひとつ飛び抜けているのは、神内聖と顔も知らない男子生徒だった。おそらく彼がサッカー部のエースなのだろう。拮抗する二人の走者に、場は激しい盛り上がりを見せる。
 「おお、どっちだ?」
 「転校生が負けてるぜ」
 「やっぱサッカー部のエースには敵わないか」
 「この勝負は決まったみたいだな」
  神内聖を上回る形で、サッカー部のエースが前に出る。ゴールにたどり着くまであと半分を切った。試合の結果を確信する周囲をよそに、俺はたまらず声を出していた。
 「神内! 頑張れ!」
  周りの目が一斉に集まる。声を震わせて初めて、自分が何をしたのか理解した。考えるより先に身体が動いていた。思えば神内聖の名前を呼んだのは初めてで、慣れないことをしたなと思う。それでも、そんなこと気にならないくらい、俺は満足していた。あんなに怖かった周りの目が気にならなくなるくらい、神内聖に夢中だった。
 「おい、あれ見ろ!」
  周りの誰かが声をあげる。「噂の転校生、かなり追い上げてきてるぞ!」
 「うおお、マジかよ」
 「どっちが勝つんだ」
 「こりゃ結果が分からなくなったな」
  周りの生徒がどんどん騒ぎ出す。中には堂々と立ち上がって、試合の行く末を見届けようとする者もいた。なぜか? 神内聖が、サッカー部のエースを越し返したからだ。
  俺はぎゅっと拳を握る。じわりと汗が滲むのが分かった。残り五、四、三メートル。そしてついに、一人の走者の手によって、ゴールテープが切られる。
 「おいおい!」
 「嘘だろ!」
 「転校生が勝ちやがった!」
  赤いハチマキの下で、銀色の髪が柔らかに揺れる。接戦の試合を勝ち抜いたのは、噂の転校生でお馴染みの、神内聖だった。周囲から歓声が上がる。ゴール付近にいた生徒たちが、神内聖の背中を叩いている。しかしどうだろう。喜びに包まれる周囲をよそに、男は安堵の表情を浮かべながら、突然後ろを振り返った。その綺麗な瞳は、順番を待つ走者に向けられる。遠くに立っている神内聖が、まっすぐ俺を見ている気がしてならないのはなぜだろう。唖然とする俺を見て、神内聖は笑った。そんな気がした。
 ※
  まさか賢人に続き、神内まで一位になるなんて。白熱する周囲の熱にあてられて、俺も口元を緩ませていた。二年男子の百メートル走もいよいよ終わりが近づいている。自分の番が近づくにつれて、心臓の鼓動が激しくなった。ここに大勢の視線が加われば最後、前の俺なら泣き出していたに違いない。だが今は違う。不安だし、怖いし、恐ろしいけど、俺の心は今、確かな期待と勇気で満ちていた。ふーっと深呼吸をして、高まる気持ちを落ち着かせる。
  前に並んでいた生徒が立ち上がった。走る準備を整えて、しばしの沈黙。そしてピストルが鳴り響き、皆が一斉に走り出す。遠くなっていく背中を眺めていると、凛とした声が上から降ってきた。
 「次の走者は準備をお願いします」
  いよいよ番がやってきたらしい。体育祭実行委員の合図を受けて、俺は立ち上がる。走るレーンは太陽の光に照らされて、黄金の光を発していた。
  走者が並ぶ。俺の他には四人の生徒がいた。五色のハチマキが宙を舞い、穏やかな動きを見せている。俺は走るべき方向をまっすぐ見つめ、再び大きな深呼吸をした。
  そのときだった。レーンを見つめる視界の端に、観客や生徒の影が映ったのは。
 「……あ」
  その瞬間、二本の足で立っていたはずの場所に穴が空いて、先の見えない暗闇に、吸い込まれる気分になった。見ていたはずのグラウンドが、中学時代の教室に変わる。彼ら彼女らの視線が、言葉が、あのときの光景と重なって見える。
  ──最低だな、あいつ。
  ──なんか怖いね。
  指をさされた気がした。前向きだったはずの気持ちが、空気の抜けた風船のように、みるみる萎んでいくのが分かる。嫌なことをひとつ思い出すと、次から次へと別の嫌なことが思い浮かんでくるのはなぜだろう。
  ──ずっと思ってたけど、伊丹ってなんか、怖いっていうか、近寄り難いオーラがあるよな。
  トイレで聞いた男たちの声を思い出す。ついでと言わんばかりに、パン食い競走で失敗したあとの、嫌な記憶も蘇ってきた。
  がくがくと、惨めに足が震えそうになる。こめかみに汗が滲むのは、きっと暑さのせいだけじゃないはずだ。
  怖い。競技はもう始まるのに、今更そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
 「累!」
  不穏な空気を歪ませるほどの、清々しい声にハッとする。周りの声が何も聞こえなくなって、代わりに、神内聖の声だけが鼓膜を揺らす。俯いていた顔をあげると、ゴール付近の場所で声を震わせる、銀色の髪と目が合った。その人物は俺に向かって手を振ると、いつもの優しい声顔を浮かべている。
  頑張れ。神内聖の口元が、確かにそう呟いた気がした。薄暗くなっていたはずの気持ちが、嘘のように晴れていく。
  初対面のはずなのに、なぜか親しく接してくる神内が、ずっとずっと不気味だった。嫌いな食べ物を知っているのも、俺のことなら何でも知ろうとしてくるところも、不思議に思っていた。俺に笑いかけてくれるのも、励ましてくれるのも、全部全部分からなかった。それでも神内聖を拒絶しなかったのは、きっと。きっと。
  位置について。よーいドン!
  走者が勢いよく走り出す。俺はゴールテープを目掛けて、全速力で駆けていた。足の爪先に意識を集中させ、酸素を取り込む。足の回転を加速させ、地面を蹴り上げるように進む。自然と恐怖はなくなっていた。周りの視線を浴びてもなお、俺の身体はゴールを目指す。
  中学時代の記憶に囚われ、前に進めないでいた俺を、神内聖が救ってくれた。何に対しても諦めを抱いていた俺に、諦めなくていいと教えてくれたのは、神内聖だけだった。
  呼吸が荒くなる。ゴールまであと少し。現在順位を把握している余裕はなかったが、隣のレーンにいる男が、俺と並んでいるのが何となく分かった。気持ちが焦る。負けたくないと思う。俺は必死に足を動かし、ゴールテープに向かって走る。残り五、四、三メートル。胸を突き出すようにして、俺はゴールを達成した。ぜーぜーと肩で息をする。噴き出す汗を拭いながら、俺は隣を走っていた男を見る。
  そして目を剥いた。それもそのはず。隣を走っていた男の腰には、俺が切れ損ねたゴールテープが、たしかに巻かれていたからだ。
  百メートル走の結果は二位だった。接戦だったものの、あと一歩というところで負けてしまった。歓声に包まれたグラウンドの中で、俺は一人俯く。現実はそう甘くない。賢人や神内聖が一位を取ったからと言って、俺も一位になれるのは限らないのに。それでも、名誉挽回すらできなかった事実が悔しくて、駄目な自分にうんざりしてしまう。そのときだった。
 「伊丹おまえすげえな!」
  見知らぬ誰かに背中を叩かれて、唖然とする。声のする方へ視線を向けると、クラスの何人かが、歓喜の表情で俺を見ていた。
 「伊丹がこんなに足が早いなんて、知らなかったぜ」
 「凄かったよ伊丹くん」
  興奮交じりの声に動揺が隠せない。まさか全員、俺が一位を取ったと勘違いしているのだろうか。そう思うと言い出すのが億劫だったが、このまま何も言わない訳にはいかない。
 「い、いや俺、二位だったけど……」
  しどろもどろになりながら言う。だが俺の背中を叩くクラスメイトの手は、まったく止まることはなかった。
 「このメンバーで二位なのが凄いんだって!」
 「伊丹が今走ったメンバー、陸上部とバスケ部と、野球部とバレー部のエースだぜ」
 「みんな足が早くて有名なのに、二位取るなんてすごいよ! 伊丹くん」
  伸びてくる手に頭を撫でられる。まさか対戦相手がそんな強者たちだったとは知らず、俺は言葉が出なくなる。するとクラスメイトの誰かが、腕組をしながら「でもさ」と口を開いた。
 「伊丹ってあんまり体育祭とか好きじゃないと思ってたけど、パン食い競走といい、百メートル走といい、すげえ頑張って参加してくれて、正直嬉しいぜ」
 「分かる。実は体育の度に思ってたんだ、伊丹って運動神経いいんじゃないかって」
 「おまえ神内以外とあんまり話さないから、こっちから話しかけていいのかわかんなかったけど、これから話しかけてもいいか?」
 「あ、私も! 仲良くしてよ」
 「まあいきなり言われても混乱するよな。とにかくいい勝負だったぜ伊丹」
  青空が見える。自然と、肩の力が抜けていくような感覚を覚えた。ずっと怖いと思っていた周りの視線は、よく見てみれば優しくて、温かい。これまで頭にこびりついて離れなかった黒いトラウマが、風に吹かれて緩やかに消えていく感覚を覚える。
 「……ありがとう」
  自然と口元が緩むのが分かる。俺が小さく笑ってそういうと、クラスメイトたちは息を呑み、それから嬉しそうに笑った。
 「累」
  楽しげに会話するクラスメイトをよそに、その声はまっすぐ俺の元まで飛んできた。
 「あ、神内」
  俺は目を丸くして、気恥しさを隠すように頭を搔いた。不器用で愛想のない俺の背中を押してくれたこの男に、感謝が伝えたかった。「その、さっきは……」
 「聖」
 「え」
 「聖って呼んで。累に名前で呼んで欲しいから」
  視線が重なる。走ったばかりで疲れているからだろうか、妙に心臓が落ち着かなくて、どきどきするから変だった。「あとさっきの百メートル走、凄かったよ。格好良かった」
 「そ、そうかよ」
  顔が熱い。なぜか目を合わせるのが恥ずかしくて、俺はたまらず視線を逸らす。席に戻って水分を取ろうと歩き出せば、腕を後ろから掴まれた。反射的に振り返ると、銀色の髪を風になびかせた、綺麗な男が立っていた。
 「ねえ累、名前、呼んでよ」
 「……」なんで。
 「無理にとは言わないけど」
 「……」なんでこんなに心臓が痛いんだ。
 「呼んでくれたら嬉しいな」
  掴まれた腕を中心に、身体がぼっと熱くなる。きっと今の俺の顔は、トマトより赤くなっているに違いない。
 「……ひじり」
  蚊の鳴くような声で呟く。熱狂するグラウンドの歓声に掻き消されてもおかしくないような、本当に小さな声だった。しかしどうだろう。
 「うん」
  不意に腕を引き寄せられる。俺の身体は、屈強な男の胸の中にあった。こんなところ、誰かに見られたら何を言われるか分からない。文句のひとつでも言ってやろうと顔を上げれば、目と鼻の先に、その顔は見えた。「嬉しい。僕の名前、もっと呼んで。累」
  太陽の光を受け止めて笑う聖の顔は優しくて、俺はなんだか、これまでの全てが、報われた気がした。
 ※
  体育祭の午前の部が終了した。グラウンドに出ていた生徒たちは校内へ戻り、各自昼食を食べることになっている。グラウンドから校内に向かうには、大勢いる観客の横を通る必要があった。そういえばこの中に、俺の親も居るのだろうか、ふと足を止めて考えてみる。が、わざわざ顔を合わせるのも恥ずかしいし、面倒なので、俺は気にせず校内に戻ることにした。
 「……累?」
  それにしても腹が減った。周りの声を一切遮断して、俺は足早に教室を目指す。だから、まったく気づかなかった。誰かがぽつりと、俺の名前を呼んだことなんて。
 ※