イケメン転校生はなぜか俺を離さない


  激しく燃える太陽の光に照らされたグラウンドへ、大勢の人が目を向ける。まるでライブ会場のような熱気を含んだ空間に、息が詰まりそうだった。
  俺は指定された列に並び、ふーっと小さく呼吸を整える。心臓の鼓動がいつもより速いのが分かった。気を抜けば身体がぶるりと震えて、無数の目を前に背を向けそうだった。
 ──頑張ってね。
  だがその度に、俺を笑顔で送り出してくれた神内聖の顔が浮かんだ。あいつがくれたたった一言が、震えそうになる俺を支えた。
  タイムテーブルを確認した様子だと、自分の番が来るまでの残り時間は、そう長くない。順番に走り出す走者の背中を眺めて、ごくりと生唾を飲み込む。乾いた唇を舐めてようやく、自分が緊張していると理解した。
  目立たないように、ひっそり過ごしてきた俺の高校生活は、いつだって情けなくて、孤独だった。でも今、それが変わろうとしている。神内聖と出会って初めて、変わろうと思うことができた。
  元々走るのは大好きだった。パン食い競走をやったことは無いけれど、以前より気持ちは前向きだった。今ならきっと、何でも上手くいく。遠くの応援席を眺めながら、そんなことを考える。
  パン食い競走のルールはシンプルなものだった。一定の距離を走ったあと、吊るされたパンを口に挟んで、そのままゴールするだけだ。賢人の友達の話だと、毎年転ぶ人間が続出するらしいが、これまでのレースを見ている限り、そんな生徒は見当たらない。
 「次の列の方、準備してください」
  暖かな日差しに照らされたグラウンドが、宝石みたいに輝いて見える。
  いよいよ俺の番がやって来たようだ。心臓が激しく鼓動し、柄にもなく緊張しているのがよく分かる。どこからが聞こえる応援の声や、観客の歓声、賑々しい音楽が聞こえる。大勢の視線が集まっていると思うと、口から心臓が飛び出そうだった。震えそうになる身体を叱咤して、俺は堂々と地面に立つ。今の自分ならなんでも出来る。きっと上手くいくに違いない。そんな前向きな気持ちばかり湧き上がるのは、神内聖の優しい笑顔が浮かぶからだろう。白線に沿うように姿勢を落とし、クラウチングスタートをする。
  位置について。よーいどん!
  ピストルが鳴った。その音に合わせて、走者が一斉に走り出す。数十メートル先にある吊るされたパンを目指して、俺はいっきにレーンを駆け抜ける。全速力で走るのは久しぶりだった。足の爪先に意識を集中させ、重心を倒して、勢いよく腕を振る。
  するとどうだろう。他の走者を上回る形で、自分の身体が前に出ているのが分かった。「頑張れ」誰かの応援が鼓膜を揺らす。俺の足は止まらない。
  吊るされたパンがずらりと並ぶ、パン食い競走ならではのギミックに差し掛かる。ジャンプすれば届きそうな位置に、パンは吊るされていた。届くだろうか。頭の中で考えてすぐに、首を振る。今の俺に怖いものなんてない。
  ほかの競争者たちよりも、一足先にやってきた俺は、目前にあったパンを目掛けて、地面を蹴るようにジャンプした。中へ浮かぶ身体が、吸い込まれるようにパンへ近づく。目と鼻の先に、包装されたパンがあった。俺は大きく口を開ける。
  掴んだ!
  あとは地面に足をつけて、ゴールテープまで一直線に駆け抜けるだけだった。他の走者はまだパンを取れていない。走れ。速く。今すぐに。そう焦る気持ちを何とか抑える。動き出しそうになるのを何とか我慢して、俺は宙に浮いた足が、地面に着地するのを待った。はずだった。
 「……え」
  視界がぐるりとひっくり返ったのは、そのときだ。何が起こったのか分からなかった。受け身も取らずに背中から落ちたせいで、全身に猛烈な痛みが走る。陽を浴びた砂が熱かった。
  視界に捉えていたはずのゴールテープは消えて、憎たらしいほどの快晴が映る。どうやら着地に失敗して、派手に転んでしまったらしい。まずい、速く、ゴールしないと。
  まだだ。落ち着け、大丈夫まだ間に合う。動揺をそのままに、土だらけの身体を起こして、俺は走り出そうとした。しかしどうだろう。
 「赤軍の走者一名、失格です」
  さーっと血の気が引くのが分かった。レーンの外から聞こえた声に、俺は呆然とすることしか出来ない。体育祭実行委員の一人は凛とした声で俺に告げると、真剣な顔で仕事に戻る。まるで、裁判官から判決を言い渡される被告人のような気分になった。
 「な、何でだよ」
  わけが分からない。転んだだけで失格になるなんて、そんなのおかしいだろ。俺は気づけば抵抗するように声を上げていた。あのとき恭介に尋ねたように、我を忘れて不満をぶつけた。観客の何人かが、俺の方を見ているのが分かる。
 「パンを落としたので、失格です」
  体育祭実行委員が、こちらの顔を指さして言う。その瞬間、俺は自分の過ちに気づいた。どうやら着地に失敗した拍子に、咥えていたパンを落としてしまったらしい。足元に落ちたパンを見つけて、俺はたちまち顔を青くした。
  歓声が聞こえた。他の走者がゴールしたらしい。拳を上げて喜ぶ生徒を横目に、気づけば冷や汗を流していた。大勢の声と、視線と、表情が、俺を嘲笑っているように思えたからだ。あのときの記憶が浮かび上がってきて、思わず身震いしそうになる。
 ──でも俺、全然クラスに貢献してねえし、こうなった以上は、その、最後までやるよ。
  血の巡りが一斉に止まって、酸素を奪われた気分だった。頭上から飛んできた何かに、頭を強く打たれた気分だった。
  最悪だ。これじゃあ貢献どころか、みんなの足を引っ張ってるだけじゃねえか。こんなことになるなら、勇気なんて出さなければよかった。前みたいにひっそり静かに、目立たないようにしていれば良かった。そんな結果論でしかない後悔が、泥水みたく溢れ出てくる。
  俺が最初に出場した種目、パン食い競走は、ゴールテープを切ることなく終わった。
 ※
  応援席に戻るのが気まずくて、逃げるように校内へ向かった。運動に自信があった分、自分の仕出かした失敗を、素直に受け入れることが出来なかった。微かにあったプライドを、無惨にへし折られたような残酷さが、喉を伝って体内を溶かそうとする。俺の頭は、やるせなさと申し訳なさと、それから後悔でいっぱいだった。
  グラウンドで競技をするはずの学生が、校内にいると気づかれれば、怒られるに違いない。尿意があるわけでもないのに、俺はトイレに行く体を装って、俯きながら廊下を歩く。
  逃げ込むように入ったトイレには、学生は一人も居なかった。個室に足を踏み入れて、ガチャリと鍵を閉める。そこでようやく、溜め込んでいた息を吐き出せた気がした。身体に血が巡っている気がしない。出ていた冷や汗はいつの間にか収まり、代わりに妙な震えが起きていた。
 「いや、マジでびっくりしたわ」
  声がしたのはそのときだ。尿意もないのに個室で閉じこもる俺をよそに、聞き覚えのない声の学生たちが、わらわらトイレにやってくるのが分かる。俺は反射的に姿勢を伸ばすと、落ち着きのない、浅い呼吸を繰り返した。嫌な予感がしたからだ。
 「あそこで転ぶかよ、普通」
 「伊丹っていつも無愛想で何考えてるか分かんないけどさ、あれは流石に笑ったわ。まさかの失格って」
 「こりゃ赤軍の負けだな」
  名前も知らない男子生徒たちが、自分のことを話題にしていると察した瞬間、ひゅっと喉が鳴りそうになる。俺がここに居ることはもちろん、壁を隔てているから、目だって合わないはずなのに。扉の壁を貫通して、見知らぬ生徒の白い目が、俺の心臓を刺しているように思えた。
 「そもそも伊丹って、いつ話しかけても素っ気ないしな。この体育祭だって、本当はあんま乗り気じゃなかったんだろうぜ」
 「ていうか、アンケートに回答してなかったから、この競技に出ることになったんだろ。やる気があったらちゃんと回答したろうぜ」
 「ずっと思ってたけどさ、伊丹って神内に気に入られてるよな。なんでだ?」
 「それ俺も思ってた。神内のやつ、どうして伊丹ばっかり気にかけるんだか。そのせいであんまり話せないしよ。正直、伊丹って気に入らねえよ」
 「ずっと思ってたけど、伊丹ってなんか、怖いっていうか、近寄り難いオーラがあるよな」
  怖い。その言葉を聞いて思い出したのは、やはり昔の記憶だった。記昔を思い出す。恭介に避けられるようになった中学生時代。ついに堪忍袋の緒が切れたその日。歯止めの聞かなくなった俺は、クラスメイトの前で恭介に問い詰めたことがあった。そのときだ。
 ──なんか怖いね。
  クラスの誰が発した言葉かは分からない。けど俺は、周りにそう思われたことが恥ずかしかった。惨めだったし、許されるなら逃げたいと思った。でも何より一番惨めだったのは、恭介が何も答えてくれないことだった。まるで言葉を発せない人形のように、口を真一文字に閉ざした恭介の顔が忘れられない。そう、あのとき友人だと思っていた相手は、何も言ってくれなかった。口を開いてくれなかった。俺が言って欲しかった言葉は、沈黙なんかじゃなかった。あのとき俺が欲しかった言葉は──
 「違うよ」
  薄暗い空気に覆われていた脳内に、陽の光が差し込んだ気がした。その淡々とした声は、俺の話題で盛り上がっていた男子生徒たちを、一瞬にして青ざめさせたらしい。彼らは声の主、神内聖の登場に気づくや否や、口々に驚きの声を上げた。
 「じ、神内。奇遇だな、おまえもトイレか」
  焦り混じりの声は、顔を見ずとも動揺しているのが分かった。なぜだろう。神内聖の登場を受けて、男子生徒が怯え出したように聞こえるのは。個室の中では彼らの表情が掴めないからもどかしい。しかし、鼓膜を揺らす神内聖の声が、いつもより低く感じたのは確かだった。
 「間違ってるよ。全然違う」
 「え?」
 「累は昔から真面目で、努力家で、自分の恐怖と向き合ってまでクラスに貢献しようとするような、強くて優しい人だよ」
 「は」
 「昨日の夜だって、今日に備えてランニングしてるの見かけたし」
 「ちょっ……」
 「伊丹のこと何も知らないのに、近づき難いとか、気に入らないとか、勝手なこと言わないで。決めつけないで」
 「じ、神内?」
  神内聖の苛立つオーラが、扉を乗り越えて俺の元までやってくるような感覚を覚える。神内聖のまとう空気が、室内の酸素を奪い尽くす、危険な物体に思えるから恐ろしい。男子生徒が動揺と恐怖を浮かべるのが分かる。
 「それに、体育祭は始まったばかりでしょ。まだ終わってないんだから、最後まで結果は分からないよ」
  もう戻りなよ。冷たくも穏やかな声色で、神内聖は男子生徒をトイレから追い出した。俺は呼吸の仕方すら忘れて、口元を両手で塞ぐ。なぜか俺は、個室にいることを神内聖に気づかれてはいけないと思った。本能的にそう思った。しかし現実は甘くない。
 「ねえ、そこに居るよね」
  扉の向こうから聞こえた声に、背筋が震える。恥ずかしさを通り越して、いっそのこと透明人間にでもなりたいと思った。「ごめん。追いかけて来ちゃった。もし嫌じゃなければ、顔見せて。累」
  ノックとともに聞こえた声は、まるで迷子の子供を見つけ出した大人のような、安堵と心配に満ちた声だった。
 ※
  重い沈黙がトイレに流れる。個室に鍵をかけて閉じこもっていた俺は、扉の向こうから聞こえる声に動揺していた。
  神内聖がなぜここにいるのか。何に対してもマイナスな考えを持ってしまう精神状態だからそこ、頭の中に不安が浮かぶ。きっとパン食い競走で恥を晒した俺を、馬鹿にしに来たに違いない。そんなことを考えてすぐに、俺はぶんぶんと首を振る。神内聖と話すようになってから、あいつの性格は何となく理解しているつもりだ。少なくとも、あいつはそんなことを言う人間ではない。その証拠に今、顔も名前も知らない生徒に陰口を叩かれていた俺を助けてくれたのは、紛れもない神内聖だ。それに彼は、俺がずっと欲しかった言葉を、いとも簡単に発してしまった。なら、俺が今すべきことは。
  ガチャリ、鍵を開ける音が聞こえてすぐに、扉が小さく開かれる。俺が観念するように扉を開けると、銀色の髪が視界に入り込んできた。
 「累」
 「え」
  そこからはもう一瞬だった。扉を開けて外に出ようとしていた身体は、神内聖の手によって、再び中へ押し込められてしまう。トイレの壁に背中がぶつかった。わけが分からず混乱していると、鍵の閉まる音が聞こえたから驚いた。何事かと顔を上げれば、密閉された薄暗な空間で、神内聖が俺を見下ろしていた。
 「累」
 「なっ、なんで鍵……おまえ何してんだよ」
  競技中だから人の出入りが少ないとはいえ、狭いトイレの個室に、しかも男ふたりで閉じこもるなんて、誰かに見つかったらあらぬ噂を立てられるに違いない。周りから突き刺さる視線を想像して、俺はたまらず神内聖の身体を押した。「は、離れろよ」
 「累」
 「なんだよ」
 「なんで泣いてるの」
 「え」
  神内聖の細長い指が頬に触れて始めて、俺は泣いていたことに気がついた。どうしてか、自分でも分からない。陰口を叩かれることなんて慣れているから、その程度のことで泣くなんて有り得ないのに、どうして。唖然する俺をよそに、神内聖はぎゅっと唇を結ぶと、眉をひそめて悔しそうな顔をした。
 「さっきの男たちのせい? あいつらが累に酷いこと言ったから泣いてるの? そうなんだね。分かった、少し待ってて。累を泣かせるやつは今すぐ僕が消すから」
 「ば、ばか野郎、やめろ! 違う……これは悲しくて泣いたんじゃない」
  そう、この涙の理由は他にある。俺は濡れた目元をごしごし擦って、目の前に立つ神内聖を見上げた。こうして見ると身長も体格も明らかに違っていて、敵わないななんて、場にそぐわないことを考える。
  無様に泣いている姿を見せたくなくて、俺は濡れた目元をごしごし擦った。
 「じゃあなんで泣いてるの。悲しくないのに涙が出たの」
  神内聖はまだ怒りを抑えきれていないようだった。壁に手をつけて俺の行く手を阻みながら、嘘を見抜く審査員さながらの鋭い表情を浮かべていた。それがなんだか無性に嬉しくて、俺は口元を緩めてしまう。
 「そうだよ、悲しくないのに涙が出たんだ」
 「どうして? 嬉しいことがあったの」
 「ああ」
 「誰? 誰が累を喜ばせたの。累を喜ばせるのは僕の役目なのに」
 「おまえだよ」
  俺の言葉を聞いてすぐに、殺気立っていたはずの瞳が、きょとんと目を丸くなるからおかしい。神内聖は瞬きも忘れて動きを止めると、やがて小さく首を傾げた。
 「僕が?」
 「ああ、そうだよ……俺を庇ってくれたのが、そんな人今までいなかったから、その、嬉しくて」
 「……それで泣いたの?」
 「そうだよ悪いか。泣き虫だって笑いたきゃ笑えよ。でも俺は本当に嬉しかったから──」
  壁に預けていたはずの背中が、前に優しく引き寄せられる。熱を帯びた体温を感じてすぐに、その状況を理解した。俺の身体は、神内聖の胸の中にあった。覚えのある柔軟剤の匂いと、どちらの音が分からない心音が、鼓膜を激しく揺らすのが分かった。
 「お、おい! ……離せよばか! そろそろグラウンドに戻らねえと」
 「嫌だ。こんな可愛い累、他の誰にも見せたくないから」
 「かわっ……おまえ目腐ってるだろ!」
  神内聖は俺の首筋に顔を埋めると、甘えるようにぐりぐりと頬をくっつけてきた。人懐っこい大型犬に懐かれているような気分になる。
 「ねえ累、競技中転んだとき、怪我してない? 痛いところない? 大丈夫?」
 「怪我なんてねえよ! ……でも、クラスに貢献するどころか、足引っ張っただけになって」
  勢いを失う俺の声に気づいたのか、神内聖は優しげな瞳で俺を見ると、頬に向かって細長い指先を伸ばしてきた。
 「勝負の結果より、一生懸命取り組んだかどうかが大事だと思う。累が頑張ってたのは、僕だけじゃなくて、皆ちゃんと分かってるよ。もしそれを責める奴がいるなら、僕が懲らしめる」
  冗談なのか、それとも本気なのか。神内聖は抱きしめていた手を離すと、いつもの綺麗な笑顔を浮かべた。その穏やかな声が、笑顔が、優しい言葉が、俺の心を軽くしてくれる。勝負にこだわって落ち込んでいたはずの心が、自然と和らいでいくのが分かった。
 「さっきの陰口、庇ってくれて……ありがとう」
  俺は神内聖を見上げ、ぶっきらぼうにお礼を口にする。恥ずかしさと嬉しさが混ざって、変な顔になっていたかもしれない。「おまえに助けられてばっかだな、俺」
  競技に参加しようと前向きになれたのも、起きた失態と向き合えているのも、神内聖のおかげだった。この男がいなかったら、俺はまだ、昔のトラウマを引きずって、何に対しても後ろ向きになっていたに違いない。
 「ううん。あの日からずっと、助けられてるのは僕の方だよ」
 「え?」
 「そろそろ戻ろうか、累。百メートル走が始まっちゃうからね」
  神内聖の言葉に引っかかりを覚えて首を傾げる俺をよそに、男は相変わらずの優しい笑顔で、トイレの鍵を開けた。「ほら、おいで」
 「あ、ああ……」
 「お昼一緒に食べる約束、忘れないでね」
 「分かってるよ。……ていうかおまえ、なんで俺が昨日の夜にランニングしてたこと、知ってたんだ? 家の場所は教えてないはずなのに」
 「累、僕の今日のお弁当、唐揚げ入ってるよ」
 「おい話を逸らすなよ。おまえ、まさか」
 「手作り唐揚げいっぱいあるから、累もたくさん食べてね」
 「……」
  やっぱり油断出来ないやつだ。それはそうと、この前食べた唐揚げの味を思い出して、腹がなったのも事実だった。
 ※
  軍の応援席に戻ったら、クラスの大勢に白い目を向けられるのでは、と思っていたが、実際にそんなことはなかった。もちろん、トイレで聞いた男たちの言葉を忘れたわけではない。だが心臓を刺されたような感覚がないから、拍子抜けする思いだった。
 「累、百メートル走の招集、始まるって」
 「え、ああ。分かった」
  肩に触れる優しい手に気がついて、ハッとする。神内聖と目を合わせた瞬間、なぜかさっきの、トイレでの出来事が浮かび上がってきた。庇ってくれたこの男の言葉が嬉しくて、柄にもなく泣いてしまい、さらには抱き締められてしまうなんて。冷静になって考えてみると、恥ずかしくて爆発しそうだ。やけに心臓がどきどきして、落ち着かないから嫌だった。
 「累? どうしたの、顔が赤いよ」
 「いや、別に、日差しが強いから」
  上擦った声が出るから恥ずかしい。あわあわと落ち着きをなくす俺の隣で、神内聖は優しく笑った。
 ※