どんなに嫌なことがあったとしても、次の日は当たり前の顔をしてやってくる。パン食い競走と百メートル走に出場したくなかったとしても、順番は回ってくる。
体育祭当日の空は驚くほどの快晴だった。穏やかな風が俺の背を撫ぜる。グラウンドには各軍のパネルや応援席、団旗なんかが並べられていた。どこからか聞こえる陽気な音楽と、太陽の日差しが体育祭の開催を盛り上げている。
「累、今日は頑張ろうね」
銀色の髪が鮮やかに揺れる。赤いハチマキを頭に巻いた神内聖が、グラウンドに佇む俺の横にやって来た。転校生だからこそ、初めての体育祭にわくわくが止まらないのだろう。太陽より眩しい笑顔を発する男に、周りの生徒が目を細めている。
頑張ろう。そんな言葉、高校に入ってから言ったことがなかった。中学の頃はバスケに夢中で、恭介やチームのメンバーと、当たり前のように使っていた言葉だったのに。
「……ああ」
ポケットに入れていた赤いハチマキを取り出して、俺は小さく頷いて返す。目立つことを恐れるようになって以来、自分のことが嫌いになるばかりだった。今だってそうだ。周りに注目されるのが嫌だからと理由をつけて、みんなが一致団結しようと、頑張ろうとしている体育祭に後ろ向きな自分が、とても惨めに思えた。
「ねえ累」
そんな俺の薄暗な感情を読み取ったのか。神内聖は優しい手つきで俺の手を取ると、握っていた赤いハチマキをするりと奪った。「累は、走るの苦手?」
「苦手じゃねえよ……全然、得意だ」
「じゃあなんで、辛そうな顔してるの」
「……目立ちたくねえから」
思えば、神内聖に目立ちたくないと説明するのは、これが初めてかもしれない。俺のことを知れるチャンスだと思い、その理由を詳しく問い質してくるだろうか。中学時代のことを知りたがって、目を輝かせながら聞いてくるのだろうか。そんなことを考えると、胸の奥がずんと暗くなっていった。
しかしどうだろう。そんな俺の浅はかな考えとは裏腹に、神内聖はそれ以上深く言及してくることはなかった。そっか、と相変わらず優しい声が響く。俺はそれが、嬉しかった。
「じゃあ、今からでも変えてもらって──」
「でも」
神内聖の言葉を遮る形で、俺はたまらず声を震わせていた。
俺はずっと、あの日以来、自分のことが嫌いになるばかりだった。周りの視線が怖くて、痛くて、向き合うことを避け続けてきた。嫌なことから逃げてばかりだった。だけど本当は分かっていた。逃げてばかりでは、何も始まらない。
──明日、一緒に頑張ろうね。
笑顔で俺にそう言った、昨日の神内聖の顔が浮かび上がってくる。
「でも俺、全然クラスに貢献してねえし、こうなった以上は、その、最後までやるよ」
震える指先を隠すように、ぎゅっと強く拳を握る。そんな俺の弱い部分を見ても、神内聖は笑わなかった。それどころか眩しいものでも見たかのように目を細め、穏やかな笑顔を浮かべている。
「そっか。じゃあ累、後ろ向いて」
「え」
「ほら、早くしないと始まっちゃうよ」
言われるがままに後ろを向くと、頭に布をあてられたのが分かった。ハチマキだ。神内聖は優しい手つきで俺の髪に触れると、赤軍のメンバーであることを表す、赤いハチマキを巻いてくれた。「うん。すごく似合ってる」
低く優しい声に誘われるように、ゆっくりと顔を上げる。神内聖は俺の頭を優しく撫でると、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。その笑顔があまりに綺麗で、なぜか心臓が激しく脈打つのが分かった。
「あ、ありがと……」
「いいよ。その代わり、今日も僕と一緒にお昼食べてね」
「おまえまさか、それが狙いだったのかよ?」
「約束だよ、累。忘れないでね」
太陽の日差しがグラウンドに降り注ぐ。多くの観客に見守られる中で、体育祭は始まりを告げた。
※
俺が出場するパン食い競走と百メートル走は、どちらも午前に開催される種目だった。まずはパン食い競走があって、その後、百メートル走がある。
クラスに貢献する、と神内聖に啖呵をきったとはいえ、この太陽の元に長時間居るのは、流石に限界が迫ってくるような辛さだった。熱中症で倒れたら大変だ。俺は少しの間、熱狂する応援席から離れて、木陰で腰を下ろして、涼むことにした。
どうやら俺と同じことを考える人間は、そう少なくなかったらしい。木陰の周りには、既に何人かの生徒が休んでいた。水分補給をしている生徒。滝のように流れる汗を拭い、辟易した様子で顎を上げる生徒など。風に揺れる何色ものハチマキは、まるで雨上がりに浮かぶ虹のように綺麗だった。
適当な場所を見つけて座る。日差しの差し込まない木陰の中は、とにかく涼しかった。俺はふうっと溜息を吐いて、応援席の方に目を向ける。
銀髪の髪が目立つからだろうか、神内聖の姿が見えた。応援席の真ん中で、軍のメンバーに囲まれているようだ。しかし肝心の本人は、一刻も早くその場を離れたいと思っているのだろう。目をキョロキョロと動かし、まるで誰かを探している様子だった。その相手が誰なのか、ふと考えてみる。すると、俺には関係ないはずなのに、なぜか胸の奥がモヤッとするから変だった。誰を探してるんだ、そう声を零しそうになった。
「どこ見てんすか」
神内聖を見ていたはずの視界が、黒いハチマキで覆われる。顔を上げると、不良少年のような二枚目、只木賢人が立っていた。「いま競技中のグラウンドじゃなくて、応援席の方見てましたよね。誰か探してたんすか」
「賢人か。びっくりさせんなよ」
「お疲れ様です。サボりですか」
相変わらずの無表情を浮かべて、賢人は隣に腰掛けた。額の見える短い髪と、鼻筋の通った綺麗な顔立ちが、黒いハチマキを巻いたことで、より際立っているように見えた。
「サボりじゃねえよ。休憩中だ」
「サボりじゃないっすか。俺もお邪魔していいすか」
「別にいいけどよ、敵チームとは話さないんじゃなかったのか」
「そんなこと言ってないっすよ。なんすか累先輩、俺と話すの嫌なんですか」
にやりと口元を歪めて、賢人は笑う。何を考えているか分からない、気まぐれ猫のような後輩は、木陰に背中を預けると、ふうっと小さく息を吐いた。「累先輩、なんの競技に出るんすか」
「パン食い競走と、百メートル先」
「へえ、そういうのやるタイプなんすね。玉入れとか綱引きを選ぶと思ってました」
「いや……まあな」
俺の性格をよく理解しているのだろう。賢人は額に滲む汗を拭きながら、意外だと言わんばかりに目を細めた。「まあ累先輩、運動神経良さそうっすもんね」
「そういうおまえは、何に出るんだよ」
「俺は百メートル走と借り物競争です。やりたくねえって言ったんすけど、クラスの奴らが出ろって聞かなくて」
「人気者だな」
「いや押し付けられただけっすよ」
図書委員会の仕事以外で、賢人と話す機会はあまりない。だからだろうか、木陰で二人並んで話すのは、どこか新鮮な感じがした。グラウンドから歓声が上がる。どうやら競技が盛り上がっているらしい。
うちの高校の体育祭は、競技がグラウンドの中心で行われ、外枠の半面に生徒が、もう半面に観客が集まることになっている。視線を向ければ、グラウンドの置くに無数の人が集まっているのが分かった。去年同様、相変わらずの観客の多さだ。
「累先輩、パン食い競走出るって言いましたよね」
「ああ」
「あれ結構大変らしいっすよ。包装されたパンを口に挟んだままゴールするっていう、一見すると単純なルールですけど」
「やっぱ難しいのか」
「うちのクラスに体育祭マニアがいるんすけど、そいつ曰く、毎年転ぶ人が多発するらしいっす。気をつけてくださいね」
「体育祭マニアってなんだよ」
笑う俺の横顔を見て、賢人も小さく笑った。そのさり気ない笑顔は綺麗で、優しさに溢れている。俺はふと、クラスメイトが賢人を放っておかない理由が分かった気がした。
競技を前に緊張していた心が、なんだか少し軽くなる。
涼んだことだし、そろそろ応援席の方に戻ろう。そう思い立ち上がろうとする俺に、賢人は「あの」と声を掛けてきた。相変わらず抑揚のない声だったが、どこか緊張しているように聞こえたので、俺は立ち上がるのをやめて、首を傾げた。
「どうした?」
「累先輩、俺このあと、借り物競争出るって言ったじゃないっすか。どんなお題が出るか分かんねえけど、もし──」
「累、そこで何してるの」
名前を呼ばれてハッとする。顔を上げると、銀色の髪に赤いハチマキを巻いた、神内聖と目が合った。木陰に休む俺を見つけて、様子を見に来たのだろうか。「隣に居るのは、誰」
「えっと、こいつは……」
「あー初めまして、只木賢人です。累先輩にはいつも、いろいろお世話になってます」
挨拶する賢人の声色がなぜか敵意に溢れているように感じられた。そう思ったのは俺だけではないのだろう。神内聖はいつもの優しい笑顔とは打って変わって、警戒するように眉根を寄せたかと思うと、俺の腕を掴んで、ぐっと身体を引き寄せてきた。
「累、ハチマキが緩んでる。つけ直してあげるね」
「え、ああ、悪い」
「応援席に戻るよ」
半ば強引に腕を引かれ、自然と身体が前に歩き出す。背後に視線を向けると、木陰に座ったままの賢人の姿が見えた。その表情がなぜか険しく、苛立っているように思えたのは、気のせいだろうか。「ねえ累」
「な、なんだよ」
「累は、あの後輩と仲がいいの?」
俺の手を引いたまま、神内聖が尋ねてくる。背中しか見えないため、その表情は分からなかったが、なぜかこっちも怒っているように思えた。悪いことをした訳でもないのに、罪悪感が湧き上がってくる。
「いや、まあ……同じ図書委員だから、それで」
「他にも仲が良い人、いるの?」
「え」
神内聖が足を止めて、くるりとこちらを振り返った。銀色に光る柔らかな髪の奥で、綺麗な瞳がまっすぐ俺を見つめている。
「僕、累のこともっと知りたいのに、全然知れてない。累がどんな人と仲良くしてるのか、誰を一番信頼してるのか。全部知りたい。それに、僕が累の一番になりたい」
「え、ちょ……」
恥ずかしげもなく、堂々とした顔でそんなことを告られて、混乱しない方がおかしい。木陰で涼んできたばかりだというのに、俺の顔は休む前より赤くなった。わけが分からない。俺を見つめる神内聖の視線が、言葉が、笑顔が、いつだって頭を混乱させる。
「もっと累のこと教えて。唐揚げが好きとか、わさびとコーヒーが苦手とか、走るのが得意とか。全部知りたい。僕だけがいい」
「わ、分かったから! これからはちゃんと教えるから……だから、もうやめろって」
恥ずかしさのあまり頭がパンクしてしまいそうだった。ど、ど、ど、と心臓が激しく鼓動して、わけも分からず身体が熱くなる。
これはきっと、灼熱の太陽のせいに違いない。指先まで熱くなった俺の手に気づいたのか、神内聖は掴んでいた俺の手をさらに強く握ると、小さく頷いて静かになった。
「パン食い競走に出場する生徒は、招集場所に集まってください」
グラウンド全体に放送が入る。どうやら、そろそろ俺の出番が来るらしい。
「じゃあ、俺、行くから」
「あ、待って累」
頭に手が伸びてくる。何事かと思えば、神内聖の細長い指先が、緩んだハチマキを器用に結び直してくれた。ありがとう、素直にお礼を口に出すと、男は屈託のない笑顔を浮かべて頷いた。
「頑張ってね。応援してるよ、累」
「ん」
恥ずかしさのあまり、ぶっきらぼうな答え方をしてしまう俺をよそに、神内聖は穏やかな笑みで、俺を見送った。
※
