図書委員の先生が職員会議から戻ってきたのは、それからすぐのことだった。
「遅くなってごめんなさいね。今日はもう終わりにしていいわよ」
時計を見ると、そろそろ昼休みが終わろうとしている。俺と賢人は立ち上がると、その場でぐっと伸びをした。こうして並ぶと、ひとつ年下なのにも拘わらず、賢人は俺より身長が高かった。神内聖よりは小さいだろうが、本人曰く成長期まっただ中の賢人は、これからもっと大きくなるのだろう。
「累先輩、次の当番までにこの本読み終えておくんで、今度、感想会しましょうね」
俺がおすすめした小説を持ち上げて、賢人は呟く。いつもの無表情が和らいで、心なしか笑っているように見えた。そう言ってくれるのが嬉しくて、俺は思わず口元を緩ませる。
「ああ分かった。その本、最後がめちゃくちゃ面白いから、楽しみにしとけよ」
「そんなハードル上げていいんすか。言っておきますけど、俺の感想は辛口ですよ」
「いや、でもまじで面白いから」
「まあ累先輩が言うなら間違いなさそうっすね」
カウンターに背を向けて歩き出す。ずらりと並ぶ本を横目に、図書室から出る帰り際。先生に頭を下げて部屋から出ていこうとした、そのときだった。
「二人とも本当にお疲れ様。明日の体育祭、楽しみね」
並んで立つ俺と賢人に、先生は笑顔でそう呟いた。その言葉を聞いてすぐ、俺たちは互いに顔を見合わせる。普段は無表情の賢人でさえ、目が丸くなっているように見えた。
「え……明日、体育祭か!」
「あーそういえばそうでしたね」
学校行事の情報に疎い俺たちを見て、先生がふふっと笑う。そうこうしているうちに予鈴のチャイムが鳴ったので、俺たちは図書室を後にした。
※
「累先輩、何軍ですか」
教室に戻る最中、賢人がそんなことを尋ねてくる。中学までの俺は、とにかく運動するのが大好きだったので、体育祭はもちろん大好きな行事のひとつだった。でも目立つことを恐れるようになった今では、行事ごとにすら後ろ向きになってしまっている。その証拠に、明日が体育祭であることすら忘れていたくらいだ。
「えっと、たしか、赤軍だったはず」
「うちは黒です。敵チームでしたね」
俺たちが通う高校は、かなり早い時期に体育祭が行われる。赤軍、青軍、黒軍などいくつかのチームに別れて競技を行い、各軍での点数が高さを競うルールだ。
「累先輩と同じ軍だったら、暇な時間に話し相手してもらおうと思ったのに、残念っすね」
本当に残念だと思っているのか。無表情で発される抑揚のない声に、俺は苦笑する。
「べつに敵軍同士は話しちゃ駄目なんてルールないだろ。普通に話しかけて来いよ。それともなんだ? おまえ、意外と勝ち負けにこだわるのか?」
「まあそうですね。勝ちたいものに関しては、全力で勝とうとするタイプです」
「欲張りめ」
「明日はお互い頑張りましょうね」
一年と二年の教室を分ける階段にたどり着き、互いに手を振る。賢人は小さな笑みを浮かべると「じゃあまた」と背を向けて歩き出した。俺は振っていた手を下ろすと、二年二組の教室に向かった。
※
午後からの授業は、全て体育祭準備に充てられるらしい。教室に戻ると、部屋の中は賑々しい空気で満ちていた。例のごとく神内聖を囲むようにして、クラスメイトが談笑している。何を話しているのかと思えば体育祭の話で、転校して間もない神内聖に、わが校の体育祭が何たるかを教えているようだった。
「うちの体育祭は休日開催だから、観客の数が凄いんだよ。他校の学生とかめっちゃ見に来るの!」
「そうそう。観客の盛り上がりも凄いんだぜ」
「目玉競技はなんと言っても借り物競争! いろんなお題があって、毎年大盛り上がりなの」
去年の体育祭を思い出しているのだろう。クラスメイトたちは目を輝かせ、楽しかった思い出を語るようにして、神内聖に語りかけている。肝心の本人は聞いているのか聞いていないのか、大した反応を見せなかった。
俺は自分の席に着くなり、窓の外を眺めながら、鬱々とした気分に見舞われる。運動するのは、今も大好きだ。でも目立つのが苦手なせいで、いつも手を抜いてしまう。去年の体育祭だってそうだ。種目決めをする際には、団体競技である綱引きとか玉入れとか、複数でやる競技に参加しただけだった。百メートル走やリレー、借り物競争のような目立つ競技に出るつもりは毛頭ない。今年も多分、そんな感じになるはずだ。
そういえば、今年はまだ種目決めが行われてなかったな、ふと思い出す。去年は体育祭本番の数週間前には、参加競技が決まっていたはずなのに。スケジュールが変わったのだろうか。
「ねえ累」
耳元で聞こえた低い声に、びくりと肩を震わせる。窓の外から視線を逸らし、声のする方へ目を向けた。そこには想像していた通り、神内聖の姿がある。昼飯のときの気まずさが残るせいか、どんな顔をすればいいか分からない。とりあえず話を聞こうと黙れば、神内聖はこてんと首を傾げながら言った。「累は何の種目に出るの?」
周りの視線がズキズキと刺さって、あのときみたいに足が震えそうになる。相変わらずみんなの前でも話しかけてくる神内聖に、俺は戸惑いを覚えずにはいられない。こいつの目には俺しか映っていないのだろうか。無いはずの尻尾が後ろでぶんぶん踊っている気がするのは、流石に気のせいだと思いたい。
「俺は、た、玉入れとか、綱引きとか……その辺」
蚊の鳴くような声が出た。去年出場した種目をそのまま口に出しただけなのだが、神内聖は真剣な面持ちで聞いていた。そのときだった。
「え?」
前の席から声が聞こえたと思えば、その人物はくるりとこちらを振り返ってきた。名前は知らないが、二年二組の学級副委員長を務める男子生徒だということは分かった。癖のある髪と大きな瞳が印象的だ。視線が重なる。副委員長は机の引き出しから一枚の紙を取り出すと、おかしいな、と頭を掻いた。「伊丹は今年、百メートル走とパン食い競走になってるけど」
「は」
予想もしていなかった言葉に、俺は思わず身を乗り出す。種目決めはまだ行われていないはずなのに、どういうことだ。しかも百メートル走とパン食い競走って、意味が分からないぞ。
「二週間前に種目希望のアンケート用紙、配っただろ。締め切りの関係で、未提出者は余ったところに入れることになってたんだけど、伊丹は未提出だったから、余ってた二種目に入れたんだ」
「おいおい、嘘だろ」
アンケート用紙ってなんだ。俺はすぐさま椅子を引くと、机の引き出しに目を向ける。二年生に進級してから、学校を欠席早退した日は一度もないはず。つまり、アンケート用紙が配られたなら、間違いなく受け取ったに違いない。一体どこに行ったんだ。
引き出しの一番奥に薄い紙の存在を見つけて、動きを止める。まさか。まさかな。そんなわけない。俺は口元を引きつらせながら、恐る恐る、それを引っ張る。
「ほら出てきた、無記入のアンケート用紙だ。なんだよ伊丹、まさか忘れてたのか?」
副委員長が眉を下げて笑う。広い机の上に置かれたアンケート用紙は、しわくちゃに折れ曲がっていた。どうやら配られたまま、引き出しの中に放置していたらしい。今世紀最大のミスに、俺は心の中で頭を抱える。よりによって、いちばん目立つ個人種目に出場することになってしまうなんて。
「ねえ、累」
肩をトントン叩かれる。視線を向ければ、幸せそうに頬を緩ませた神内聖と目が合った。「俺も百メートル走に出るんだ。あと借り物競争。累と同じの種目に出れて嬉しい。明日、一緒に頑張ろうね」
勘弁してくれ。今すぐこの場で叫び散らかしたい衝動に駆られる。だが、これに関しては完全に俺のミスなので、自分を責めることしかできない。唖然とする俺のことなど露知らず、どこからかやって来た学級委員長が、教卓の前に立ちテキパキと指示を出すのが分かった。いよいよ本格的に、体育祭準備が始まるらしい。
それにしても、百メートル走とパン食い競走に出ることになるなんて。俺の頭に、去年の体育祭で見た観客の多さと、盛り上がる会場の様子が流れ出す。あんな大勢の目がある中で走るなんて、これは大変なことになったぞ。たまらず青い顔をする俺とは対照的に、神内聖はまだ、嬉しそうに笑っていた。
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