そして現在。俺は結局断りきれず、神内聖と一緒に昼飯を食べていた。俺の机に二人分の椅子を並べて、少々手狭な空間での昼飯だ。
 「僕のお弁当、累の好きな唐揚げ入ってるよ。ひとつあげる」
 「え、まじで?」
  温かな日差しが教室に差し込み、机の表面を照らしている。
 「まじだよ。食べてみて」
  差し出された大きな唐揚げを前に、ごくりと生唾を飲み込む。けどすぐに、俺たちを見つめる周りの生徒の視線に気づいて、ようやく冷静さを取り戻した。
 「や、やっぱ要らねえよ」
 「なんで? 唐揚げ好きじゃなかった?」
  俺が首を振って唐揚げから目を逸らすと、神内聖は不思議そうに首を傾げた。よもや食べさせるつもりだったのか、持ち上げられたまま行き場を失った唐揚げが、心なしか悲しんでいるように見える。
 「唐揚げは好きだよ。ていうか、なんで知ってるんだよ。おまえに唐揚げが好きなんて教えたことないのに」
 「累のことなら何でも知りたいから」
 「いやそうじゃなくて。おまえな……どうやってその情報知ったんだ?」
 「秘密。それより、食べてよ」
  神内聖と話すようになって気づいたことがある。それはこいつが、意外と強引な性格であるということだ。普段は誰にでも優しい、クールで物静かな印象があるくせに、俺と話すときは変なこだわりを持っているようだから面倒くさい。今だってそうだ。唐揚げをずいと俺の前に差し出して、「食べて」と、ころもの部分を唇へ押し当ててくる。
  鼻腔に広がる唐揚げの匂いに喉が鳴った。こうなってしまえば言うことを聞く以外に方法はないので、俺は仕方なく口を開ける。雛に餌をやる親鳥の気分にでもなっているのだろうか。神内聖は、壊れ物を扱うような優しい手つきで、そっと唐揚げを食べさせてくれた。
  噛んだ瞬間、肉の旨味が口いっぱいに広がる。サクサクのころもと油で揚げた肉の相性が抜群で、俺は思わず目を剥いた。
 「どう……? 美味しい」
  咀嚼中で話せなかったので、「美味い」と返事をする代わりに、俺はぶんぶんと首を縦に振る。その勢いと見開かれた目で十分察したのだろう。神内聖はほっとした様子で息を吐くと、「良かった」と口元を緩ませた。
 「今まで唐揚げを作ったことはなかったけど、累が好きだって聞いたから、頑張って作ってみた。喜んでもらえて嬉しい」
 「え」
  唐揚げを食べ終えた俺は、さらりと放たれた言葉に動きを止めた。もうすっかり胃の中に入ってしまった、絶品の唐揚げを思い出す。俺は自分のお腹を指さすと、「おまえが作ったのか?」と叫ぶように尋ねていた。料理とは無縁の俺にとって、こんな美味しい唐揚げを「僕が作りました」なんて言われたら、驚かないわけがなかった。
 「そうだよ。僕が作りました」
  神内聖は嬉しそうに目を細めると、俺の顔を覗き込むようにじっと見てくる。男子高校生二人で並んで食べる狭い空間にも、初めこそ戸惑いとやりずらさを感じていたが、慣れてしまえば何も気にならない。
 「まじで? おまえ……すげえな」
  思ったことがそのまま口から出た。「もしかして料理が好きなのか?」
 「好きってほどじゃないよ。うちは母さんが病気で早くに亡くなって、僕と父さんの二人暮らしだから、料理は俺が担当してるだけ。得意料理は唐揚げだよ。今日からね」
 「病気……」
  その言葉を聞いてふと、俺は昔のことを思い出した。思い出したといっても、断片的な部分だけだ。幼少時代。大好きだったじいちゃんが病気で入院することになったとき。毎日のように病院へ見舞いに来ていた俺は、そこで、一人の男と出会った。どこで出会ったのか。何を話したのかまでは、あまり覚えていない。でも確か、そいつは──
 「累、もう一個あげる」
  俺の思考を遮るように、また口元に唐揚げを差し出される。「おまえの分が無くなっちゃうだろ」と断るが、肝心の本人は「累に食べて欲しいから」と言って聞かなかった。終いにはまた唇に唐揚げを押し当てられ、俺は結局それを頂くことになる。しかし何度食べても美味しいのは確かで、俺が口いっぱいに広がる唐揚げに目を輝かせると、神内聖はまた嬉しそうに笑った。
  しかし俺は気づいていた。こうやってただ昼飯を食べている俺たちを、いや正しくは俺を、面白くない思いで見ているクラスメイトの視線があることを。負の感情を詰め込んだその目は、あのときの記憶を甦らせるから嫌だった。
 ──おい、なんで俺のこと避けるんだよ。
 ──俺なんか、おまえが嫌がることしたのかよ。
 ──なんか言ったらどうだよ。
 ──なあ、恭介(きょうすけ)
  もうあんな出来事に見舞われるのはごめんだと、高校に入ってからは人を避けて生活してきたのに。
  またあんなことが起きたらどうしよう。そう思うと、さっきまで普通だった心の中がサーッと冷えて、急に冷たい水の中へ落とされるような気分になった。
 「ねえ累、このあと空いてる? 良ければ学校案内してよ。累と散歩したい」
  周りの視線に気づいていないのか。それともハナから興味がないのか。神内聖は相変わらずの大型犬に似た人懐っこいオーラを放ち、甘えるように尋ねてくる。こいつが大型犬なら、恐らく俺は警戒心の強い猫に違いない。周りから刺さる嫉妬に近しい視線が怖くて、俺は席から立ち上がる。
 「累?」
 「ほ、他のやつに頼め。俺これから委員会の仕事があるから」
 「え」
 「唐揚げ美味かった。ありがと。……じゃあな」
  早口に発された感謝が、ちゃんと届いたかどうかは分からない。椅子を引いて腰をあげると、周りの目がますます刺さって、ぶるりと背筋が震えそうになる。
  逃げるように教室から立ち去る俺の背中を、取り残された神内聖がどんな顔で見ていたかは、考えないことにした。
 ※
  まるで長年一緒にいた親友同士のような顔をして、神内聖は俺の隣に立つ。それが不気味で怖くも思うのに、どこか嬉しく感じてしまうのはなぜだろう。
  だが気を緩めてはいけない、俺は自分に言い聞かせる。どうせそんな関係も長く続かないからだ。中学の時の光景が頭の片隅に浮かぶ度、俺は薄暗な気持ちになった。昔のあいつがそうだったように、神内聖も、いつかは俺と一緒に居るのが嫌になる。だから俺は、とにかく情に流されないように、意識しながら生活するしかなかった。
  神内聖と顔を合わさないで済む唯一の時間といえば、俺の所属委員会である図書委員の仕事をしている時くらいだった。週に一度の昼休みに、図書当番があるのだが、そのときだけは、今まで通りの自分でいられた。
 「累先輩、なんか大変っすね」
  今日も今日とて利用者のいない図書室の中で、その声は響いた。同じ図書委員である、後輩の只木賢人(ただきけんと)だ。うちの委員会は、昼休みと放課後ごとに二人の委員がペアを組み、貸出カウンターに座ることになっている。今日は俺と賢人が当番の日だった。
 「聞きましたよ、めっちゃ美形の転校生がいるとか何とか。クラスの女子が騒いでました」
 「ああ……神内聖な」
  ちょうどその転校生のことを考えていた俺は、心を読まれたのではないかと驚く。しかし賢人は相変わらずの無表情で、何を考えているか分からない。
 「へえ、ジンナイって言うんすか。その噂の転校生、昨日廊下で見かけましたけど、累先輩にべったりでしたね」
 「いや、まあ」
 「多分あれっすよ。先輩は変なのに好かれやすいタイプですよ。絶対」
 「勘弁してくれ」
  多分、と絶対、が混ざった曖昧な言い方がおかしくて俺は苦笑する。賢人と初めて出会ったのは、この委員会の顔合わせが行われたときだ。額の見える短い髪と、鼻筋の通った綺麗な顔立ちは二枚目と認めざるを得ないのに、どこか不良少年を感じさせるから不思議だと思った。正直、図書委員の仕事をサボるだろうなと予想していた。
  しかし蓋を開けてみれば違った。今の今まで、賢人は俺との仕事をサボったことがない。むしろ真面目に働くし、さらにはミステリ小説を読むのが好きだと言うから驚いた。休みの日は読書をするのが日課らしく、「先輩これ読んだ方がいいっす」と面白かった本を紹介してくれることだってある。人と関わりたくない俺にとって、唯一と言ってもいいほどの、話の合う大切な後輩だ。
 「累先輩はあんま友達とか居ないタイプだと思ってましたけど、仲良いみたいっすね」
 「仲良いのか……? でも俺、ああいうみんなから好かれる目立つタイプは苦手なんだ」
 「あー分かります。俺も目立つのとか好きじゃないんで」
  抑揚のない声で答える賢人は、相変わらず無表情で、何を考えているか分からない。だが話していて落ち着くのは確かで、俺はこの時間が嫌いじゃなかった。
  ふと委員会の活動以外で、賢人に会った時のことを思い出す。例のごとく無表情で愛想のない賢人だが、クラスでは皆に好かれているらしい。いつも周りには人が居て、本人はそれを鬱陶しそうにしているのが面白かった。
 「賢人は冷たそうに見えて、実は凄く良いやつだから、皆おまえを放っておけないんじゃねえか?」
 「え、なんすか。先輩俺のこと良い奴だと思ってくれてるんすか」
 「まあそうだな」
 「へえ。……あざす」
  賢人の持っている本に目を向けると、この前俺がおすすめしたばかりのミステリ小説が握られていた。結構分厚い本なのに、もう半分以上読み終わっている。こういうところも、良い奴だなと思ってしまう。
  図書室内は静かだった。誰も立ち寄らない本棚は、埃を被っている物も少なくない。委員会の先生は、定期的にある職員会議に出ているため、この空間に居るのは、俺と賢人の二人だけだった。だからだろう。リラックスしているせいか、思ったことがスラスラ口に出てしまうのは。
 「こんなこと言うのもあれだけどよ。俺、おまえと初めて組むことになった時、サボりそうなやつだなって思っちまってた」
 「ひでー。顔で判断しないでくださいよ。俺はこう見えて真面目だし、ルールも守るし、勉強熱心ですよ」
 「そうだよな。おまえと話すようになって、全然間違ってたなって反省したわ。見た目で判断するのは駄目だよな」
  苦笑していると、ふと頭の中に神内聖の顔が浮かんだ。中学での経験があるからって、あいつも俺から離れていくとは限らないんじゃないか。そんなことを考えて、胸の奥がつんと痛くなる。まるで昔からの知り合いだったかのように接してくる神内聖。なんであんな風に俺と仲良くしようとするのか、その理由は分からないけど、過去のトラウマに重ねて、何でも否定的に捉えるのは、良くないのかもしれないと思う。
 「まあ嘘ですけど」
 「え」
  賢人がぱたりと本を閉じて呟いた。顔を上げると、俺をまっすぐ見つめる鋭い瞳と目が合うから驚いてしまう。それは不良少年だと思われても頷けるような、獲物を見つけたハンターに似た目だった。
 「正直、面倒な仕事は好きじゃないです。図書委員会になったのだって、ジャンケンに負けたからだし、本当は一日目からサボろうと思ってました」
 「え、そうだったのか?」
  あっけらかんと話す賢人に目を丸くする。いや待てよ。ならどうして。「でも結局、毎回ちゃんと来てるだろ。おまえが仕事をサボったことなんて一度もねえし。……なんでだ?」
  首を傾げる俺を見て、賢人はあからさまな溜息を吐いた。マジかこの人、と言いたげな瞳が浮かんでいる気がして、俺は余計に混乱した。
 「累先輩って本当に察しが悪いですよね」
 「はっ……おい、喧嘩売ってんのか?」
 「もういいです。それより先輩の話聞かせてくださいよ。目立つのが苦手な理由」
 「え」
  目立つのが苦手な理由。その言葉を聞いた瞬間、まるで餌にかかった魚が陸にグイッとあげられるように、昔の記憶が勢いよく飛び出してきて、俺の頭を支配した。
  あれは中学時代の出来事だ。
  今の俺は口と目つきの悪ささえあれども、目立つことを極端に恐れ、回れの目を気にしてしまう嫌いがあった。でも昔は違う。少なくとも中学までは、一番の親友だと思っていた友人、朝川恭介(あさかわきょうすけ)との関係が悪くなるまでは、人と関わるのが大好きな性格だった。
 ──恭介と累っていつも一緒にいるよな。
  クラスメイトたちは、俺と恭介を見る度に、そう言って笑った。柔らかい栗色の髪と、爽やかな笑顔が人を寄せ付ける恭介の性格は、俺はもちろん、クラスの皆からも好かれる存在だった。
  恭介とは同じバスケ部に所属していて、頭を使うより身体を動かす方が好きだった俺は、暇さえあれば恭介とバスケの練習をしていた。だから一緒にいると言われても、俺は特に気にしてはいなかった。
 ──累、あのさ。
  とある部活の帰り道、家に向かって歩いていると、恭介が急にこんなことを聞いてきた。
 ──累って誰か、好きな人、いる?
  そのときの恭介はどこか落ち着きがなくて、緊張しているように見えた。
 ──好きな人? 俺が?
  当時の俺はバスケをするのに夢中で、クラスの女子生徒を好きになったりだとか、はたまた道端ですれ違った人に一目惚れするだとか、そういった経験は全くなかった。だから恭介に質問されても、なんて答えればいいか分からなかった。
 ──いや、ごめん。何でもないんだ。
  そう言って笑う恭介の耳は赤く染っていて、どこか悲しそうにも見えるから不思議だった。俺たちはいつも一緒に居て、部活でも学校でも肩を並べて歩くような、そんな親しい関係だった。俺は恭介を親友だと思っていたし、これからもずっと、一緒にいるものだと思っていた。
  だがその日以降、恭介は俺から距離を置くようになった。
  それは本当に突然の出来事で、俺は意味が分からなくなった。いつも一緒に行っていた移動教室も、恭介は他のクラスメイトと行くようになった。部活でも俺と会話をしたがらず、登下校も時間をずらして、俺を極端に避けた。異変を察知したのは俺だけではなく、クラスメイトも同じだったらしい。「おまえら最近一緒に居ないけど、もしかして喧嘩でもしたのか?」なんて、不思議そうに聞かれることも増えた。
  俺は訳が分からなかった。ずっと仲良くしていたはずの恭介が、急に自分の前から離れていくなんて、考えたこともなかったからだ。まるで心に大きな穴が空いたような、空虚な孤独を感じたのを覚えている。何かしてしまったんじゃないだろうか。酷いことを言って、傷つけてしまったんじゃないだろうか。必死に昔の記憶を探ってみたけど、何が駄目だったのかは分からなかった。
  ついに限界を迎えた俺は、ある日、教室の真ん中で恭介に尋ねた。
 ──おい、なんで俺のこと避けるんだよ。
  荒々しい声が出たと思う。明るかった教室の雰囲気が、一瞬にして静まり返った。だが、俺たちを見つめるクラスメイトの視線すら、その時の俺は気づいていなかった。恭介を振り向かせたい。避ける理由を説明させたい。そんな、自分本位なことしか考えていなかったからだ。
  俺に詰め寄られ、壁に押し付けられた恭介はの身体は熱かった。耳元は赤くなっていて、揺れ動く視線は絶対に重ならない。もう俺とは目すら合わせたくないのかと思うと、頭にカッと血が上った。俺は今まで溜め込んでいた不安と寂しさを怒りに変えて、それを恭介に向けて爆発させた。
 ──俺なんか、おまえが嫌がることしたのかよ。
 ──なんか言ったらどうだよ。
 ──なあ、恭介!
  俺は一方的に恭介を問い詰めた。しかし肝心の本人は口を開いてくれない。視界に入れることも、話すことも嫌なのかと思うと、怒りで頭がおかしくなった。自分の何が駄目だったのか分からなくて、風邪を引いたわけでもないのに、悔しさで喉が痛くなった。目の周りが熱くなって、気づけば拳を握りしめていた。俺は恭介を一発、殴った。恭介は地面に尻をついて倒れ、現場を見ていた女子生徒が、たまらず叫び声を上げた。
  それからはもう一瞬だった。偶然通りかかった先生に腕を掴まれ、俺は恭介から強制的に引き離された。「おい何してるんだ」「やめなさい」大声で怒鳴られて初めて、赤くなった拳に気づく。
  俺は今、何をしたんだ。地面に倒れたまま頬を抑える恭介を見下ろして、サーッと血の気が引いていく。冷静になった頭で周りを見てすぐ、俺はひゅっと喉を鳴らした。現場を見ていたクラスメイトの視線が、先生の視線が、鋭い刃物となって俺を突き刺す。殴られた訳でもないのに、心臓をえぐられたような痛みが走った。
 ──最低だな、あいつ。
 ──なんか怖いね。
  誰かが俺を指さして、そんなことを呟いた。それに同調するように、首を縦に振る生徒の姿が目に入った。恭介を一方的に殴った俺は、誰がどう見ても、最低最悪の加害者だった。次から次へとやって来た先生が、倒れる恭介に駆け寄り、それから俺に怒声を発した。今この空間で、俺だけが輪を乱す悪者だと気づいた瞬間、立っているはずの地面に穴が空いて、暗闇に吸い込まれるような気分になった。
  周りの目が怖い。恭介の方を見ることができない。軽蔑や怒りを口々に発する生徒たちに囲まれて、俺はその場から動けなくなった。みっともなく震える足は惨めだった。
 「……先輩。累先輩? どうしたんすか急に黙って。無視されると傷つきますよ。俺はこう見えて繊細なんですから」
 「え」
  肩を優しく揺さぶられ、俺はハッと我に返る。目立つのが苦手な理由を聞かれて、中学での出来事を思い出してしまっていた。なんて答えるべきか、頭をフル回転させながら考える。中学の話を正直に話す手もあったが、まだ自分が立ち直れていない分、それはできないと判断した。「ああ、目立つのが苦手な理由だったな。……り、理由なんて特にねえよ」
 「ふーん。そうすか」
  上手く誤魔化せたのだろうか。苦笑いを浮かべる俺を、賢人はじっと見つめていた。
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