遡ること約一ヶ月前。まだ桜が咲き乱れていた春の季節。高校二年生に進級した俺の前に、あの男、神内聖は現れた。クラス替えをしたばかりの、心機一転の教室のなかで、新しい担任が放った言葉は「突然だけど転校生を紹介します」の一言だった。
  まだクラス替えをしてままならないこんなタイミングで、転校生が来るなんて。新たな環境のなか、どうにか自分のポジションを確立しようと緊張が走っていた教室は、サプライズに近しい担任の言葉に動揺が隠せない様子だった。ざわめきと驚きが一斉に響く。
  かくいう俺はというと、転校生にも新しい環境にも、全く興味を持たずにいた。去年のクラスでも目立たないようひっそり過ごして来たし、そのスタイルを今年も変えるつもりはない。
  新学期特有と言うべきか。その時の座席は、まだ席替えをする前の、名簿順で並べられたものだったから、俺は廊下側の前から三番目に座っていた。友達作りはもちろん、転校生の風貌にも関心はなかったので、うたた寝半分で席に着いていた。
  異変に気づいたのは、転校生の姿を見た途端、騒ぎ出した周りの様子を感じとってからだった。女子生徒の叫びに近い黄色い悲鳴や、男子生徒の息をのむ声。誰かが呟いた「格好よすぎでしょ」の言葉につられて、俺は初めて、野次馬根性で顔を上げた。
 「神内聖です。よろしくお願いします」
  銀色の髪とニキビひとつない白い肌が視界に入る。ハーフなのだろうか、日本人離れした眉目秀麗な顔立ちと、スタイル抜群の立ち姿に、なるほどこれは驚くわけだ、と心の中で納得する。
  一方、俺自身も、視界に映る銀色の髪に、なぜか見覚えのある気がするから不思議だった。この綺麗な髪を、どこかで見たことがあるような、そんな感じがした。
 「え」
  そのときだった。日本人離れした銀髪の転校生、神内聖と目が合ったのは。こんな大勢の生徒が座る教室のなかで、どうして端に座る俺を見たのか。しかも、ぱちりと目が合ったまま、神内聖の視線は、俺から動かないから驚いた。
 「え」
  俺もたまらず声を漏らす。なぜだろう、神内聖から目が離せない。賑々しい教室の声が聞こえなくなるくらい、俺はその日本人離れした綺麗な瞳に吸い込まれていた。しかしどうやら、驚いているのは向こうも同じらしい。神内聖は綺麗な目をあどけない子供のように丸くしたかと思うと、突然こちらにやってきた。俺から目線を逸らすことなく、騒ぎ出す人目も気にせず、一直線に俺の元へやって来た。
 「久しぶり」
 「は」何だ。
 「ずっと会いたいと思ってた」
 「え」何なんだ。
 「コーヒー、もう飲めるようになった? あとわさびも」
 「え」何なんだよ、こいつ。
 「また会えて嬉しい。これからよろしくね」
  神内聖がにこりと笑うと、なぜか教室から黄色い声が上がった。しかし本人はそんなことお構いなしに、ただじっと俺を見つめているから訳が分からない。動揺のあまり目を白黒させずにはいられない。
 「えっと……誰」
 「え?」
 「誰だよおまえ。おまえなんか知らねえよ」
  どうやら、全く知らない奴が俺を知っているらしい。驚き以上に不気味さが勝って、俺は警戒心丸出しの表情を浮かべる。
  それでも神内聖は、突き放すように言った俺を包み込むように、穏やかな表情を浮かべて笑うから不思議だった。
 「そういえば、あのときも自己紹介はしてなかったね。僕は神内聖。君の名前は?」
 「……」
 「教えてよ。お願い」
 「……伊丹累」
 「るい」
  神内聖はまた目を丸くすると、自分の心に刻み込むように、「るい、るい」と何度も俺の名前を読んだ。クラスメイトが見ている前で、そんなことをされては堪らない。何なんだよおまえ、と顔を真っ赤にして怒り出そうとしていた手前、神内聖は俺の手を取ると、怒りも消え失せてしまうほどの、花が咲いたような笑顔を浮かべて言った。
 「これから仲良くしてね。累」
 「な、なんだよおまえ! 距離が近えよ」
 「そっか、累っていう名前だったんだ」
 「おい」
 「また会えて嬉しいな」
 「だから、おまえなんて知らないって……」
  細長い指先が俺を捉えて、互いの指先が交差する。握られた柔らかい手の感触に驚いて、たまらず手を離そうとした。だが神内聖は、もう離さないと言わんばかりに、俺の手を掴むから怖かった。腕を引き寄せられ、目と鼻の先に顔が見える。モデルをやっています、と言われても納得の風貌に、ドキリとせずにはいられない。
 「覚えてなくていいよ。あのときの僕は、きっと態度が悪かっただろうから。覚えてない方が嬉しい」
 「は?」
 「これからの僕を知ってよ」
  初めて見る顔のはずなのに。神内聖の笑った顔に、なぜか見覚えがある気がした。握った手を離さないせいか、周りの生徒の興味混じりの視線が痛かった。何が何だか分からず、俺はたちまち顔を青くした。
 ※
  そうして転校してきてからというもの、神内聖はことある事に、ところ構わず俺に付き纏うようになった。
  例えば放課後。教室に残ってひとりでゲームをしていたら、うっかり寝てしまったときがある。目が覚めた俺の前には、神内聖が座っていた。夕日の差し込む誰もいない教室で、勉強やスマホをいじる訳でもなく、ただそいつは、寝ていた俺をじっと見ていた。
 「え……なに、何してんの」
  まだ意識がはっきりしない寝起き状態で、俺は目を擦りながら尋ねた。
 「一緒に帰ろうと思って」
 「いや、そうじゃねえよ」
 「累はいつも難しそうな顔してるのに、寝てる顔、可愛いね」
  唖然とする俺をよそに、神内聖は優しく笑った。
  それだけには飽き足らず、一緒に帰ろうと家まで着いて来ようとしたり、俺が部活に入っていないと知るなり「じゃあ僕も入らない」と言ってきたり。さらには食べ物の好き嫌いを把握しようとしてきたり、何かと質問攻めにされるのが常だった。中でも一番気になったのは──
 「累、まだわさびとコーヒー嫌いなんだ」
  なぜそれを知っているのか。神内聖とは面識がないはずなのに、まるで俺を知っているかのような口ぶりで話してくるから不気味だった。高校二年生にもなってわさびとコーヒーが苦手なんて、周りに知られたら恥ずかしと思って隠してきたのに、なんでこいつが知ってるんだ。
 「おまえ、なんでそんな俺に構うんだよ」
  ある日の放課後。俺に付きまとう神内聖に耐えきれず、道の真ん中でそんなことを尋ねた。正直、まったく覚えのない相手に、一方的に自分を知られているというのは、あまり気分のいいものではなかった。するとどうだろう。
 「僕は、累に救われたから」
  心なしか真剣な表情で、そんなことを告げる神内聖の姿に、俺は、何を言うべきか分からなくなった。それからはもう、周りの目を気にすることはあっても、男が隣にやって来るのを拒むことはなくなった。いちいち気を揉むのが面倒になったからかもしれない。けどこれだけは言える。少なくともこのときの俺は、今の状況を全く理解していなかった。
 「累おはよう。一緒に学校まで行こ」
 「勉強分かんないなら僕が教えるよ」
 「僕を頼っていいよ」
 「次の移動教室、一緒に行こう。累」
  もう目立ちたくない俺の、ひっそり終わるはずだった高校生ライフは、こいつとの出会いによって、すべて崩れることになる。
 ※