日原先輩と月宮くんは飴と無知でできている



 歴史ある校舎で無駄に広い校内の屋上へ続く最後の踊り場。各学年のクラスがある棟と違い、ここB棟は基本授業でしか使われることがない教室ばかりが集っている。
 結果発表のついでに連行され、さっきまで聞こえていた話し声や足音がぱたりと止み、まるで同じ敷地内にいると思えないぐらいの静寂が俺たちを包み込む。
 そっと腰を下ろして胡座をかいた。目の前の日原先輩は購買で入手したメロンパンとクリームパンをどっちから食べようか考えあぐねている。「ふたつとも甘いんだから変わんなくないですか」と声をかけると「どう見ても違くない?」と真剣な表情で迫られたので、やっぱりこの人の観点って独特だなと首を傾げてしまった。
「一年のときにさ、見つけたんだよね秘密基地」
「秘密基地? ここが?」
「そう、だってB棟って基本授業以外は先生達しかいないし。一年のときふらふらしてたら良いとこあんじゃん、みたいな?」
 みたいな、って。悩んだ挙句メロンパンに決めたらしい日原先輩が切り出した。甘いのに甘いのってわかんねえなと思いつつ、俺もタッパーの蓋を開けて朝焼いたばかりの卵焼きを頬張る。
「日原先輩のことだし、おおかた女子から逃げ回ってたに一票」
「……鋭いとこつくね! 屋上ってよっぽど何かあるときにしか入れないから、みんな階段上も立ち入り禁止だと思ってんだよね」
 口いっぱいに詰め込みながら話す日原先輩と頑丈に閉じられた後ろの扉。大きく書かれた立ち入り禁止の文字。みんな一度は夢見る屋上での青春ライフは、呆気なく散りゆくものらしい。
「誰か、ここに呼んだことあるんですか」
 薄ぼんやり明るい光が踊り場に差している。わざと箸を動かす手を止めずに、ぶっきらぼうに問いかけた。ごくん、と喉をならした日原先輩の視線が俺の元へ届く。同時に手が頭に伸びてきて、踊るように髪を弄び始めた。くすぐったさに思わず目を瞑ると、その反応すら楽しんでるのか柔らかな声で「快くんだけだよ」って。思わず日原先輩を見たら、元いた場所から俺の隣にすぐやってきて肩を触れ合わせる。
「俺と快くんだけだから」
 そんな風な目で見ないでほしい。慈しむように、大切だって言われてると期待してしまいそうになる。照れくさいのを隠しきれず、日原先輩と縮まった距離を戻そうと横にずれようと心では思うのに身体が動かない。
「秘密にしといてね。誰にも言わないこと、約束できる?」
 腰に腕を回され、声が間近に落ちてくる。ワイシャツ越しに伝わる日原先輩の体温。俺の思考が溶けて、擽ったさに身を捩った。勘弁しろよ、そう願うもここには日原先輩しかいなくて。ひとつ上のあんたは、どうしたって俺を置いてってしまうのに。校内中のあちこちで一緒に過ごした場所がどんどん積み上がっていく。
「……あんまり、こういうのしないでください」
 本当に、めんどくさいことを言っている自覚はある。日原先輩が一瞬だけ息を詰めた顔をした。でも、だけど、こんなに優しく触れられた日を思い出して、懐かしくなるのはごめんだった。
「……それが快くんのお願い?」
「まだ結果のことなんも言ってないじゃないですか」
「わかるよ。だって快くんやればできる子だもん」
「……なんすかそれ」
 弁当を側に置き、ポケットの中から取り出した一枚の紙を渡す。焦って入れたからちょっとよれて、見栄えが悪い。日原先輩が受け取って、目を凝らして確認し小さく笑う。
「すごい、ちゃんと上がってるね」
 時間を割いてあれだけ教えてもらえば、頑張らないわけにもいかない。三十六人中九位。前回クラスでも平均ど真ん中だった順位からすると大躍進を遂げたと言えるだろう。
「日原先輩と比べたら見応えないですけどね。……ありがとうございます、って言っとけばいいですか?」
「あははっ、快くん通常運転に戻ってる」
「無理矢理戻してんすよ。でも本当にお願い、っていうかなんつーか……」
「……うん」
 図書室や帰り道、日原先輩の知らなかった一面が溢れてきたあの一週間。俺をこれ以上揶揄わないで、向き合ってほしいと願うのは、高望みすぎだろうか。
「こうやって俺に触れてくるんだったら……日原先輩のこと、ちゃんと知りたいんです」
 腰に回された手の上に、俺の手のひらを重ねる。一世一代の大勝負。「これからもずっと揶揄うつもりなら、もう構わないでください」言ってから胸が張り裂けそうな気分になり、睨みつけるように見返すと鼻の奥がツンと痛んだ。
 かっこ悪い。こんなところ見せたくなかったのに。はやく返事しろよ。この前は啖呵を切ったけど、あんたが思ってるより俺は自信も余裕もなくて。だから俺は、もうここで勝負するしかないんだ。
「……快くん」
 重なった手が微かに動いた。日原先輩がずるずると俺にもたれかかってくる。首元に顔を埋められたせいで、髪があたってこそばゆい。重い、何やってんだこの人。力任せに押し返すと片手で顔を覆った日原先輩が現れる。
「俺が悪かったけど、まじで焦った……もう駄目だって思ったじゃん……」
「だ、駄目って?」
「……そうだよね、快くんはこういう子だもんね」
 僅かな声量で呟いた日原先輩はわかりやすく口を尖らせた。さっきまでの空気は一変し、まるで拗ねたような幼い顔だった。余裕だったり赤くなったり、基準が本当にわからない。
「……今かっこ悪いからあんま見ないで」
 ぱっ、と俺の側から離れ、再びメロンパンの袋をガサガサさせながら食べ始めている。不貞腐れながら押し黙る日原先輩に、少しだけ申し訳ない気持ちと可笑しな気分になった。
「……、……っ、はは」
 あまりの驚きように、思わず笑いが込み上げる。なんだってできる日原先輩が取り繕うのに必死そうだ。鼻の奥のツンとした痛みはいつの間にか飛んで、柔らかな空気が舞っている。
「日原先輩もそんな顔するんですね」
「そんな顔って……快くんのせいだよ」
 物珍しさに満足する俺といまだ口数が少ない日原先輩。その事実に言いようのないくすぐったさが広がった。
 距離感がうまく掴めないまま、俺たちの他愛もない会話は進む。途中で日原先輩が卵焼きをじっと見つめてきたので「食べますか」と聞くと大きく縦に振られた。タッパーごと渡そうとすると「わかってないなあ」となぜか俺が悪者扱いされる始末。小さく口を開けて、じっと俺の顔を見つめる日原先輩に、まさかと思ったらそのまさかだった。
「……食わせろってことですか?」
「俺、手塞がっちゃってるし」
 どう見ても嘘だ。てか今両手にパン持っただけだろ。
 だけど、そんな我儘を拒否しきれない俺も大概だ。少し迷って箸で卵焼きを摘んで呼び寄せた。途端、ぱあっと花が咲いたように日原先輩が笑う。
「……味、期待しないでくださいよ」
「ん、ありがと。……美味しい、これ快くんが作ったんだもんね」
 俺から寄らなかったのはせめてもの抵抗だが、日原先輩はあまり気にしてないらしい。試合には勝ったけど、勝負には負けた気がしてならない。ああもうどうしようもないな、って。
 食べ終わった弁当をしまって、大きく腕を伸ばした。次の時間は古典。さっき貰ったコーラの飴を片手に眠気に負けないよう作戦を練りながら壁に背中を預ける。
「……ねえ、快くん」
 どっちも完食したらしい日原先輩が、満足した表情のまま顔を向けた。その瞳は真っ直ぐ俺を捉えている。
「なんですか。また変なことするつもりなら今度こそ逃げますからね」
「いやいや、違うから! 快くんの『お願い』ちゃんと聞こうと思って……その、週末ってまだ予定空いてたりしますか……良ければだけど」
 良ければ、の部分で日原先輩は懇願するように俺の手を握った。瞬間、平然としていてもこの人もちゃんと人間で、手のひらがやけに汗ばんでいたのを知った。「……日曜の午後なら?」頭の中で早急に部活のスケジュールを思い出し、でもやっぱり不安だったから疑問形で返せば、既に了承を貰ったと確証を得たかのようにして、日原先輩は力を強めた。
「――俺とデートしよ。快くん」