「はい、じゃあ今日はここで終わり。わかんないとこある?」
「前よりかはだいぶ……理解できた気がします」
図書室に差し込む光が、昨日よりほんの少しだけ手の届かないところに見える。
時刻は夕方六時前。二日間の勉強会を経て、苦手な教科や単元、暗記の仕方、テストへの極意を学びに学んだ俺は、悔しさと尊敬の間にいた。
日原先輩は俺が何度躓いても、きちんと教えてくれる。勉強でもスポーツでも自分ができるのと、人に教えるのでは訳が違うと例えがちだが、この人はどちらも器用にこなすタイプだ。それがどうしてだかこそばゆくて、何かひとつでも不器用なところがあればいいのにいまいち見つけられやしない。昨日の焦ってたり、赤くなったりしたところをもう一度見たいと思ってしまうのは、俺も随分日原先に染められてしまっているからだと思う。
「わかんないって言ってたところも、ちゃんと解けてたじゃん。土日に復習すれば問題ないはずだから。暗記系もポイントは抑えたし、あとは快くんの記憶力に頼るしかないね」
「……ありがとうございます」
教科書や問題集を鞄に入れ、ファスナーを閉じた。静かな図書室に響く音がやけに大きく聞こえたのは、気のせいだろうか。今日は金曜日。明日、明後日は学校に来ることはないし、来週はテストを終えても帰るだけ。まるで嵐みたいな、いつもと違う日常を過ごしたから、いざ終わると胸の奥が小さく痛んだ。
「じゃあ帰ろっか。快くん、今日も自転車に鞄乗っけてくんない?」
礼を伝えて黙る俺に、日原先輩が冗談混じりで話しかけた。昨日もそうだった。電車通学の日原先輩と俺が一緒なのは、学校から最寄りまでのたった十分の道のり。長いようで短い時間は、日原先輩のペースに呑まれると聞きたかったことも伝えたかったことも何ひとつ間に合わなくて、はぐらかされてばかりで。
「またですか? 駅までぐらい持てるでしょうが」
「これだけ面倒見たんだから先輩のこと労ってよ」
「……はいはい」
対する日原先輩は、お得意の笑顔を俺に振りまいてくる。今日俺にあげる飴を何にしようかと聞いてきて、答えを求めてきた。選択肢は、桃、オレンジ、ぶどう。どれも貰ったことはあるし、特に意味はないはずの味。不意打ちだったから一瞬で決めきれず、ちょっと待ってくださいと静止の合図を送る。少し悩んで今日はオレンジにして、スラックスに突っ込んだ。
それから図書室を出て、昇降口へ向かう途中、随分大きな声で突然日原先輩が歌いだしたので恥ずかしくなって止めると、「最近人気の曲なんだって。知ってる?」と返ってきた。知ってるも何も、有名な曲だし。それにあんたのこと思い出したときに聞こえた曲だったから。こんなに眩しく感じるような曲なんて、思いたくなかった。
俺が今まで知っていた色がわからなくなってくる。指やつま先がうずいて、思わず両手を握り合わせた。気を紛らわすために目を逸らす。不自然な行動だったかも。けど、俺は日原先輩の言葉を受け入れるだけでそれ以上もそれ以下も何も言い返せなかった。
駐輪場について、裏門から歩き出す。カゴに目配せして「どうぞ」と伝えると遠慮なく、鞄が置かれた。それを皮切りに、また会話が始まり、図書室とは打って変わって日常に戻ったみたいな空気が巻き戻る。
「快くんのクラス、やっぱ駐輪場遠くない?」
「……毎日必死ですよ。特に朝練まで行くのに」
「確か遅刻したら外周一周追加なんだっけ。遅刻したことあんの?」
「入学してからはまだないっすけど……まじで焦ったときはありましたね」
「焦ったとき?」
「サッカー部のルールで、七時までに身に着けてるもん何かグラウンドに入ってれば一応セーフなんですよ。先輩達がカウントダウンし始めたから、冬だったしとりあえず手袋投げて回避した的な?」
「あははっ、快くんってたまにアグレッシブなとこあるよね」
学校から駅までは、道の広い遊歩道沿いに住宅街が連なっている。俺たちの高校以外にも辺りはいくつもの小学校や中学校があるそうで、ここら一帯は普段学生で溢れかえっている道のりだ。ただ今日はまばらで俺が目視で数えられる程度の生徒しか歩いていない。覚えたての知識で許容量が満タンになった俺の脳内は、しっかり疲労困憊中。原因は主に日原先輩にある。とはいえ、教えてもらったからには無下にできない。
陽が落ちかけている夕日を見つめた。そういえばこの時間帯にゆっくり空を眺めたことなんて、久々だった。それが俺のごく普通の日常だと思い込んでいたから。
けど、誰かを見て身体の内側から吸い寄せられたり、かと思えば動けなくなったり。想像もつかないスピードで、俺は日原先輩の熱に浮かされているのかもしれない。
「日原先輩」
自転車を引きながら、俺の前を歩く日原先輩の背中に声を投げる。振り返り、ふっと笑う顔にまた心臓がぐっと掴まれた。ただ笑っているだけなのに、くすぐったくて弾けていくみたいに鼓動が激しくなる。
「なに? 快くん」
「…………」
「なんか言いたいことありそうだね」
「この一週間、あれだけ振り回されちゃ文句のひとつも言いたくなりますよ」
「文句だけでいいの? 俺、今日はたくさん話したい気分だけど」
直線距離およそ一キロメートル。駅に着くにはまだ少しだけ余裕がある。日原先輩が丁寧にお膳立てしてくれたせいで、言わざるをえない状況。やっぱりわかっててやっている。足を止めて、口を動かす。
「じゃあ日原先輩って、なんなんですか」
口にした途端、思考がぼやけてハンドルを握る手が強張った。何って、なんだろう。そう思われてしまえば終わりだから。今さら定義づけようとしたところで笑われてしまうだろうか。唇を強く噛み締め、日原先輩を見つめ直す。
「……また随分直球に言ってきたね」
「だって日原先輩が文句だけじゃなくていいって、言ったんじゃないですか」
「そうだね。うん、俺が言ったことだしね……そろそろ答えたほうがいいかな」
馬鹿みたいにうるさい心臓は鳴りやみそうになくて。日原先輩と距離が近づくにつれ、まるで聞こえてしまうんじゃないかって錯覚しそうになって。つまり俺は緊張が抑えきれなくて。
日原先輩が最初に触れたのは、頬だった。だから言葉じゃないと返事になってないって何回も思ってるのに。
あんたに名前を呼ばれると、色づくようになった気持ちを俺だけではどうしても抑え込めないから。
「……ちゃんと返事、してくださいよ」
先輩の触れた指先が、熱い。鏡なんてみなくてもわかる。その眼差しだけで何を言われても全部許してしまいそうになってる時点で、俺が随分甘いだけの人間っていうことを日原先輩が気づかないわけもない。やっぱり最初からわからない人だ。でもそんな傍若無人な人の行動に流されている俺も、十分訳がわからなかった。それでもなんとなく、日原先輩が少しだけ答えてくれると信じて、俺は。
「快くん」
もう何度も聞いた声に耳を傾けた。一瞬だけ、日原先輩の瞳が揺れる。
昔から周りには人が絶えなかったこと。だけどそのせいで苦い経験をしたこと。本当はサッカーをしてた過去があって、今でも続けたかったけど逃げてしまったこと。
俺に構い始めたのは、真っすぐそうで羨ましくて、少しだけ――揶揄ってみたいと思ったから。
「……まあ、普段は全部誤魔化してるんだけど。快くんの前だと俺も駄目になっちゃいそう」
今度は俺の手の上に手のひらを重ねて。日原先輩は、無理矢理に口の端を上げて下手くそな笑みを作って見せた。
「ごめんね、俺ってかっこ悪いし最低でしょ。ずっとこんな感じだし」
かつては完璧な人だと思っていた姿が崩れていく。だけど、不思議とかっこ悪いなんて思わなかった。
夕焼けに照らされた日原先輩は、初めて話したときと同じく煌めいていて。甘くて苦いところも全部、俺が見てきた日原先輩だったから。
「……全然、ていうかむしろすっきりしました」
「そっか」
「第一、あんたが俺なんかに最初から真面目な理由で近づいてくるはずないと思ってましたし……それぐらい言われても傷つきませんよ。てか日原先輩、話端折りすぎて途中何言ってるかわかんないとこありすぎ」
「凄い言ってくるじゃん……」
「はあ? 俺で遊んでたんだから、これぐらい言う権利あると思いません?」
「そ、それ言われたらさあ……ごめん、何度言っても同じかもだけど、今はそうじゃなくて……」
だったら今はなんですか。不自然なほど口ごもる日原先輩を前にして、問いかけそうになった言葉をぐっと呑み込む。それを聞く瞬間は今ではないと、直感的に察したのはこのひとに構われてた教育の賜物だと思う。
スラックスのポケットからオレンジの飴を取り出す。迷わず袋を切って取り出して、指先で救い上げた。俺の行動に日原先輩は何が起きているかいまいち理解できていないようで、「どうしたの」と言ってくる始末。たじろぎながら、まだ下手な笑顔を浮かべているのが無性に切なくなってくる。本当に変なところで遠慮がちなの、やめてくれねえかな。
「一週間、俺もだけど……あんたも頑張ったんでしょ。だから今日はあげます。……特別に」
特別。散々俺に言ってきた台詞をお返しとばかりに投げつけて、日原先輩の口元に飴を差し出す。
「俺のこと、揶揄った報いです。……あとの話はテストが終わったら、無理矢理にでも聞かせてもらいますから。覚悟しといてくださいね」
俺が言い切ってからしばらくして、日原先輩がなにか吹っ切れたみたいな顔をして笑った。差し出した飴を静かに食んで、不意打ちに驚きを隠せなかった俺を見て「快くん」と呟いた。一瞬、指先に触れた唇が酷く熱くて、反射的に手を引こうとしたけど呆気なく捕まってしまった。
「……甘いね、いつも食べてるのよりすっごく甘い」
「気のせいなんじゃ、ないですかね。元々……あんたのだし」
「そうかな? 快くんがくれるのっていつもこんな感じだと思うけどね」
オレンジが輝く空の下、日原先輩の瞳が俺を捕らえて離さない。さっきよりもずっと自然な笑顔に俺の心の迷いも薄れていく。手のひらに唇が優しく触れて、掠れた声が漏れる。
「……っ、変なこと言ってないでさっさと帰りますよ」
「……まだ帰りたくないって言ったら怒る?」
「テスト勉強、しないといけないんで」
「はは、そっかあ。じゃあ、満点期待しとこうかな」
ぱっ、と離れた熱に名残惜しさを感じながらも、いつまでも温度が引くことはなくて。
前を向いて歩き出した日原先輩が、すぐ振り返ってくる。「快くん」笑って、俺の名前を呼んだ。太陽みたいに明るい笑顔に全部が溶けてしまいそうで、ただひたすらに眩しくて目を細める。
オレンジ色に染まった帰り道。いつもより甘い香りが鼻を擽ったのは、俺と日原先輩の歩幅が同じになっていたからだった。
