俺の様子が不自然で流石に可笑しいと感じ取った日原先輩が、椅子に視線をずらし促した。図書室に来るのなんて年に数える程度だから、むず痒さに似た感覚が身体に走るも、普段飄々とした日原先輩の態度がやけに落ち着いているから、逆に反抗する気も勢いをなくしていく。
昨日のは、なんだったんですか。
あの瞬間、俺は日原先輩が再び声をかけるまで固まっていた。繋がっていた指先が、確かめるように口端に触れて、初めて重なったんだと意識してからの記憶は朧げで。なんで俺なんかにあんなことをした理由も、俺が拒まなかった理由もやっぱりお互いわからない。ただ、熱くて、離れ難い、今まで感じたことのない熱が、身体中を駆け巡ったのは明確に覚えている。
それでも時間は過ぎていくばかりだから、普通に学校に来て、授業を受けて。
今日も俺は俺だけの力では前に進めないでいた。
「……勉強会って本気だったんすね」
「だって快くんが日原先輩のせいで〜って泣きついてくるんだもん」
「はあ!? 泣きついてなんか……っ、だいたいあんたが俺に色々……」
「はいはい、ごめんごめん。……それはあとで説明するから、ここ静かにしないと怒られちゃいそうだし、ね?」
ぽん、と肩を叩き俺を半強制的に座らせる。扉から離れた奥のカウンター席には生憎俺と日原先輩しかいない。こんな状況で本当にできんのかな。中間テストも迫った一週間前、俺のこぼした愚痴を真面目に捉えた日原先輩は、なぜか専属コーチを受け持つことに決めたらしい。そして今日から全学年部活は禁止期間。幸か不幸か帰宅部の日原先輩と予定が合うのは今ぐらいしかなくて、結局またこの人の空気に流された状態で隣に座っている。
「どれから教えてほしいとかある?」
「……数学」
「あ、俺の得意教科」
「ムカつきますね、その台詞」
「ほんと快くんって正直だね! まあ全般得意だし何言われても同じの返そうと思ってたけど」
日原先輩がにこりと笑って、ペンの頭で俺の額を小突いてくる。大体学年首位ってどうしたら取れるんだよ。背伸びして入学した俺と違い、話す雰囲気から察するに余裕だったんだろう。噂以上のスペックになんとも言えない気分になり、不貞腐れた俺を見た日原先輩は「始めるよ」と声をかける。
問題集を開いて数分、シャープペンの先が止まった。何度教科書を確認しても理解するのに時間がかかり、避けていた単元だ。授業でも躓いたところを目の前にし、唸る俺に対して日原先輩が視線を落とす。
「途中までは合ってるから――ここの符号反対にすれば解けるよ」
俺のノートの上に影が落ちて、さらさらと書き足されていく迷いのない公式。覗き込もうとすると肩が触れ、目が合う。昨日よりも遠いけれど、息遣いはわかる距離。集中しなければいけないのに一番思い出してはいけないあの一瞬が頭に蘇って、顔が熱くなる。
「あのさ、」
「……なんすか」
なんでもないよ、と言われてしまい、胸の辺りが騒ついた。ノートに記された日原先輩の字を、なぞるように眺めて小さく息を吐く。
あんま褒めたくないけど、教えるの上手いな。内心、反抗しつつ、一ページ、二ページと進みながら復習を繰り返す。普段の性格とは裏腹に、日原先輩が至って真面目なのにも調子が乱される。
だから、こうしているうちに時間はどんどん過ぎていき、くすぐったさも薄れた頃。
「……快くんなら、許してくれると思って」
日原先輩の視線の先が俺だと認識して数秒後、え、と腑抜けた声が出た。何を言ってるかは理解できる。あの出来事だ。普通に、答えた方がいい。
間を置いて「昨日のことですか」と返事をすると「うん」と頷かれた。
「今言います?」
「もう最後の問題だしいいかなって思って、つい」
「タイミングまじで悪いっすよ……覚えてたの吹き飛んだ」
「ごめんごめん、俺のせい?」
昨日も、一昨日も、その前から全部あんたのせいだよ。
椅子の背にもたれかかり天井を見上げながら、これまでのことを思い返していた俺に屈託のない笑い声が届く。静かにって言ったくせに先に破ってるのはどっちですか。日原先輩の「快くん」に俺はぶっきらぼうに「なに」と応じる。思ってもなかったタイミングだったので、それ以上の返しができない。
「怒んないの?」
「……怒るっつーか、もう怒れないっていうか。……俺の責任もあるって感じですね。だから、」
必死に言葉を紡いでいる最中、日原先輩が性懲りも無く机の下で俺の手を握ってきた。意外と節張った手の感覚と軽率な行動。少しふてくされたような表情に、自分でもわかるぐらいじわじわと頬が赤くなっていくのを止められなくて、日原先輩の方を向くと「ほら」と指を絡められる。
「快くん優しいもんね。また簡単に捕まっちゃってる」
身体がぐっと寄せられて、耳元で囁かれた。日原先輩の体温が伝わってくる。昨日と同じシチュエーションに、大袈裟なほどに俺の肩が跳ねた。
「……勘弁してくださいってば」
「流され過ぎじゃない? 心配だよ、俺」
「よく言いますね、確信犯。……ここだって一番奥の席だし」
「快くんだって昨日あんなところに隠れたがってたくせに。ここもまあ……誰か来ちゃったら危ないけど、お互い様だよね」
空いた窓から微かに頬を撫でる風の感触。廊下を走り去る生徒の足音。何かが五感に届くたび、うるさいくらいに鼓動が早まっている。だけどなんの前触れもなく――あんたが当たり前のように接するから。最初は警戒してた心も、いつしか慣れてしまったんだ。
「似たようなもんじゃないの?」
ねえ、と首を傾けた日原先輩の柔らかい声に負けて、迷った挙句ぎこちなく首を縦に振る。伸びてきたもう片方の手で前髪に触れられ、いつもより視界が広くなる。
「俺から誘ったのにね」
「……成績、落ちたら日原先輩のせいにしますからね」
「んー……それは流石に困るかも」
「だったらどうにかしてください、俺このままじゃ……全部駄目になりそう」
日原先輩。
呼ぼうとして、けれど俺の声がまたうまく形にならなくて。喉がひくついて、吐息だけが漏れた。溜息にも似た音はどうやら日原先輩の耳には届いていたみたいで、顔を綻ばせながら俺の頬を撫でていく。
「じゃあ、提案していい?」
「提案?」
「快くんが前回よりひとつでも順位上がったらなんでも聞いてあげるよ」
「……一年の期末よりってことですか?」
「うん、特別にね」
特別。って、だからそういうところがさあ。言葉選びが巧みな辺りが嫌になる。まだ言い足りない文句もあるけど、やっぱりそれ以上は伝えられやしない。
繋がれた手が離れていく。甘い約束を前に、最後の問題を解き直そうともう一度姿勢を正すように促され、渋々俺は従った。しばらく解説を聞きながら日原先輩に視線を戻すと「わかった?」と問われた。正直に頷いて、今度こそ俺も声を形にする。
「万が一ですけど、もし下がったら」
「下がったら?」
「……俺が日原先輩の命令、なんでも聞くってことになるんですよね?」
「……え、っ!?」
一瞬、なんだか辿々しい物言いで、日原先輩が口元を引き攣らせた。話を逸らしたのは日原先輩のくせに、どうしてか俺が悪いみたいに、目を逸らし始め、言葉を濁して俺に言う。
「快くんから提案しちゃうの……?」
「だって流れ的にそうかと思って」
「……そういうのは言わなくていいんだよ。一番駄目、駄目だからね」
「一番、っすか」
偶然出会ったあのとき、日原先輩が確かめるように言った『一番』が今日は随分重苦しく聞こえる。でも、丸く見開かれている瞳は、いつも俺を揶揄うときに細められているのとは正反対。茶色の瞳が、落ち着きなく小刻みに揺れている。珍しく、なんだかずっと焦ってるから思わず笑ってしまうと、大きな溜息と共に「集中」と叱られた。さっきまで繋がれていた手の熱が無機質な問題集の冷たさに溶け合っていく。
「……俺が教えるからには、絶対順位上げてもらわないとね」
「なんか赤くなってません? 先輩、自分の勉強は?」
「俺はいいの! それよりも快くんは快くんの心配をして!」
耳の付け根からじわじわと熱が広がって、頬まで染まる。夕焼けの時間にはまだ早い。
でも、どうしてですか。日原先輩も多分、俺と同じぐらい顔が赤いのに――聞きたかった質問は口にはしなかった。けど、日原先輩の優しさに少し救われたと思ってる俺もいて。
いつも逃げ出したくなるのに、今日はずっとこの人を見ていたいなんて。
やっぱり俺たちって、少しだけ似てるんですかね。日原先輩?
