日原先輩と月宮くんは飴と無知でできている


 時計を見たら五時だった。閉め方が甘かったカーテンの隙間から、柔らかな光の線が描かれている。
 もう一度寝ようと目を瞑るもそんな気持ちにはなれずにまた目を開いてしまった。ベッドボードの上に置いてある、充電しっぱなしのスマホをコードから外す。今日の天気は晴れ模様。最高気温は二十二度。暦の上では春が終わり夏の訪れを知らせるそんな季節。水曜日、折り返し地点といわれがちな週の真ん中の朝のこと。
 家から学校までは自転車で約二十分。朝練は七時からなので、時間にはまだ余裕がある。ぼんやりとした部屋の空気とは真反対に、思考回路がぐるぐると回って落ち着かない。起きてベッドから立ち上がって再び時計に目をやると、ここまでに費やした時間はほんの二分しか経過していなかった。
 カーテンを開け、朝日を浴びながら伸びをする。そのまま流れで洗面所に向かい、顔を洗った。まだ誰も起きてこないなと歯も磨いてる途中に思ったが、当然かもしれない。
 一ヶ月、毎日貰っている飴を渡すやり取りが俺の日常に溶け込んで、貰わない日の方が長かったのにいつしか当たり前になっている。何度も繰り返すと無意識に期待しているような気になって、なんてことのない日々が特別だと思い込んでしまうようになるから厄介だ。
 ランニングでもしたら気が晴れるだろうか。ふと思い立って自室に引き返し、クローゼットから適当に取り出したロンTとハーフパンツ、ウエストポーチを引っかけスマホとイヤホンを突っ込んだ。
 歩くたび、フローリング特有の無機質な冷たさが靴下越しに伝わってくる。履き慣れたシューズの紐を解いて、しっかり結び直して。玄関の扉を開き、早朝の空気を全身に浴びて息を吐いた。
 水色とオレンジが重なった夜と朝の境目に視線を奪われる。
 なんとなく音まで受け止めたくなって、持ってきたイヤホンは閉まったままにして走り出した。ここから駅までは約二キロ、三十分もいらないぐらいの時間では戻ってこれると予測し、速度をあげる。
 肌に触れる風が、寝起きの思考をクリアにしてくれるような、静かな朝だった。



「あ、」
 と、咄嗟に出てしまった言葉を噤むように顔を背ける。ここにきて、どうして俺は。自問自答するも百点満点な回答が思いつかなくて、足早にその場を去ろうとしたが目が合ったあの人が俺を見逃すわけもない。
「快く〜ん、なんで逃げようとするのかな?」
「き、気のせいじゃないですか」
「どう見たってわざとでしょ」
「ああもう、暑苦しいんで離してください」
 朝一番の昇降口。朝練終わりと登校してくる生徒が入り混じる時間帯。騒めきが滲み、どこか落ち着かない中での日原先輩との遭遇は正直避けたいところだった。
「いつもの快くんと違うじゃん」
 昨日あんなことがあったのに、あんたがそれを言うのかよ。
 随分と思い切った日原先輩の発言に、的確な返事が出来ずどうしたらいいか迷うばかりで、言葉になりきれない音が溢れ出す。もうこんな気分になるのは何回目なんだろう。
「……その反応はどう受け取ったらいいのかな」
 迷いを察してか、日原先輩がくすりとはにかみ、俺の顔を覗き込むのでタチが悪い。このひとはわかっててやっている。かもしれない。まだ何も答えられない俺は呆気なく日原先輩の手中の上だ。
 深い視線が刺さって、鼓動が跳ねる。俺だけしか見ていないと錯覚してしまいそうな強さだった。
「快くん、あのさ」
 何か言いたげな様子で、だけど黙って。続く言葉の代わりに置かれた手のひらが、無造作に俺の頭を撫で回す。日原先輩の温かさが伝わってきて、やっぱり逃げ出したくなってしまうから、俺は。
「ごめんね。そんなふうになってくれると思わなくて」
「……もう最悪ですよ」
「ごめんってば、次会ったら飴あげるから」
「今じゃないんですか?」
「……なんか今あげたらもったいない気がするし。今日また探すからね、朝練お疲れ様」
 じゃあ、と手を振って言いたいことだけ言って去った日原先輩の後ろ姿が遠のいていく。もったいないって意味が、俺のせいだとわかるのも嫌になる。
 少し離れた場所で待ってくれていた金子と木崎がこちらを見て笑っている。話までは聞かれてないはずだと思うのに、心臓の音が鳴り止まない。
 撫でられた箇所を必死に直して、ふたりの方へ向かう。いつものように揶揄われたので、俺も平常心を装い返事をした。
「今日は何味貰ったん?」
「……まだ貰ってない。次会ったらって言われたし、ただのダル絡みだった」
「ダル絡みって日原先輩が聞いたら悲しみそうだな」
「なんも思わねぇよ、俺なんかに」
 自分で放った言葉に勝手に傷ついて、ぶっきらぼうな選び方しかできなくて。校内を見渡すたびに日原先輩の存在を感じてしまうから、ずっと心の奥に居座る自由奔放な姿が離れない。
 教室について、席に腰掛ける。暫くして担任が入ってきて、中間テストに向けてのあれやこれやを上の空のまま聞き流していたらいつの間にか終わってしまった。一時間目の教科は日本史。一気に現実に引き戻された俺の机の上には、教科書とノートが並んでいる。無意識に用意したんだな、と考えながら秒針を見つめるもやっぱり内容は頭に入ってこない。
 どうにかしてこの感情に名前をつけないと、全部が駄目になってしまいそうで。でもどうしたら?
 それがわかったらこんなにも悩むはずはないので、また振り出しに戻って頭打ちだ。誰かに相談を、とも思ったが具体的な顔は浮かばない。
 いや、結局いつも思うのはあの人だから、浮かべないようにしていただけかもしれない。

 
「――て、ことでどうしたらいいんですかね」
「……快くん、俺にそれ言っちゃうの?」
「だってそりゃあ……あんたしかいないんですもん、話せるの」
 昼休み、探すというより俺の教室に突撃訪問してきたところを押し返し、連れ込んだ先は人通りの少ない視聴覚室前。
 目の前の日原先輩がバツが悪そうに頬を掻いて、視線も泳いでいる。快くんってさあ。若干の沈黙を経て返ってきた言葉がやけに小さかったので、なんですかと答えると日原先輩は曖昧な表情をして黙ってしまった。やけにらしくない仕草に首を傾げる。口の中が乾くのも目が泳ぎそうになるのも、日原先輩の言動のせいだ。あんただって困るぐらいに俺に構ってきてるのに、何を今さら。
「俺しかいないって本当?」
「嘘ついてると思います? この状況で」
「つかないと思うけどね、快くんだったら。でも万が一って考えたとしてだよ」
 日原先輩が寄りかかっていた壁から背中を離す。距離が近づいて、心臓の音がまた大きくなっていく気配がした。
「……快くんって、やっぱ読めないところあるよね」
「は? 日原先輩がそれ言うんすか」
「あははっ、俺たち似た者同士だねえ」
「全然似てないと思うんですけど……」
「えー……これでも?」
 え、と気づいた瞬間繋がれた手に視線が落ちる。身体のあらゆる熱が集中し、一瞬のうちに何が起きてるのか理解して慌てて振り解こうとするも離れない。また、この感情だ。たったの指一本だけ、強く絡められて止められる。痛くもないし、決して――嫌ではない。ただ、逃げ道を塞がれた感覚がどうにも慣れなくて。
「……っ、離してくださいよ」
「離したら逃げちゃうでしょ?」
「…………しませんってば」
「駄目。このままにしとくね」
 失敗した。ああ、と呻きたくなる声をどうにか唇を噛み締めて堪える。一ヶ月を振り返ってみても日原先輩はこういう人なのだと。この状況で俺が形勢逆転をするには、ほとんど、いや百パーセント以上の確率で困難を極めるだろう。
 整理がつかない。ただ日原先輩が俺に思う感情と俺が日原先輩を思う感情がほんの少しでも同じだったらいいな、なんて。抱えているものが、尊敬や友情じみた言葉に収まるわけではなくて。深いところにある、色づいたものだと感じてしまったから。いっそのこと答えを見つけたかった。はずなのに。
「俺もね、わかんないんだよね」
 笑っちゃうよね。日原先輩が続けた言葉。俺を悪戯に揶揄うようで、だけど困ったような口調だった。
 遠くから誰かと誰かが行き交う声が聞こえては、離れていく。指先はまだ繋がれたまま。互いを伺っている妙な空気が間に流れるも、日原先輩の強さに変わりはなく解けない。相変わらず心音は大きく鳴りっぱなしだ。それでも、俺は無理矢理この場を動くことができなかった。
 日原先輩みたいに、眩しいくらいに周りを惹きつける力がある人がどうして。何かきっかけがあるとするなら、きっとあの日の出会いだけだ。たった一瞬の出来事で俺の何が、あんたに。わからないって、ずるいじゃないですか。
「俺ばっかり、だと思ってたんですけど」
 不意に溢れてしまった言葉を、最後まで言い切れずにまた押し黙る。日原先輩の顔を見れなかったのは、俺にはまだこの先は早すぎるんだと自覚があったからなのかもしれない。
 そんな俺を前に、指先の力が強さを増した。少し距離のあった空間が縮まり、自由が効かなくなる。「快くん」日原先輩の声に耳元が熱くなる。このとき、もう逃げられないと理解しているのに、目を瞑った俺も結局このひとに甘かったのだ。
 息がかかり、一瞬だけ唇に触れた熱。日原先輩があまりにも優しい声で謝るから、俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。