週の始まりを乗り越え、迎えた火曜日。四限目が終わり、束の間の休息。購買がある玄関口付近ではどの学年の生徒も行き交っており、昼休みの開放感からはしゃぐ声が後を絶えない。もちろん俺もその一員。側から見ればだと思うけど。
「うわ、今ちょうど終わったばっかで持ってないや」
「なんすかその汚れ具合。転んだんですか?」
「酷くない? 快くん、先輩に労いの一言が足りないってよく言われるでしょ」
「あいにくサッカー部の先輩方みんな優しいんで……」
「もー、変なこと言ったら同クラのやつらにすぐチクってやろうと思ってたのに! ちなみに転けてはないからね?」
今日もまた、当たり前みたいにこの人は現れる。一ヶ月前の俺はあんなに避けていたはずなのに。
俺の言葉に日原先輩は少しむくれた表情で笑った。どうやら今日は片付けの当番で、遅れて教室へ戻る途中だったらしい。揉め事に巻き込まれがちな人だから、本当にただの片付けか疑いつつも、周囲の騒めきに紛れて俺たちの会話は軽やかに進む。体操服のポケットを裏返し、本当に何も持ってないんです、とアピールをする日原先輩に距離を詰め静止の合図を送るまではだったが。
「ちょっと、俺がたかってるみたいになってません?」
日原先輩の笑い声が耳に届いて、やけに顔が熱くなる。辺りを見渡すと何人かの視線がこちらを向いていた。
俺たちを取り巻く環境は広く見えるようで、実際は学校という小さなコミュニティだ。だけど今はここが俺が生きる中で限りなく世界の中心に等しいから、誰かの視線ひとつひとつが心に大きな影響を与えてくる。
「日原先輩、目立ってますってば」
「そう? いつものことだし。気にしてないよ」
「……俺は気にするんですけど」
やっぱりこういう人だよなあ。とか。想定していた台詞と似たような回答に行き場のない焦りと羞恥心が芽生える。そうでなくとも、俺は振り回されているのに。ひそひそ聞こえてくる黄色い声も、上級生のやっかみも日原先輩には関係なくて。周りのことなんて一切気にせず、笑ってくる。
「拗ねないでよ。俺のクラスまできたらちゃんとあげるからさ。もう購買にも用済んだんでしょ?」
「は?」
「それか俺が快くんのクラスに届けに行ってもいいけど」
ほら、と。日原先輩が歩き出す。
俺まだ何も言ってないです。本当自分勝手ですね。
伝えたい言葉はやまほどあるのに、ふいに溢れ出してしまった想いを、隠すように閉じ込めて噤んだ。俺の肩に触れ、何度か重なった覚えのある熱が身体中を駆け巡る。何もかもが駄目になってしまいそうで、このまま流された方が楽だって思ってしまったのは、全部この人のせいで、俺のせいでもある。
「三年生の教室行くのはなんか場違い感っていうか」
「大丈夫大丈夫! 俺もよく他学年のクラス行くし。あっちから呼ばれるみたいな感じで」
「あんたのとは訳が違いますよ。てかさりげなく自慢すんのやめてください」
「バレた? 察しがいいね、快くん」
全然良くねえよ。どれだけ考えても頭の中で駆け巡る感情にうまく名前がつけられない。悪態をつきそうになるのを堪え、再び言葉を飲み込む。
一段、また一段と階段を駆け上がっていく。日原先輩の教室まであと一階。先輩が振り向いて、俺がちゃんと着いてきてるか確認するので逃げようにも逃げられず、従うしかない。
「到着! あーあ、着替え終わってるやつまでいるし。快くん、ちょっと教室の前で待ってて!」
鼻歌混じりで最後の一段を上り切った日原先輩が文句を言いつつ俺に指示をする。昇降口から一番離れているA棟。三階と四階に分かれた三年生の教室は、その学年毎にどちらの階になるかは決まってないらしい。日原先輩の八組は四階の奥。何がとは明確に答えることができなかったが、階が上がるだけでこんなにも見える世界が変わるんだ。その景色に紛れる日原先輩は、俺がいつも見ている姿より馴染んで見え、やっぱり同じ時間を共にした特有の雰囲気があるんだろうなと実感する。
クラスに入っていく姿を横目に、廊下側の壁にもたれかかった。全員上履きの色は赤。俺の色は青。俯いていたら気づくけど前を向いていれば知らない人の足元なんて眼中にないし。普段と違った光景をまじまじと観察するのも気が引けて、スマホを取り出し画面を適当にスワイプする。
メッセージアプリに通知がひとつ入っていて、開くと金子からだった。『購買混んでんの?』木崎と一緒のグループに投げられた質問。今日はそこそこの盛況だったけど確かにもう戻ってもおかしくない時間だ。『すぐ戻る』それだけ送って画面を暗くして、また教室のドアにさりげなく視線を映す。開くたびに違う人が出てきて言いようのない気まずさが走った。
目を逸らし、また俯く。そろそろ出てきてくんねぇかな。と、息を吐いたそのときだった。
「快くん」
馴染みのある声に顔を上げると、パチッと星屑が瞬くみたいに目が合った。何度呼ばれてもまだ慣れそうになくて、期待と安堵が染み込んだ言葉が出た。
「……やっと出てきた」
「えー、これでも早く着替えたつもりなんだけどなあ」
「つもりじゃ駄目です」
「あははっ、厳しいよ」
日原先輩が少しだけ歩調を緩めながら俺の目の前に来た。相変わらず廊下は騒がしくて仕方がないのに、俺と日原先輩の周りだけ音の輪郭が曖昧になっている。
「待たせちゃってごめんね」
そう呟いて、日原先輩はスラックスのポケットから手を差し出した。指先が俺の手のひらに触れる。小さな飴玉がひとつ、落とされた。
「レモン味?」
「うん、今日はこれあげる」
あげる、と言ったあと日原先輩は何も告げなかった。視線が上に吸い寄せられ、無意識に手のひらを固く握り直した。袋が擦れる音がどこかクリアに聞こえたのは気のせいなのか。
「ありがとう、ございます」
「俺が一番好きな味だからね」
「……知ってますよ」
「やっぱり覚えてた?」
日原先輩が言った意味を理解するにはまだ全然時間が足りなくて、でも、ただ明確にわかるのはこの味がきっと甘酸っぱいということだけだった。
「覚えてるに決まってるというか……」
「すごい言いづらそうにするじゃん」
「だってあんなの、なんて言っていいかわかんなくないですか?」
軽く笑う声に胸の奥がぐっと縮んで、身体中が熱くなる。
こんなはずじゃなかったのに。するりと伸びてきた腕に手首を掴まれて逃げられない。
「快くんだけだよ、あげてるの。だからまた明日ね」
玄関の鍵を閉めた瞬間、張り詰めていたものが一気にこぼれ落ちていく。「ただいま」いつも通りの挨拶に何か違和感は無かっただろうか。手洗いうがいを済ませてリビングに続く廊下を進み、ドアを開く。「おかえり」とふたりの弟の声が重なって、胸を撫で下ろした。
「母さんが冷蔵庫の中身使いきれだって」
「オレ、先に帰ってこれたし米だけ炊いといたよ!」
ややぶっきらぼうな物言いの空と成長期真っ盛りの湊がソファに寝そべりながら顔だけこちらに向けてける。「はいはい」と返事をし、鞄を床に下ろしキッチンへ。ふたりはああでもないこうでもないと騒ぎながら最近買ったゲームに夢中らしい。
つけっぱなしのテレビから流れてくるCMは今日の音楽番組の予告。最近話題のドラマ主題歌を初披露、青春の色を描いたとかなんだとか。
冷蔵庫を開けると、伝言通り中身は途中まで開けられた食材ばかりだった。キャベツ、にんじん、豚肉諸々。生憎、俺は母さんのように歴戦の猛者ではないので、レパートリーなんかたかが知れている。適当に炒めてあとは市販の調味料を絡めれば終わり。開発したのがどこの誰かはわからないが、大いなる企業努力のお陰で無事今夜も乗り切れそうだ。
まな板と包丁も取り出して、野菜を刻み端に置く。フライパンに引いた油が徐々に温まる音に紛れ、昼間の出来事が頭をよぎった。
結局、受け取った飴はまだ食べれていない。小さな重みが心をジワリと侵食していくような不思議な感覚。それが嫌だと思わない時点で俺は既に戻れない所まで来てしまっているのか。わからない、わかりたくない。白黒はっきりつけたら、それこそ何かが始まりそうで、終わりを迎えてしまいそうだったから。
「今日学校楽しかったー?」
湊の声にほんの一瞬、菜箸を動かす手が止まる。「普通だよ」俺の答えに「へー」と興味があるのかないのか曖昧な返事をしてそれ以上は聞いてこなかった。
部屋に広がっていく匂いは、学校とは違った日常を感じさせてくれる。単身赴任中の父さんと週二、三回夜勤をこなす看護師の母さんの代わりに夜を回すのは、いつしか俺たち兄弟三人の役目となっていた。テーブルを囲んで夕飯を食べて、他愛もない話をしながら時々風呂の順番でもめる。それが俺の日常だった。
だからこの胸のざわつきの原因はひとつしかなくて。
鞄に入っている飴の存在を頭の中から、どうしてもうまく消し去ることができなかった。
いつもと同じ、満足いくぐらい食べたのにどこか物足りない気分になる。自室に戻り、ベッドに仰向けになりながら天井を見つめた。
日原先輩の『特別』や『一番』。告白してきた女子への態度も、過去の色々な噂も、あの人なりの考えがあって行動している。だから、俺が知る日原先輩もどこかで線引きしているはず、だと思う。
手には日原先輩がくれたレモンの飴。食べたら、俺の中のなにかが変わるんだろうか。袋を開けて、飴を口に含む。いつもよりどこか酸味が強い。と、感じてしまったのは、俺が思っていたよりもずっと、日原先輩のことがわからないからだ。
