日原先輩と月宮くんは飴と無知でできている



「あ、快くんじゃん」
 名前を呼ばれ反射的に振り向くと、見覚えのある先輩が立っていた。
 身長百七十五センチ、体重六十三キロ、成績は体育以外中の中。見た目だって生まれてこのかた染めたことはない黒い短髪と、強いていうならやや近寄りがたいと評価されるこの目つき。
 特別な容姿や何かしらの才能を持たない俺はつまりただの一般人なので、学内で声をかけられる機会なんて友人や部活の先輩以外はほとんどない。昇降口やグラウンドも、毎日を過ごしていく上で変わり映えのない景色だった。月曜日の朝礼もただ体育館に立っただけでいつの間にか終わっている。だから卒業までこのまま、大きなイベントも起きない――と、油断をしていたのだ。
「なんか眠そうだね? 朝練ないからって夜更かししちゃ駄目だよ」
「勝手に決めつけないでくれませんか。……夜更かしはしましたけど」
「ほら、やっぱ当たってるし。でもそんな快くんに優しい俺からはこの味あげる。月曜恒例のミント味」
 ころん、とさっきまで耳にしなかった効果音が頭の中に溶け込んでいく。手を出して、包み紙の角を親指でなぞった。小さなころから清涼感が得意じゃなくて避けていたのに、月曜はいつもこの味だ。
「もっと他の味ないんですか?」
 一ヶ月前のあの日、部室棟での出会いから日原先輩は俺を見つけるたびになぜか飴を押し付けてくるようになった。月曜日から金曜日。味は決まってる曜日もあれば、ばらばらなときもある。多分日原先輩なりのルールがあるんだろう。あげてる理由は面白いからだとか、特にないだとかはぐらかされ月日が経って。いきなり湧いて出てきたイベントに最初は戸惑ったものの、貰えるものは貰っとけばいいか、と一週間ほどしたら受け入れてしまった俺も大概だと思う。ただ数十分の朝礼を終え教室に戻る手前、他の生徒というか、主に女子がいる前では視線が特に突き刺さるから。距離が近すぎるのをやめてほしいと思っているのは、まだ言えていない。
「せっかく渡したのにかわいげがないなあ。辛いの苦手なんだっけ」
「苦手とかじゃなくてあんま食べ慣れてないだけです」
「それが苦手っていうんじゃないの? 全く、もう仕方ないからこれもあげるよ。明日は一個だけだからね」
 大げさに嘆く日原先輩が再びポケットから取り出したのは、ファンシーな包み紙が特徴的ないちご味だった、ご丁寧に食べる順番まで指示される。あまり納得のいってなさそうな日原先輩だけど、目の前でひとつ目の味を口に含んで少し視線を上げると笑みが戻ったので機嫌を取るのには成功したらしい。
「ははっ、今食べちゃうんだ」
「だって食べておかないと明日何渡されるかわかんねぇすもん。……てかやっぱりこれ辛いです」
 ミント特有のツンとした香りが、鼻の奥をさす。まだ慣れない独特な辛さと強みに舌の上がひりついた。この人に対して遠慮という概念は当に過ぎ去ったので、嘘偽りのない感想を告げ、抗議の意を示す。「じゃあ来週までに気に入るの捜しとくよ」日原先輩が予想外の台詞を呟いたことで、俺の口角も思わず上がる。少しだけ間延びした声でお礼をいいつつ別れを告げ、その場を後にした。
 三階D棟二年一組。体育館から階段を登ってすぐにある目の前の教室が俺のクラス。日原先輩は校舎奥の四階A棟三年八組。朝礼後、校内を動き回る全校生徒は千人近くを誇るのに、どこからか俺を見つけ勝手に飴を押し付けられるまでがルーティンとなっていた。
 口内を舞う清涼感と格闘しつつ、教室へ戻るといつも一緒にいるサッカー部の金子と木崎が、何か物言いたげな表情でこちらを伺ってくる。「また貰ったのかよ。逆に弱みでも握ってんの?」最近聞かれる台詞と共に、ふたりは笑いながら俺の手に視線を向ける。
「月宮、今日は何味? 木崎と話してたんだけど月曜だからミントだろ!」
「半分正解で半分不正解。いちごも貰った。てかミント食べてんだけど口ん中めっちゃスースーする」
「毎度律儀に食べてんの偉いよ。まああの日原先輩から貰ったら食べるしかないか」
 最初はなんで俺が日原先輩と接点があるのか不思議そうにしていたが、今では毎日の光景に慣れてしまったみたいだ。たまたま話す機会があって、サッカーの話で盛り上がった。そんな理由を取ってつけただけの嘘は、後日あっけなく女子達の噂にかき消された。ギリ巻き込まれなくてよかったなぁ、なんて他人事だと笑っていたのに。今では日原先輩を見つけたら俺に報告してくる始末だ。
 部室棟での一件から、俺の中では日原先輩が気まぐれにこういうことをする人間だって思うようにしている。学年も部活も同じではない、ただの先輩と後輩。飴をあげる人と貰う人。俺だけが貰ってばかりだから何か渡そうと考えてみたが、そういえば日原先輩の好きなものってレモン味の飴ぐらいしか思いつかなくて。毎日話してる気がするのにあの人のこと全然知らないんだ、って。言葉にできない感情が静かに積もっていく。
 どうしてこんな気持ちになるのか、一度宇宙のように広がるネットの世界を探してみたが、どこもかしこも愛だの恋だの浮き足だった答えしか出てこなくて、よけいに空回りしたのが良くなかった。いくら貰ってるとはいえ、単なる好奇心のからの絡みに、俺の心が侵食されかけている。パブロフ現象、条件反射。数ある中からまともな情報を得られたと思いきや、目を逸らしたくなるような事実ばかり。
 チャイムが鳴って席に着く。教室のドアから四列目、後ろから二番目。新学期から名前順で構成されている席は、窓の外を眺めようとしても遥か遠い街の景色しか視界に映らない。もし窓際の席だったら。と、考えて軽く頭を振る。そんなことを描いても意味はないし、先輩みたいに誰かを簡単に見つける才能が俺にあるとは思えない。黒板の方へ視線を向け、配られたプリントを流し見し、机の中に入れる。
 今月の中間テストと体育祭。もうそんな時期かと理解しつつ、どこか他人事のように感じるはなぜだろう。
 日原先輩と出会う前、春休みに見た部室棟前の大きな桜の木を思い出す。
 
 それがいつの間にか淡い緑をまとっていたことに、俺は気づけたはずだったのに。