――そして、運命の体育祭当日。
真夏かと思うぐらいの日差しが照り付けている。最高気温二十五度。雲ひとつない青空が頭上に広がっていた。
グラウンドの真反対に張られたテントの下では放送委員が集合し、何やら会議を開いてそうだが、俺の視力ではそこまでが限界だった。競技が始まって、終わる前に入場口にまた別の学年や代表生徒達が並んで。朝からずっとこの調子だ。午前中の運動量を吸い込んだタオルが、もう熱を宿している。あんなにクラスや学年で練習したのに終わるのは呆気ないんだな、と思ってみたり。
「あ、点数変わった」
「赤団一位かよー、最後抜かせてたらなー」
金子と木崎が校舎上の点数板を見て語り始めた。赤、青、黄色。三学年八クラス。毎年団長がくじ引きで色と各学年のクラス分けを行なって、俺たち一組は黄団に決まった。クラスTシャツはクラスの実行委員が用意したレプリカの快外チームのユニフォーム。背番号は出席番号で、俺は十五番。金子と木崎は少し前の九番と十番。部活で纏うユニフォームとは違った素材に少しだけ落ち着かなくて、裾の刺繍を親指の爪先で引っ掻いた。
「ねー、惜しかったね。快くん!」
「……って、なんでいるんですか。日原先輩は」
「だって俺も黄団だもん」
「三年の席あっちでしょ。さっさと戻ってくださいよ。ここ、うちのクラスの席って知ってます?」
「だって霧島は実行委員でなんか走り回ってるし風間は今の時間帯保健委員の係だからあっち行っちゃったんだもん。テントの方。ぼっちなの寂しいし、ここの子ちょうど生徒会だからいいでしょ?」
「嘘つけ、あんた囲まれてたでしょうが。金子と木崎も言ってやれよ、邪魔だって」
ね、と首を傾げて引っ付いてくる日原先輩を必死に押し退け金子と木崎の会話に入る。
「え? 別に俺は日原先輩ウェルカムです」
「そんなに嫌がってんの月宮だけだぞ! 見ろ、後ろの視線を」
「見ねえようにしてんだよ……」
ひそひそを越えて最早本人に聞かせてんじゃないかと思うぐらいの女子の話し声。ほんとこの人の人気ってどうなってんだよ。顔っていうか最早カリスマ性というか。後ろを振り向くだけで歓声が浴びる状況なんて、ただの男子じゃありえない。というか、いつもより拍車がかかっている。
原因は、十中八九あれだったんだろうけど。
「いやー、まさか俺を連れてこいってお題だとはね」
「誰も触れてないのに自分で掘り返すんすか。結構ダサいですよ」
「快くんだって見惚れてたくせに!?」
毎年恒例、一年生の借り人競争。入学したての後輩を思った遥か昔の先輩達が、交流をきっかけに作ったとかなんとか。眼鏡をかけてる人、野球部のバッテリー、化学の先生、お題は簡単なものから始まって最後を締めくくるのは最も盛り上がるお題。一番かっこいい人、可愛い人、面白い人、エトセトラ。しかもこれが三年限定ときたもんで、見てる方も探す方も気合の入り方が段違い。
「見飽きてんすよ。あんたが女子はべらしてる姿に」
「学年一のイケメンと主席の枠どっちも選ばれちゃってごめんね? 最後はみんなで仲良くゴールしたしハッピーエンドだよ。俺平和主義だしね」
「速攻で選ばれて赤団と青団に協力した男が何言ってんすか。ほら黄団の点数見てください。日原先輩のせいで何点あっちに取られたか」
リレー形式で最後のお題が配られて、日原先輩の元へダッシュしてくる華々しい後輩達。私たちと一緒に来てください、いや私たちと、なんて言葉をひとまとめにして「じゃあみんなで行こっか」とあの笑顔を振り向かれたら反抗できる女子は誰ひとりいなかったらしい。
あなたはなんで選ばれたんですか。実行委員の声掛けに「三年で一番イケメンで学年主席の日原晴です」と答えたときの周りの歓声は忘れないだろう。色んな意味で。
「じゃあ俺の分まで取り返してきてよ。快くんならできるよね?」
ああ、そう言うと思った。想定した台詞と似たような言葉を紡がれ、日原先輩の顔を横目で見る。やっぱり。
今までのやり取りからするとパターンは読めている。多分これは『お願い』。そして叶えたら『ご褒美』がやってくる。俺だってそんなほいほい頷くわけじゃない。「ふーん」と興味が無さそうにあえて振る舞うと、日原先輩は俺と違って想定外みたいだった。「え、」と小さな声で呟いて、狼狽えている。よし、俺も成長したぞ。
そのあとすぐ耳打ちしてきた「……やきもち?」という声を聞くまでは、だったけど。
「……っ、……日原先輩……!」
心臓が激しく脈をうつ。頭のてっぺんから足の先まで、焦がれて、動けなくなった。ぐらついた思考にトドメをさすみたいに日原先輩が俺にだけ笑いかける。
「快くんがどうにかしてって顔してたから、来ちゃった。特別に。……快くんのせいだからね」
こんな素直に笑えるなんてずるい。ぽん、と肩に置かれた手に意識が集中する。
「じゃあ次三年のリレーだし行くね。快くん、見ててよ俺のこと」
勝手に来て、勝手に去って。ずっと自分勝手な人だ。言われなくても嫌でも視界に入るから、あんたは。ぶっきらぼうにあしらうけど、なんかその扱いにも嬉しそうにするので本当に意味がわからない。かっこいいところ、俺にも――俺だけに見せてください。日原先輩といると俺まで我が侭になって、泣いてもいないのに鼻の奥が痛くなる。
熱が離れて、日原先輩は三年生のエリアに戻っていった。霧島先輩と風間先輩達と合流し、待機列に並んでいる。金子と木崎は変わらず体育祭の盛り上がりを楽しんでいるようだ。こんなに普通じゃないのは俺だけなんだろうか。太陽はずっと高いところにある。時刻は午後二時。一番、熱い時間だった。
三年生が入場して、騒めきの中で生まれる緊張感。ルール説明のあと第一走者が八人並び、それから少しして大きな空砲の音が鳴った。日原先輩のクラスは風間先輩がスタートダッシュに成功したようでほぼ横並びの二番手についている。ひとり、またひとりと繋がれ、どのクラスも拮抗し、順位は上がったり下がったり。日原先輩が走る順番は七番目と三十五番目。これも聞き飽きるぐらい言われたので覚えてしまった。テント側の方で楽しそうに声を出して、バトンを受け取って。俺も同時に息を詰めた。
日原先輩が走り出した途端、周りの音が一気にクリアになる。こんなにも大勢の生徒がいて、俺の声なんか俺のことなんか見えてないと思うから、今は俺が見ててあげます。だって、あんたがそうしてほしいって言ったんだろ。
前のクラスを追い抜いて、バトンが渡された。四位から三位。ひとつ上がった順位にみんなが喜んでいる姿を日原先輩は満足そうに見てから、後半の列にまた並んでいった。
俺が走るのはまだ先なのに、こっちの方がよっぽど緊張する。あと少し一歩前まで出かけているのに縮んでは離れての繰り返し。頑張れ。どの団もどのクラスも願っていることは同じで、それぞれがそれぞれなりの応援でグラウンドを沸かせている。
最終局面、いよいよ大詰め。アンカーまで残りあとひとりのところで日原先輩の番が再びやってきた。グラウンドのボルテージは最高潮。バトンが渡され、前を走ってる野球部の先輩との距離が徐々に縮まっていく。
日原先輩。あんたの勝手に境界線を飛び越えてくる突拍子もないところも、かっこ悪いところを見せたくないと思っているところも、だけどちゃんと曝け出してくれたところも。
俺にだから。話してくれた事実が、何よりも嬉しかったんですよ。一番。
――日原先輩
喉元で支えていた声が微かに出ていたんだと気づいたとき、既にバトンはアンカーの霧島先輩の元へ渡っていた。大きく息を吐いた日原先輩がゆっくりと振り返る。
目が合った、のかはわからなかった。ただいつも馬鹿みたいに大きな声で俺を呼んでくるから。快くん。その口の動きで、俺の声も届いたのかもって。勘違いしそうになるほどの眩しい笑顔だった。青い春。絵に描いたらきっとこんな色なんだろうな、と思った。
「――一位、黄団、三年八組!」
スピーカーの音が、割れてしまうんじゃないかって、今日一番の大歓声がグラウンドに響く。いつもは大人びた先輩達が無邪気な顔で笑っている。
「先輩達すげえな、優勝じゃん!」
「競ってたけど、やっぱ最後で抜いてくれたんだな。月宮、お前も見て――」
「……ああ、見てた、ちゃんと見てたよ」
もう見える姿はほとんど後ろ姿だけど、祝福の声は鳴り止まない。退場の合図で三年生が立ち上がってはけて、そして次の競技へとアナウンスが流れる。
「月宮行けそう? 一年終わったら次俺らだよ」
「大丈夫。……緊張はしてるけど」
「ふたりとも俺の分まで頑張ってこいよ!」
サッカー、野球、バスケ、陸上、それ以外の運動部でも構成された各クラスの面子に慄きつつ、さっきまでの高揚感をどうにか持続させ歩き出す。木崎を始めとしたクラスの代表メンバーと共に入場口へ向かう途中、日原先輩のクラスを横切ると、待ってましたと言わんばかりの大きさで届く「頑張って」の声。恥ずかしげもなく一直線に。あんたの方がよっぽど、羨ましいぐらい真っ直ぐだった。
恥ずかしさを隠しながら軽く会釈をし、すぐ木崎達の会話に混じる。今度は一年生の代表リレーが始まって、初々しさがまだ残る応援が校庭を彩っていた。
ポケットに入れたままの飴の包装紙。あの日貰ったレモンの飴を食べれたのは今日の朝だった。食べるのを忘れていたとかそうじゃなく、ただの願掛けというか。食べたからっていって急に足が速くなるわけでもないのはわかってる。俺がそうしたかったんだ。俺のために。
「――次は、二年生の代表リレーです」
校庭の中心に集まって、男女共に各クラス最終調整を行う。女子のリレーが目の前で繰り広げられる中、刻一刻と迫る出番に心臓の音が破裂しそうだった。
みんなよく頑張った。先生達の賛辞の声が聞こえてすぐ第一走者の木崎が「いってくるわ」と俺たちに声をかける。
空砲の大きな破裂音が、晴れ渡る大空に駆け抜けていった。
観客席に座っていたから、さっきまであんなに近いと思っていた歓声がやけに遠くて、だけどそんなのも一瞬だった。スタートダッシュとバトンパスに成功した木崎が帰ってきて、第二走者のバスケ部の田代に声をかけ後を押す。
「ははっ、めっちゃ緊張した、やべえなこれ! 期待してんぞ。田代と草壁も相当気合い入ってんだから」
バンッ、と木崎に背中を叩かれレーンに向かう。あと数十秒後に戻ってくる俺はいったい、どんな表情をしているんだろう。反対側のレーンでは次々と第二走者が第三走者にバトンを繋げ、いよいよアンカー戦の準備が整ってきた。
「月宮!」
テイクオーバーゾーンのちょうど真ん中辺りで草壁からバトンを受け取って走り出す。三人のお陰で一位のクラスとほぼ大差ない距離に周囲の歓声が大きくなっていく。こんな大事な局面なのに、本当に俺で良かったんだろうか。何に対してって言われると全部って答えたくなるけど、クラスのみんなとか――日原先輩とかは。
走って、走って、距離を縮める。喉が張り裂けてしまいそうなぐらい熱くて、でもそれがどこか心地良かった。ゴールテープまであと五十メートル。ねえ、俺っていまかっこいいですか。
最後のカーブを曲がり、あとは真っ直ぐ一直線。バトンを握りしめる力が強くなる。もう一歩、あと一歩。足を踏み出して、肩で風を切っていく。これでもかってほど深く吸い込んだ空気を体内から一気に出して、瞬間的に加速する。
すみません、日原先輩。今だけはあんたの大きい声に感謝してます。「頑張れ」って、こんなに広い空の下でもしっかり聞こえるんですね。こういう大事なときに思い出すのは、全部あんたの顔だから。
ゴールテープが視界から消えて、大歓声が鳴り響く。足がゆっくり速度を落としながら、空を見上げたら太陽がうるさいぐらい輝いていた。
「……只今結果の確認ができました。――……一位、黄団、二年一組!」
無意識に探してたんだろう。視界の先には屈託のない顔で笑う日原先輩がいた。その表情に俺もつられて笑って、恋が始まるときってこんな風に愛おしさが溢れていくのかもしれない。なんて、俺らしくないことを思った。
