優しくて暖かくて、でもそれでいてまだ少し遠いような声。次の日も、その次の日も日原先輩が俺を呼ぶ声は、いつになく優しかった。
決して不満というわけではない。それなのに俺の大事な部分は宙に浮いたまま。
俺たちって今どこにいるんだろう。どこっていうのは場所ではなくて、もっと根本的な関係に値するものとして。
「月宮ですか? こいつ代表リレーのアンカーですよ!」
今週末の体育祭を控えた最後の学年練習。昼休みもあと十分で終わりを迎えそうなとき、昇降口に響き渡った金子の余計なひと言。
「か、っ……金子!」
慌てて静止するも、時すでに遅く、能天気な金子の発言に焦る俺を見て木崎が笑いを堪えている。元はといえばお前のポジション俺が変わったんだぞ。金子だって学年リレー二周するじゃねえか。そんな言い訳を考えながら、取り繕うとするが、日原先輩はまるで弱みでも握ったかのようにニヤついた顔で俺を見つめてくる。
「……まじで今からお前らどっちか変われよ」
「俺、スタートダッシュ決めるからパス」
「俺も学年リレー二周走るから代表選抜外。てか最終周二百メートルだしクラスん中じゃ月宮が一番早いし!」
それを言われればごもっともな意見だけど、どうしてもバレたくなかったんだよ。だって日原先輩が知ったら――
「――快くんそんなこと一回も話題に出さなかったじゃん!」
必然的にこうなるに決まってる。自販機に飲み物を買いに来たという日原先輩は、いつも一緒にいる友人の霧島先輩と風間先輩の肩を組みながら前のめりで俺に聞いてくる始末。日原先輩の笑顔の裏に隠された真実、これは絶対揶揄いがいがあるネタを掴んだ、そういう顔だ。
「……日原先輩もどうせなんか目立つことすんでしょ」
「俺? 特には……あ、金子くんと一緒で学年リレー二回走るわ!」
「日原が走る姿二回見たいとか女子に言われて決まったやつだろ」
「霧島なんて最後まで日原を代表に持ってこいって抗議したのになー」
チャイムが鳴ると同時に学年練習が始まるから、と鬼の体育教師陣に活を入れられ、俺たち二年がぞろぞろと昇降口を通っていく。サッカー部副キャプテンの霧島先輩、バスケ部エースの風間先輩、そしてあの日原先輩が集えば自然とみんなの視線は向くわけで。端へ身を潜めようとするも、日原先輩がご自慢の長い脚を俺の元へ伸ばしてちょっかいをかけてくる。小学生かよ。お返しに平手で叩くと「酷い!」なんて可愛子ぶるし、あんた身長百八十近くあるんだって自覚がないだろ。
日原先輩が女子の集団と目が合ったらしく、手を振った。きゃあきゃあと湧く黄色い声。少しの苛立ちを抑え、再び足元の攻防戦を続ける。
「せっかくの情報提供者にはちゃんとご褒美あげないとね。はい。バニラとチョコのクッキー」
「よっしゃ! 木崎、俺バニラがいい!」
「日原先輩、ありがとうございます」
「快くんにはー……どうしようかな、二限の終わりにりんごのあげちゃったしー……」
「……別にいいですよ。しかもさっき食ったばっかなんで」
スラックスのポケットをごそごそと探す日原先輩を前に、残り少なくなった休み時間の焦りと素直になりきれない心を隠しながら外の様子を伺った。
「うわ、」
少し遠くから威勢のいい声が響き渡った。複数の担任達が昇降口に向かってくる。もうすぐ予鈴が鳴るのを察した俺は金子と木崎に合図を送り、後ろを振り向かせた。どうやらふたりもただならぬ雰囲気を察したようで、同じような反応をし、踵を踏み潰したスニーカーを急いで履き直す。
「先輩達、ありがとうございました。また月宮の情報あったら伝えますね。主に金子が」
「木崎!? 俺に全責任なすりつけようとすんのやめて!」
「やべ、クマ先までこっちきてんじゃん。さっさと行かねえと本気で怒鳴られるぞこれ。あと金子は絶対追いかけてやるからな」
俺たちと同じく二年の生徒達が足早にグラウンドへ向かっていく。急げ急げ、そんな声があらゆる方向から飛んできた。そろそろ本気で怒号が飛んできそうな気がして、先輩達に軽く会釈をしながら慌てて駆け出そうとした。瞬間、
「――快くん!」
背後から届く真っ直ぐな声。反射的に振り向いて、日原先輩と目が合った。それからコンマ数秒、俺の目の前に小さな星が放物線を描いてやってくる。
「……飴、?」
「二限の終わりとは別もんだから。本番も俺にかっこいいところ見せてよ、アンカー様」
言って、俺に笑っていたずらっぽく手振った。黄色い包み紙に込められた意味。それが充分すぎる意味だって。今日の俺にはちゃんと――
「……わかってますよ!」
