日原先輩と月宮くんは飴と無知でできている



 ――「日原先輩のことが大好きです、付き合ってください!」
 人気のない部室棟に、自分のものとはかけ離れた高さの声が響いている。
 ついさっきまで真上にあったはずの太陽は既に傾いて、頬を撫でる空気が柔らかい。オレンジと真っ黒になりきれない影が重なって、境界線が曖昧になっていた。
 月宮快(つきみやかい)、十六歳。四月某日、只今青春真っ盛りです、とでも言えたら良かったのだろうか。現実はそう上手くはいかなくて、むしろ今の状況をひとことで伝えるならば〝大ピンチ〟が相応しい。
 スマホを忘れただけで、どうしてこんなことに?
 確か今朝のニュースで似たような話を見た気がするけど、あれは〝見つかったのが地球の反対側でした〟なんて誰もが救い用のない規模だったし。それに比べたら、まだ俺はひとりでも解決できそうかも、なんて思ってみたがいくら状況を確認しても難易度は高いままだ。
 現場はおそらくここから数メートル。気をそらそうともふたりの話す声が届き、目にならぬ耳に毒だ。時間かかりそうだよな。心の中で大きなため息を吐き、ゆっくりとしゃがみ込む。
 どう表現したらいいんだろう。ありとあらゆる作戦を組み立てるもゴールに届かない。俺よりも一学年上の、この学校では誰もが知っているはずの先輩――日原晴(ひはらはる)の告白現場に遭遇してしまうなんて、運が悪いにもほどがある。
 ムカつくぐらい整った甘い顔立ちにモデルさながらのスタイル。入学してから付き合った女子は両手には収まらず、誰も一番になれない生粋の遊び人。容姿だけではなく頭もよく常に学年トップだとか、部活には入らず自由気ままに過ごしているが、運動もできるんだとか。噂話に興味のない俺ですら、度々話題が耳に入ってくる。それぐらい学内では有名な人。
 ふたつの影が重なり合って伸びている。息を潜め、曲がり角から再び様子を伺った。もしかして言い争いが始まったのか。眉間の辺りに力が入り、皺が寄った自分の顔が容易に思い浮かぶ。
 ――「俺、きみを好きになることはないと思うんだけどそれでもいい?」
 前言撤回しよう。噂話はほぼ百パーセントの確率で合っていると言えそうだ。俺の人を信じる清らかな気持ちを、今すぐ返してほしい。
 微かに相手であろう女子のか細い声が聞こえてくるも、日原先輩の態度は変わらない。それでもまだ自分に可能性があるのでは、という健気な訴えを真正面から遮断している。何というか、噂以上に割り切ってる人なんだなあ、という印象がものの一瞬でついてしまう。
 俗にいう修羅場ってやつが繰り広げられ、暫くして、走る去る音が遠ざかっていった。ああ、ようやく終わった。朝練、授業、放課後の部活。今日一日分の疲れと待ちぼうけている気だるさがどっと押し寄せて欠伸がひとつ出た。あのふたりが一件落着とはいかなさそうだが、俺としてはこの気まずさから解放されるので万々歳だ。さっきまで一歩踏み出すのを躊躇していたものの、もう関係ない。何も聞いてませんよ、といった風に出ていけば大丈夫なはず。
 視線を開けた道の先に向ける。目的地は一階、正面から見て右から三番目、サッカー部の部室。あそこに俺の取りに行かねばならないものが待っている。見慣れた通路に少し戸惑っている自分が、初めてダンジョンに迷い込んだ主人公のような気分だった。
 よし、と空気を吸い込んで立ち上がる。一歩一歩、進む足取りのペースは順調だ。これでようやく帰れるぞ――と、思っていたのに。現実は非情である。
「ねえ、きみ、聞いてたでしょ?」
 どうしてあんたが。急に俺の前に出てきたのは本日の主役、もとい、今一番回避しなければいけない人物だった。
 小さな希望は呆気なく打ち砕かれ、指の隙間からさらさらと砂のようにこぼれ落ちる感覚が全身を凌駕する。
「いや、たまたま通り掛かろうとしただけで……」
「それにしては気難しそうな顔してない?」
 へらりと笑いこちらへ距離を詰めてくる姿に思わず後退りしそうになるも、冷静に考えて俺が悪い点って無いよな、と頭に疑問符が浮かび上がる。しかし、口調は軽いが息を呑むほどの存在感と日原先輩独特の雰囲気に飲み込まれてしまいそうで、鼓動がやけに騒がしくなってきた。
「すみません、元々目つきはあんま良くないって言われるタイプなんで」
「……へえ」
 夕焼けの色が日原先輩の髪にかかり、淡い光を生み出している。色素が薄いのか、角度によっては校則の規定よりも随分と明るく見え、眩しさと物珍しさに目を細めた。
「そんなに見つめられると照れるんだけど」
「えっ、全然そういうわけじゃないです」
 その言葉に、はっと我に返った。視線を逸らし俯くと、日原先輩の笑う声が聞こえてくる。状況がうまく掴めなくなって、とりあえずもう一回謝ればいいだろうと謝罪の台詞を口にした。
「謝られると俺が悪いことしてるみたいじゃん。ていうかなんできみはここにいたの?」
「……部室に、忘れ物しました」
「ああ、なるほどね。だからあんなの見て隠れてたと」
「あんなのって……まあ出てっても明らか気まずいし、めんどくさいことに巻き込まれるのも嫌だなあって思いましたけど」
「うわ、結構ストレート。でも確かにちょっと言い合いっぽくなってたししょうがないか」
 あはは、と作り笑いを返すと日原先輩が「ごめんね」と俺に告げる。別に俺も謝ってほしかったわけではなかったので、薄らと妙な空気が流れ出す。
「……別に言いふらしたりしませんよ。ああいう噂回るのって気分良くないですし」
「なに? きみも経験者?」
「経験ってほどまでじゃ……」
 俺はあんたの敵じゃないです。だからそろそろこの場を離れてもいいですか。そんな意味を込めて試行錯誤した言葉を紡ぐ。それが功を制したのか、日原先輩は少し驚いた表情をしたあとに、今度は屈託のない笑みを俺に向けてきた。
「きみ、名前は?」
「名前?」
「うん、名前。俺は三年の日原晴。はるは、天気が晴れているの晴ね」
「月宮快、です。二年でサッカー部の」
「かい? 漢字はどうやって書くの?」
「天気が……晴れたときに使う、快です」
「そっか。快……快くん! まあこれも何かの縁ってことではい、俺からのプレゼント」
 唐突な自己紹介が始まって、勝手に納得したかと思えば、スラックスのポケットから取り出したものを俺の目の前に差し出してくる。怒涛の展開についていけない俺は、日原先輩の顔と手のひらを交互に見て首を傾げた。
「飴?」
「美味しいよ、この飴。俺、レモン味一番好きなんだよね」
「……一番好きな味、俺にあげてもいいんですか」
「快くんだからあげるんだよ。じゃあまたね」
 小さな包み紙の正体は、どこにでも売ってる飴のレモン味。嵐のように去っていった日原先輩の背中を見つめることしかできなくて。俺だから、ってどういうことだ。
 さっきまで一線を引き接していた人と、本当に同一人物なんだろうか。理解し難い温度差に、心臓が騒がしくなって、喉の奥に言いようのない乾きが込み上げる。
 ひとり残された部室棟で、気づけば衝動的にその飴を口に放り込んでいた。
 弾けるような酸味と、あとからくる胸を打つほどの甘さ。
 
 でもそれが、日原先輩と俺を繋ぐ特別な味になるなんて、このときの俺はまだ知るよしもなかった。