神戸北野 まどろみ異人館の魔法使い 〜猫とお菓子と、やさしい魔法〜

 
 数週間滞在した梅雨前線は、七月の半ばに差し掛かったところでようやく姿を消した。
 神戸の山側ではセミが鳴き、本格的な夏の到来を告げる。

 日に日に眩しさを増していく太陽の下、まどろみの館は今日も営業中だ。

 一階の拝観スペースでは、煌びやかな調度品を目にした観光客たちがささやかな歓声を上げる。
 それらを耳にしながら、私はいつものメイド服姿で見回りを続けていた。

 館内の中央付近まで来たところで、階段の横に設置されている電話が鳴った。
 すぐさま受話器を持ち上げると、スピーカーの向こうからは聞き慣れた渋い声が届く。

「やあ絵馬ちゃん。ちょっとトイレに行きたくなったんだが、チケットブースを見ててもらえるかな?」

 白髭のおじいさんからの内線電話だった。彼は今日もチケットブースでもぎりをしている。

「もちろんです。すぐに行きます!」

 通話を終えると、私は玄関まで急いだ。扉を開けて外に出ると、イングリッシュガーデン風の前庭が視界に広がる。
 紫陽花(あじさい)の仲間であるピンクアナベルや、赤やオレンジの薔薇(ばら)の花が青々とした緑に映える。

 それらを毎日剪定して景観美を守ってくれているのは、もちろんコハクだ。
 彼は敷地の隅で相変わらず無表情のまま、黙々と手を動かしている。

「コハク。たまには休憩してね。今日は暑いし、こまめに水分を摂らないと倒れちゃうから」

「別にこれくらいどうってことない」

 ぶっきらぼうに応える彼に、私は負けじと食い下がる。

「そうやって油断してると、急に眩暈に襲われたりすることもあるんだよ。お願いだから休憩をとってね」

 ここ数日で、気温が急上昇した体感があった。
 コハクは猫だし身体能力も高いのでそれほど心配する必要はないのかもしれないけれど、それでも油断は禁物だ。

「はぁ……。わかったよ。ほんと心配性だよな、あんた」

 諦めの悪い私に、彼の方が折れてくれた。
 ちょっと強引なことをしちゃったかなと後悔したけれど、すれ違う際に見えた彼の肌には幾筋もの汗が流れていた。顔も少し火照っているし、やっぱり休憩してもらって正解だったと思う。

 彼の背中が館内に消えていくのを見送ってから、私は改めてチケットブースへ向かった。
 その途中、花の蜜の香りに誘われて一羽の蝶がやってきた。黄色と黒の羽が特徴的なそれは、アゲハチョウだ。

「あら、かわいい」

 蝶は鮮やかな紫のラベンダーに止まった。
 それを見計らっていたかのように、草の陰から急に黒い物体が飛び出してきた。

「にゃにゃんっ!」

 威勢の良い声とともに現れたのは黒猫だった。ふわふわの前足を精一杯伸ばし、蝶を捕まえようとしたものの、残念ながらその肉球が羽に届くことはなかった。

「ふなぁーん……」

 飛んで逃げていくアゲハチョウを、黒猫は恨めしそうに見上げていた。
 その小さな背中へ、私は思わず笑いかける。

「ふふ、残念だったねクロ。それよりお仕事はどうしたの?」

 黒猫——クロはちらりと私の顔を見ると、「なぁん」と愛らしい声で鳴いて、また草の陰に戻っていく。

 彼女には二階の掃除を任せていたはずだけれど、またサボっているらしい。今に始まったことではないので、私はもう慣れっこだった。

 クロはいつだってマイペースだ。
 それに欲に忠実で、こうして問題行動を起こすことも少なくない。

 一見短所でもあるそれは、しかし見方を変えれば彼女の長所でもある。
 常に自分の気持ちに嘘を吐かないというのは、今まで私が思っていたよりもずっと大事な感情のはずだから。

「おーい、絵馬ちゃん。そろそろ交代を頼めるかな?」

 チケットブースの方から、待ちくたびれたおじいさんの声が届いた。
 私はすぐに返事をして、彼の仕事を引き受ける。

(おじいさんが戻ってきたら、厨房の方も覗いてみようかな)

 昼食の用意をするにはまだ早い。
 けれど、今のうちに見ておきたいものがあった。

 いつも《《彼女》》が使っていたその場所で、今は新しい風が吹いているのだ。