神戸北野 まどろみ異人館の魔法使い

 
          ◯


 夜明けとともに雨雲は去り、山の東側から久方ぶりの太陽が顔を出す。
 ルナさんがいなくなってから、二度目の朝を迎えた。

 いつものように朝一で厨房に向かうと、そこにはルナさんの代わりに別の先客がいた。

「やあ。おはよう、絵馬」

 穏やかな男性の声に出迎えられて、私は目を瞬く。

「えっ。オーナー……? どうしてここに」

 そう尋ねたのと同時に、ふわりとベーコンの焼ける匂いが鼻先をくすぐった。
 見ると、彼の手元ではフライパンがじゅうじゅうと煙を立てている。

「たまには僕も料理をしようと思ってね。久しぶりだから、味の保証はできないけど」

 どうやら私とルナさんの代わりに、彼が朝食を用意してくれているらしい。

「えっ……い、いえ。ご飯の用意なら私がやります!」

「絵馬は今日は休みだろう? 気にせずゆっくりしててよ」

 確かに、今日は私のオフの日。
 ついでに言うと、この館自体も月に一度の休館日だ。

 しかしだからといって、食事の支度をオーナーに任せて自分はゆっくりするなんて気にはなれない。
 今まではルナさんに甘えていた部分もあったけれど、その彼女も今はここにいないのだから。

 なんとかオーナーを説得して、とりあえずサラダの用意だけは私が担当することになった。
 きゅうりと玉ねぎとレタス、それからトマトを順番に包丁でカットしていく。

 厨房の窓から見える空は、昨日の雨が嘘みたいに晴れ渡っていた。清々しいくらいの快晴で、昨日の出来事も全部嘘だったんじゃないかと思ってしまう。

(ルナさん、大丈夫かな)

 今ごろ彼女はどこでどうしているのだろう。
 雨に濡れて、体を冷やしたりしていないだろうか。
 猫の姿で、危険な目に遭っていたりしないだろうか。

 そんなことばかり考えているうちに、左手の人差し指に鋭い痛みが走った。

()ッ……」

 思わず声が漏れてれしまった。
 すぐさま視線を手元に下ろすと、指先に薄く赤い線が入っていた。どうやら切ってしまったらしい。

「大丈夫!?」

 私の異変に気づいて、オーナーがこちらに駆け寄ってくる。

「あっ……すみません。指先をちょっと切っただけです。なんだかボーッとしちゃって」

 あはは、と誤魔化すように私が笑っても、オーナーは真面目な顔を崩さなかった。そのまま私の負傷した方の手にそっと触れ、両手で包み込むようにして私の指を眺める。

「血が出てるね。痛そうだ」

 彼はしばらくそうしていた。
 こんな風に彼に手を握られるのは、これが初めてじゃない。

 以前もこうして彼が私を心配していた時、彼は私のために魔法を使った。
 まさか今回も? ——と、不穏な予感が頭を過ぎる。