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その夜はなかなか寝付けなかった。
ベッドで横になって目を瞑っていても、脳がずっと今日一日のことを振り返って忙しなく動いている。
昨夜、この部屋の窓から見下ろした先にはロシアンブルーの猫がいた。あれはやっぱりルナさんだったのだろうか。
だとすれば、私が最後に見た彼女は猫の姿をしていた。おそらくはそのまま敷地を出て行方を眩ましたのだろう。
わざわざ人間の姿で出ていかなかったのは、猫の方が身を隠しやすいからなのか。
それとも、体が弱っているせいで人間に変身できなかったのだろうか。
どちらにしても心配事は尽きなかった。
彼女は無事なのだろうか。
この神戸の山側ではイノシシなどの野生動物に遭遇することも多いので、下手をすれば襲われる可能性もある。
あるいは夜道で車に轢かれてしまったり……などと考え始めるとキリがなかった。
ただ悩んでいるだけでは何も解決しない。
けれど私には他にどうすることもできなかった。
明日も早起きして朝食の用意をしなければいけないのに、これではロクに眠れないまま朝を迎えてしまう。睡眠不足で仕事に取り掛かれば、きっとくだらないミスをしてしまうだろう。
(お菓子、作ろうかな)
どうせ眠れないのなら、せめて気分転換をした方がいい。
それに甘いお菓子があれば、クロたちの笑顔も増えるかもしれない。
そうと決まれば、と私は早速厨房へと向かった。寝静まった館の階段を降りて、誰もいないその部屋へ足を踏み入れる。
扉を開けて厨房に入った瞬間、シンクの手前にルナさんが立っている幻が見えた。
いつも誰よりも早起きだった彼女は、私の顔を見て「遅いですよ」と朝一から棘を刺してくるのだ。
今まで、彼女は毎日ここにいた。
ここに来れば、毎朝必ず彼女と顔を合わせた。
周囲を見渡すと、壁に掛けられた調理器具はどれもルナさんが愛用していたものばかりだった。きっと長年使い込んでいるはずなのに、どれも手入れされていて古さを感じない。
この部屋には、ルナさんの存在が染み込んでいる。
それを改めて認識した途端、必死に堪えていたものが溢れそうになった。
やっぱり、この場所もだめだ。
お菓子づくりは諦めて引き返そう——と後ろを振り返った時、ふと視界の端に白いものが映った。
壁際の、調味料が入った瓶の裏に何かが挟まれている。昼間は気づかなかったけれど、メモ用紙を折り畳んだような小さな紙がそこにあった。
なんだろう、と私はそれを手に取って広げてみる。
するとそこには、見覚えのある綺麗な字でメッセージが書かれていた。
『オーナーのことをよろしくお願いします』
短くて淡白な、ルナさんらしい手紙だった。
このたった十数文字の中に、彼女の強い思いが凝縮されている気がした。
彼女は最後まで自分のことではなく、オーナーや私たちのことを考えていたのだ。
自分はここから居なくなるというのに、自分が消えた後のことばかり考えていた。
紙を持つ手が勝手に震えて、これ以上この部屋にはいられないと思った。
せめて外の空気を吸いに行こうと、私は庭に続くテラスへと向かった。



