その日は明け方から雨が降っていた。
小粒ではあるが長時間降り続けるそれは、北野異人館街全体を余すところなく濡らしていく。
ただでさえ歩きにくい急勾配の坂は滑りやすくなり、拝観に訪れる観光客の数は目に見えて少なかった。
にもかかわらず、私は普段以上に仕事に追われていた。
いつも一緒に食事を作っていたルナさんの姿が、どこにも見当たらなかったからだ。
「リーダーってば、どこに行っちゃったんだろうね。一人で美味しいお菓子でも買いに行ったのかなぁ?」
私が昼食を乗せたトレーをクロの部屋に届けに行くと、ちょうど休憩にやってきた彼女は呑気にそんなことを呟いていた。
彼女の言うように、ただの買い物ならいいけど——と、トレーを握る手に勝手に力が入る。
あれだけ責任感の強いルナさんが、何も言わずにいなくなるなんて不自然だ。
オーナーも、彼女が行き先も告げずに外出するなんてことは今まで一度もなかったと言っていた。
彼女の身に何かあったのか、あるいは彼女が自らの意思でここを出て行ったとしか考えられない。
胸騒ぎがした。
と同時に、昨夜のことが何度も頭を過ぎった。
昨日の就寝前。自室の窓から外を見下ろした時、前庭の真ん中には一匹の猫の姿があった。
青みがかった暗い色の体毛を持つ、おそらくはロシアンブルーの猫。
か細い鳴き声を残して敷地を出ていったその子は、ルナさんだったのではないだろうか。
しかし、たとえそうだったとしても、なぜ彼女がこの館を去ったのか理由がわからない。
コハクも、おじいさんも、ルナさんからは何も聞いていないと言って首を傾げるばかりだった。
落ち着かないまま、ただただ目の前の仕事を私は消化していった。
時間が経てば、そのうちルナさんもふらりと帰ってくるかもしれない。そんな幻想を抱きながら、気づけば時計の針は閉館時刻である午後五時を指していた。
そろそろ夕食の用意を始めなければいけない。
そんな時間になっても、ルナさんが帰ってくる気配は一切なかった。
さすがに心配だということで、オーナーは「ちょっと外を捜してくる」と腰を上げた。
すかさず私も一緒に行きたいと申し出たものの、私にはできれば家のことをお願いしたいと言われてしまった。
「じゃあ、あたしが一緒に行く! リーダーがどこに遊びに行ったのか気になるし!」
クロはまるで遠足にでも行く時のようにうきうきとしている。
その場の空気に似つかわしくない反応ではあったものの、彼女の明るさのおかげで、私の心はいくらか救われていた。
不安に襲われてつい悪い想像ばかりしていると、息が詰まりそうだったから。



