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四月も終わりに近づきゴールデンウィークに入ると、異人館を訪れる観光客が増加し、繁忙期が始まった。
それまで二階や厨房での家事を担っていた私も、自然と一階の拝観スペースでの仕事を任されるようになった。
猫たちと、オーナーを含めたみんなで手分けして館を切り盛りしていく。そのうちに、ルナさんから注意を受ける数もいつのまにか減っていった。
五月に入り、今日も慌ただしく営業時間を終えると、オーナーは玄関扉を施錠してから全員を振り返って言った。
「みんな、今日もお疲れ様。よかったらこの後、北野坂のインフィオラータを見に行かないか?」
インフィオラータというのはイタリア発祥の伝統行事で、道路や広場などに色とりどりの花びらを敷き詰め、大きな絵を描くアートのことだ。
神戸では阪神淡路大震災からの復興を願って、震災の二年後から毎年行われている。
ここ北野では三宮方面に続く坂道・北野坂でゴールデンウィーク中に毎年開催されていた。
私とクロとおじいさんは即賛成、コハクも「別に構わない」とのことで、最後にルナさんも「まあ、いいでしょう」と渋々了承した。
「その代わり、夕食の用意は遅くなりますよ。あるいはどこかで買って帰るか、外食にしますか?」
「えっ、外食? わーい! あたし行きたい行きたい!」
そんなクロとルナさんとのやり取りの結果、その日は外での食事を前提にみんなで出掛けることになった。
夕暮れの中、館を出て五分ほど歩くと、長い下り坂の途中に人が集まっているのが見えた。
普段は車が往来するそこは、期間中だけ歩行者天国になっている。
道路脇の街路樹に施されたイルミネーションに照らされながら、道の真ん中には大きな絵が飾られていた。
赤や黄色、桃色に紫など、様々な色の花びらを敷き詰めてイラストが描かれている。神戸のご当地キャラクターやポートタワー、異人館の中でも特に有名な風見鶏の館など。
「すごいすごい! オーナー、あっちも見に行こうよ!」
「あっ。クロ、そんなに引っ張らないでってば」
クロにぐいぐいと腕を引かれて、オーナーも人の群れに入っていく。
「ははは。あんまり走ると転ぶぞ、二人とも」
おじいさんが笑って後を追い、少し遅れてコハクもついていく。
私もその後に続こうとして、背後からルナさんに引き止められた。
「叶さん」
振り向くと、彼女は姿勢の良い体を私の方にまっすぐ向けて、どこか改まったように言った。
「あなたが私たちのもとへ来てから、あきらかにオーナーの笑顔が増えました」
予想外の彼女の言葉に、私は一瞬理解が追いつかなかった。
オーナーの笑顔が増えた。
本当に? と、つい疑り深くなってしまう。
「そ、そうですか? でもオーナーは、元からいつも微笑んでるイメージがありますが」
「あなたの前では、屈託なく笑うんです。愛想笑いではない、心から楽しんでいる顔です。……私の前では、彼は無理をして笑っていることが多いのです」
そこで初めて、ルナさんはどこか寂しそうに目を伏せた。
「叶さんがこれからもここにいて、オーナーを隣で支えてくださるのなら、オーナーはいつか本当の意味で幸せになれるのかもしれません」
「……それって」
もしかして、私の仕事ぶりを認めてもらえた? ——なんて、つい思い上がりそうになったところで、ルナさんに釘を刺される。
「まあ、仕事の内容についてはまだまだ粗が目立ちますけどね」
「そ、そうですよね」
あはは、と誤魔化すように笑った私に、ルナさんは「でも」とさらに続けた。
「私があなたに教えられることはもう、ほとんどありません」
言い終えるが早いか、彼女はオーナーたちの後を追って人の群れの中に入っていった。
私のそばを通り過ぎる時に見えた横顔は、笑ってはいなかったけれど、どこか憑き物が落ちたような、穏やかで安らかな印象があった。
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その後も忙しい日々が続き、気づけばあっという間に六月がやってきた。
「ふー。今日もいっぱい働いたぁ」
一日の仕事を終えて自室のベッドに潜り込もうとしたところで、ゴロゴロと遠雷が耳を打った。
そういえばもうじき梅雨の時期か、とぼんやり考えながら窓を開けてみると、空には厚い雲がかかり、月は覆い隠されていた。
「なぁーん」
と、どこからともなく猫の鳴き声が響いた。
微風にも掻き消されてしまいそうな、か細い声。
反射的に地上を見下ろすと、緑に囲まれた前庭の真ん中に、小さな毛玉が佇んでいた。
おそらくは猫。だけれど、遠くてよく見えない。
「もしかして、クロ?」
最初は黒猫に見えた。けれど毛色はもう少し明るい。かといって白猫まで明るくない。ましてや茶トラの色でもない。
白と黒の間の、青っぽい色。
もしかしてロシアンブルー? と、思考がそこにたどり着いたところで、猫はくるりと背中を向けて敷地の外へと走り去ってしまった。
風が唸り声を上げ、館の背後の山をざわつかせていた。
その夜を境に、このまどろみの館からルナさんは姿を消したのだった。



