神戸北野 まどろみ異人館の魔法使い

 
「へ?」

 ぽかん、と青年は不思議そうな顔をする。
 服が汚れたところで、きっと彼にとっては取るに足らないことだろう。
 けれど私にとっては一大事だった。

 見るからに高価そうなメイド服。
 それもつい一時間ほど前に借りたばかりのものを早速汚してしまった。

 服の大部分は深緑色をしているけれど、袖口は白いので濡れた部分が目立つ。もしかしたらシミになるかもしれない。

 細かい所にまで目が届くルナさんのことだ。たとえ私が隠そうとしたところで瞬時に見抜かれてしまうだろう。

「お、終わった……」

 もはや希望が見出せず、私はムンクの『叫び』さながらの顔で、その場にがっくりと膝をついた。

「ど、どうしたの?」

「私はもう駄目です……。ルナさんを怒らせて、きっとクビになります」

 私はもはや目の前にいるのが自分の雇用主であることも忘れて、クビを覚悟した。
 せっかく、私を受け入れてくれる職場が見つかったと思ったのに。

「クビになるって、その服を汚したから? 気にしすぎだよ。ルナはそんなことくらいじゃ怒らないよ」

 青年はふわふわと笑って流そうとする。
 できればそうであって欲しいと私も願う。けれど、自分への自信のなさからつい悪い方向にばかり考えてしまう。

「私は……本当に駄目な人間なんです。この一年間、どこの企業の面接に行っても相手にしてもらえなかったんです。だからルナさんもきっと……」

 脳裏では、これまで受けてきた面接の場面がいくつも蘇る。

 緊張で自己紹介も満足にできなくて、面接官たちに笑われた。
 あるいはこちらが話している途中で「もういいです」と遮られた。

 家でいくら練習しても、本番になると声も体も震えてしまう。
 こちらを見つめる面接官たちの目が、獲物を狙う猛獣のように見えてしまう。

 ああ、どうして私はこんななのだろう。
 惨めで情けなくて、鼻の奥がツンとして、勝手に涙があふれてくる。

「……泣いてるの?」

 青年の顔から、また笑みが消えた。
 私は慌てて目元を拭う。いい大人が仕事場で泣くなんて、それこそ情けない。

「すみません。不甲斐ないところをお見せしました。それから……お心遣い、ありがとうございます。まだ掃除の仕事が残っていますので、戻りますね」

 とりあえず、与えられた仕事だけでも完遂しなければ。
 そのまま部屋を出ようとすると、青年は「待って」と私の腕を掴む。

「この袖の汚れさえ消せばいいんだね?」

「え?」

 消す、という言葉の意味がよくわからなくて、私は首を傾げた。

「大丈夫。心配ないよ。だから泣かないで」

 そう囁いて、彼はその両手で私の手首を優しく包み込んだ。
 それから彼は瞳を閉じて、まるで祈りを捧げるようにして頭を垂れる。

 沈黙が、部屋に落ちる。
 窓から入ってくる風が、カーテンレースをやんわりと揺らす。

「あの……?」

 彼に触れられている手首が、ほんのりと熱を帯びる。
 お互いの距離も近くて、なんとなく気恥ずかしい——そんなむず痒さを感じていると、不意に彼の手元に白い光が灯った。

「え?」

 ふわっ、とそこから風が生まれて、私の手首が光に包まれていく。