《今日初めて弟とランチしたんだけど、明日が俺の命日だわ。みんな今までありがとう──》
家に帰り早速スマチャに喜びを投稿し、ふうと息を吐いてベッドに倒れ込む。
まさか成海くんが俺のことを待っててくれるとは微塵も思ってなかったし、おまけに次の約束を匂わせるようなことまで彼の口から聞けるなんて夢のようだ。
午後の授業はどこか上の空で、にやけ面を堪えるのに必死だった。我ながらキモすぎる。
それにしても最近、やけに成海くんが優しい。
今まではどれだけ俺が話しかけてもガン無視を貫いたり、冷たい言葉で一蹴してきたというのに。
何かきっかけがあったのだろうか。
思考を巡らせていると、スマホが通知を知らせた。
《うおお!うまくいったんですね!遠藤氏に運が味方している……》
画面を確認すると、付き合いの長い相互フォロワーの『ワクワクすべり台』ことすべ氏からのリプライだった。すべ氏とはアカウントを作った当初から繋がっていて、相互の中でも特によく会話をしていると思う。
《いやあ、嬉しい反面ちょっと怖いですw何か裏があるんじゃないかとw》
《嬉しいときは思いっきり喜ぶべきですよ!ばちなんか当たりませんから!》
《そうですかねえ……》
《長いこと仲を縮めようと頑張ってきたんですし、いよいよ報われるときなんじゃないですかね》
文字でのやりとりを目で追っていた俺は、すべ氏からきたその言葉を読んで、ぐっと込み上げるものを感じた。
「報われる、か……」
成海くんと少しでも仲を縮めようと思って声掛けをしてきたが、途中からはほとんど自己満足みたいなものだった。
成海くんの中に、少しでも俺の存在を焚きつけたい。何もしなければ本当に忘れられてしまいそうだから、どれだけうざがられても嫌そうな顔をされても、めげずにアピールしてきた。
だからその先に、成海くんと本当の兄弟のように仲良くなれる日が来ようなんていう未来は、ほとんど想像できていない。
いざその階段を上っている途中なのかもしれないと自覚してしまえば、高揚するより先に緊張の方が勝ってしまう。
(そういえば最近、なぴちゃからリプが来ないな……)
気まぐれに俺の相談に乗ってくれる救世主のような存在。一方的に知られているのは気味が悪いけど、今のところ特に被害を受けたりもしていないし……。
「っ、うわっ……、っな、成海くん!」
「うわってなに」
課題を終えて一階に降りると、珍しく成海くんがリビングにいた。
ソファーに座る彼の近くには、スナック菓子やジュースが転がっている。
「びっくりした。だってリビングにいるの珍しいし……何してるの?」
「別に、たまには大画面でテレビ観たくなっただけ」
そう言う彼の正面にあるテレビには、何かのアニメの映像が映っている。
そんなことを言うなんて珍しい。
いつもは頑なに部屋から出てこないのに。
(もしかしてこれって、チャンス?)
三人掛けのソファーの真ん中を堂々と陣取る成海くんの周りをうろうろと歩きながらタイミングを窺っていると、さすがに鬱陶しかったのか呆れ混じりの視線を向けられた。
「ガチうざい。言いたいことあんなら言えば」
「……隣座ってもいい?」
おずおずと問い掛ければ、小さな舌打ちの後、ぶっきらぼうに返事が返ってきた。
「勝手にどーぞ」
わざわざ横にずれてくれたのが嬉しくて、俺は喜びを隠そうともせずに空いた場所に腰を下ろした。
真ん中に一人分空いた席。今の俺達にはこの距離がちょうどいい。
「アニメ?」
「そー。友達に薦められたやつ」
「あ、もしかして『ブラホワ』? 俺も気になってたんだよね。原作途中まで読んでてさ──」
まさか成海くんとこうして隣に並んで二人でアニメを鑑賞する日が来ようとは。
やっぱり最近の成海くんはどこか変だ。
俺にこんなことまで許してくれるなんて、このまま俺が調子に乗ってしまったら、一体どうしてくれるんだ。
「はあ、クソうざい。アニメを観なよ。俺のことばっか見すぎ」
「えっ……バレてたの?」
「隣でガン見されてたらさすがに気付くって。沙也ちゃんって頭良いくせに、変なとこ抜けてるよな」
指摘されて初めて気が付いて、ばつが悪いような気持ちになった。
成海くんが隣にいると思うとどうしても頭がふわふわして、何にも集中できなくなってしまう。
アニメを観終わると、成海くんはそのままスマホを触り始めた。ちらっと見えた画面に映っていたのは、おそらくメッセージアプリだろう。
誰と会話してるんだろう。昼間一緒にいたあの男の子だろうか。
少し考えてから、ねえ、と声を掛けてみた。
「今日教室で金髪の子と楽しそうに話してたじゃん。成海くんって、普段はあの子と一緒に行動してるの?」
「あー……拓実? そうだけど何?」
「いや、結構派手な子だし意外だなって」
昔から大人しいというか、やけに落ち着き払っていた成海くんは、同じように物静かな真面目そうな子と一緒にいることが多かった。
だから昼間見かけた金髪の彼を見て、今までの友達と系統が変わったな、と驚いたのだ。
「アイツあんな見た目だけど、中身はただのやる気なし男だよ。気使わないで済むし一緒にいてクソ楽」
「へえ、そうなんだ」
「ちょっと絡みだるいときもあるけど、基本俺と同じ省エネだから」
友人のことを話す成海くんはどこか楽しそうで、それを聞いて何故か胸がモヤモヤした。
俺にもそんな風に笑ってくれたらいいのに。
きっと成海くんの友達は、俺の知らない成海くんのことをたくさん知っているのだろう。羨ましいなと率直に思った。
「気になる?」
気付けば成海くんの視線がこちらを向いていた。
胸の内を見透かされたようでドキッとしてしまう。ほんの少しの後ろめたさを隠すように、首の後ろを掻いた。
「そりゃ気になるし、知りたいよ。兄なのに、成海くんについて知らないことばっかだし」
「知ってどうすんの」
「どうもしないかな。成海くんだって面白いと思ったゲームを攻略したいと思うでしょ。俺だって大切な人のことは全部知りたいって、それだけだよ」
そう言うと、琥珀色の瞳が僅かに見開かれる。
大切だからこそ知りたいし、全部覚えておきたい。交わした会話や何気ない時間でさえ全部、俺にとっては宝物に変わっていく。
しばらく黙り込んでいた成海くんは、そういえば、と急に口を開いた。
「最近部屋のディフューザーを変えたんだ」
「え? ……ああ、もしかしてあのフルーツみたいな匂いの?」
以前初めて成海くんの部屋に入った時に、オレンジのような甘酸っぱい香りが鼻を掠めたのを鮮明に覚えている。
「そう。前まではムスクだったんだけど、飽きたから柑橘系にしてみた。好きなんだよね結構」
「いい匂いだよね。成海くんに似合ってるなって思ったよ」
話の本質が掴めない。とりあえず会話に乗ってみると、それまで淡々と喋っていた彼が、得意げに俺の顔を覗き込んだ。
「俺のこと知れて、嬉しい?」
そこで初めて成海くんの意図に気が付いた。
「……もしかして、成海くんの情報を提供してくれたの?」
「そーだよ。ちなみに今俺の部屋のディフューザー知ってんの、この世で沙也ちゃんだけだから」
「えっ」
「よかったね」
何を言えば俺が喜ぶのか、どうして手に取るようにわかってしまうのだろう。
情けなくも成海くんの一言で簡単に舞い上がってしまう自分がいる。
彼の手のひらの上で踊らされているようで、なんだか癪だ。
会話が途切れた後に再びスマホを弄り出した成海くんの指は、誰かとのやり取りのために忙しなく動いている。
せっかく二人でいるのに。
なんだか無性にモヤモヤして、気がつけば腕を伸ばしていた。
「……え、なに」
衝動に突き動かされて成海くんのスマホを奪うと、彼は驚いたように顔を眉をひそめた。その瞳に責めるように視線を絡める。
「成海くんは、俺のこと……知りたくない?」
「……は?」
「俺は成海くんになら何でも話せるし、聞いてほしいって思うよ」
取り上げたスマホからはひっきりなしに通知が鳴っている。
だけど今、成海くんの目は俺だけを映している。その事実にどうしようもなく優越感が込み上げた。
「……ふーん」
次の瞬間、成海くんは薄く目を細めた。
まるで獲物を値踏みするような眼差し。それを目にした途端、背筋がゾッとするのを感じた。
「……っ、嘘、やっぱなし。ごめん、忘れて」
「──じゃあ教えてもらおっかな」
身を引こうとする俺を逃すまいと、成海くんの手が俺の腕を掴む。かと思えば一人分の隙間を詰めてきた彼に、ぐいっと肩を抱き寄せられた。
「わっ……ちょっと、なるっ……な、何してるのっ」
成海くんの腕の中にすっぽり収まってしまった俺は、動揺を隠し切れずに声を荒げる。
しかし彼は平然とした様子で、俺の肩を抱いている方と反対側の手で、俺にも見えるような位置でスマホを弄り始めた。
……いつのまに俺の手からスマホを奪い返していたんだ。
何もかもが手慣れていて、悔しさが募る。
「沙也ちゃんのこと教えてくれるんでしょ。ほら、メモするから言って。まず名前の漢字はこれで合ってる?」
「合ってる、けど……」
──近い。
成海くんの腕が俺の肩に回っているのも、額に彼の髪が触るのも、喋るたびに吐息が普顔にかかるのも、いちいち気になって仕方がない。
(……っていうか、これって普通の距離感なのか)
こんなに密着したのは初めてだからか、心臓がバクバクして成海くんの話が全然頭に入ってこない。
「血液型は?」
「A……」
「好きな食べ物は? あ、俺これ知ってる。エビフライでしょ。昔から夕飯に出てくると目ぇ輝かせてるもんね」
俺の返事も待たずに当たり前のように「エビフライ」と書き込む成海くんを見て、俺は胸がじんとした。
素っ気ないように見えて、案外俺のことも見ていてくれたのか。そうわかると、心臓が更に速くなるのがわかった。
「じゃあ次は嫌いな食べ物ね」
「な、成海くん。もういいから、今日はこれで終わろう」
「なんで? まだこれだけしか埋まってないよ」
「ギブ、ギブアップです」
これ以上は心臓がもたない。
ただでさえ息がまともに吸えなくて、溺れそうなぐらいなのに。
「っくく、顔真っ赤。照れてんだ、弟相手に」
「弟っていうか、成海くんだからだよ。ずるいことばっかするから調子が狂うの」
「……それさぁ、どういう意味かわかって言ってんの」
「意味……?」
成海くんの言うことが理解できず、不思議に思ってその目を見上げる。じっと俺を見下ろしていたはずの瞳は、すぐにふいっと逸らされてしまった。
「ってか、ずるいのは沙也ちゃんの方でしょ」
「俺?」
「俺のこといちいち意識してんのバレバレ。そんなんでよく兄貴面できるよね」
嘲るように笑う彼の手が、そっと俺の髪をつまんだ。成海くんが俺の髪に触れていると意識するだけで、途端に身体が強張る。
助けを求めるように視線を絡めると、その目の奥がゆっくり細められた。
「鈍感な沙也ちゃんに教えてあげる。フツーは弟にそんな顔しねえの」
優しく言い聞かせるような柔らかさの中に、微かに甘さを含んでいる声。
気まぐれに髪を触っていた手がゆっくりと耳に降りてきて、くすぐったさに身を捩ると、近くで余裕そうに笑う声が聞こえた。
俺は今どんな顔をしているんだろう。
俺と成海くんは義兄弟で、俺は兄で、そう振る舞わないといけない。
弟の言動ひとつでこんなに心を乱されるなんて、『正しいこと』ではないとわかっているのに。
「……っそういうの、俺にするもんじゃないでしょ」
危うく成海くんのペースに呑まれるところだった。わざと涼しい顔を作って言い放って、彼の手を指先でそっと外す。不意をつかれたのか、一瞬その眉がピクリと動いた。
「もう、変なこと言ってないで早く寝るよ。ほら机の上片付けて」
「えー、まだ十時じゃん」
「”もう”十時ね! 俺はまだ少し自習するから、先に部屋戻るね」
おやすみ、と声を掛けてから、階段に向けて歩き出す。背後からじっと見られている気配がしたけど、気付かないふりをしながら階段を上っていった。
自分の部屋に戻って扉を閉めた瞬間、ふっと気が緩んで腰が抜けそうになる。
あのときはなんでもないふりをしていたが、耳まで真っ赤になっていることが自分でもわかった。
危なかった。
完全に余裕なんてなかったし、あのまま触れられ続けていたら──。
不意に机の上に置かれたスマホと目が合う。
いつもなら嬉々として弟との会話を記録しておくはずなのにその夜はなんだか投稿する気になれなくて、飲み込みきれない感情がまだ胸の中で燻っていた。
家に帰り早速スマチャに喜びを投稿し、ふうと息を吐いてベッドに倒れ込む。
まさか成海くんが俺のことを待っててくれるとは微塵も思ってなかったし、おまけに次の約束を匂わせるようなことまで彼の口から聞けるなんて夢のようだ。
午後の授業はどこか上の空で、にやけ面を堪えるのに必死だった。我ながらキモすぎる。
それにしても最近、やけに成海くんが優しい。
今まではどれだけ俺が話しかけてもガン無視を貫いたり、冷たい言葉で一蹴してきたというのに。
何かきっかけがあったのだろうか。
思考を巡らせていると、スマホが通知を知らせた。
《うおお!うまくいったんですね!遠藤氏に運が味方している……》
画面を確認すると、付き合いの長い相互フォロワーの『ワクワクすべり台』ことすべ氏からのリプライだった。すべ氏とはアカウントを作った当初から繋がっていて、相互の中でも特によく会話をしていると思う。
《いやあ、嬉しい反面ちょっと怖いですw何か裏があるんじゃないかとw》
《嬉しいときは思いっきり喜ぶべきですよ!ばちなんか当たりませんから!》
《そうですかねえ……》
《長いこと仲を縮めようと頑張ってきたんですし、いよいよ報われるときなんじゃないですかね》
文字でのやりとりを目で追っていた俺は、すべ氏からきたその言葉を読んで、ぐっと込み上げるものを感じた。
「報われる、か……」
成海くんと少しでも仲を縮めようと思って声掛けをしてきたが、途中からはほとんど自己満足みたいなものだった。
成海くんの中に、少しでも俺の存在を焚きつけたい。何もしなければ本当に忘れられてしまいそうだから、どれだけうざがられても嫌そうな顔をされても、めげずにアピールしてきた。
だからその先に、成海くんと本当の兄弟のように仲良くなれる日が来ようなんていう未来は、ほとんど想像できていない。
いざその階段を上っている途中なのかもしれないと自覚してしまえば、高揚するより先に緊張の方が勝ってしまう。
(そういえば最近、なぴちゃからリプが来ないな……)
気まぐれに俺の相談に乗ってくれる救世主のような存在。一方的に知られているのは気味が悪いけど、今のところ特に被害を受けたりもしていないし……。
「っ、うわっ……、っな、成海くん!」
「うわってなに」
課題を終えて一階に降りると、珍しく成海くんがリビングにいた。
ソファーに座る彼の近くには、スナック菓子やジュースが転がっている。
「びっくりした。だってリビングにいるの珍しいし……何してるの?」
「別に、たまには大画面でテレビ観たくなっただけ」
そう言う彼の正面にあるテレビには、何かのアニメの映像が映っている。
そんなことを言うなんて珍しい。
いつもは頑なに部屋から出てこないのに。
(もしかしてこれって、チャンス?)
三人掛けのソファーの真ん中を堂々と陣取る成海くんの周りをうろうろと歩きながらタイミングを窺っていると、さすがに鬱陶しかったのか呆れ混じりの視線を向けられた。
「ガチうざい。言いたいことあんなら言えば」
「……隣座ってもいい?」
おずおずと問い掛ければ、小さな舌打ちの後、ぶっきらぼうに返事が返ってきた。
「勝手にどーぞ」
わざわざ横にずれてくれたのが嬉しくて、俺は喜びを隠そうともせずに空いた場所に腰を下ろした。
真ん中に一人分空いた席。今の俺達にはこの距離がちょうどいい。
「アニメ?」
「そー。友達に薦められたやつ」
「あ、もしかして『ブラホワ』? 俺も気になってたんだよね。原作途中まで読んでてさ──」
まさか成海くんとこうして隣に並んで二人でアニメを鑑賞する日が来ようとは。
やっぱり最近の成海くんはどこか変だ。
俺にこんなことまで許してくれるなんて、このまま俺が調子に乗ってしまったら、一体どうしてくれるんだ。
「はあ、クソうざい。アニメを観なよ。俺のことばっか見すぎ」
「えっ……バレてたの?」
「隣でガン見されてたらさすがに気付くって。沙也ちゃんって頭良いくせに、変なとこ抜けてるよな」
指摘されて初めて気が付いて、ばつが悪いような気持ちになった。
成海くんが隣にいると思うとどうしても頭がふわふわして、何にも集中できなくなってしまう。
アニメを観終わると、成海くんはそのままスマホを触り始めた。ちらっと見えた画面に映っていたのは、おそらくメッセージアプリだろう。
誰と会話してるんだろう。昼間一緒にいたあの男の子だろうか。
少し考えてから、ねえ、と声を掛けてみた。
「今日教室で金髪の子と楽しそうに話してたじゃん。成海くんって、普段はあの子と一緒に行動してるの?」
「あー……拓実? そうだけど何?」
「いや、結構派手な子だし意外だなって」
昔から大人しいというか、やけに落ち着き払っていた成海くんは、同じように物静かな真面目そうな子と一緒にいることが多かった。
だから昼間見かけた金髪の彼を見て、今までの友達と系統が変わったな、と驚いたのだ。
「アイツあんな見た目だけど、中身はただのやる気なし男だよ。気使わないで済むし一緒にいてクソ楽」
「へえ、そうなんだ」
「ちょっと絡みだるいときもあるけど、基本俺と同じ省エネだから」
友人のことを話す成海くんはどこか楽しそうで、それを聞いて何故か胸がモヤモヤした。
俺にもそんな風に笑ってくれたらいいのに。
きっと成海くんの友達は、俺の知らない成海くんのことをたくさん知っているのだろう。羨ましいなと率直に思った。
「気になる?」
気付けば成海くんの視線がこちらを向いていた。
胸の内を見透かされたようでドキッとしてしまう。ほんの少しの後ろめたさを隠すように、首の後ろを掻いた。
「そりゃ気になるし、知りたいよ。兄なのに、成海くんについて知らないことばっかだし」
「知ってどうすんの」
「どうもしないかな。成海くんだって面白いと思ったゲームを攻略したいと思うでしょ。俺だって大切な人のことは全部知りたいって、それだけだよ」
そう言うと、琥珀色の瞳が僅かに見開かれる。
大切だからこそ知りたいし、全部覚えておきたい。交わした会話や何気ない時間でさえ全部、俺にとっては宝物に変わっていく。
しばらく黙り込んでいた成海くんは、そういえば、と急に口を開いた。
「最近部屋のディフューザーを変えたんだ」
「え? ……ああ、もしかしてあのフルーツみたいな匂いの?」
以前初めて成海くんの部屋に入った時に、オレンジのような甘酸っぱい香りが鼻を掠めたのを鮮明に覚えている。
「そう。前まではムスクだったんだけど、飽きたから柑橘系にしてみた。好きなんだよね結構」
「いい匂いだよね。成海くんに似合ってるなって思ったよ」
話の本質が掴めない。とりあえず会話に乗ってみると、それまで淡々と喋っていた彼が、得意げに俺の顔を覗き込んだ。
「俺のこと知れて、嬉しい?」
そこで初めて成海くんの意図に気が付いた。
「……もしかして、成海くんの情報を提供してくれたの?」
「そーだよ。ちなみに今俺の部屋のディフューザー知ってんの、この世で沙也ちゃんだけだから」
「えっ」
「よかったね」
何を言えば俺が喜ぶのか、どうして手に取るようにわかってしまうのだろう。
情けなくも成海くんの一言で簡単に舞い上がってしまう自分がいる。
彼の手のひらの上で踊らされているようで、なんだか癪だ。
会話が途切れた後に再びスマホを弄り出した成海くんの指は、誰かとのやり取りのために忙しなく動いている。
せっかく二人でいるのに。
なんだか無性にモヤモヤして、気がつけば腕を伸ばしていた。
「……え、なに」
衝動に突き動かされて成海くんのスマホを奪うと、彼は驚いたように顔を眉をひそめた。その瞳に責めるように視線を絡める。
「成海くんは、俺のこと……知りたくない?」
「……は?」
「俺は成海くんになら何でも話せるし、聞いてほしいって思うよ」
取り上げたスマホからはひっきりなしに通知が鳴っている。
だけど今、成海くんの目は俺だけを映している。その事実にどうしようもなく優越感が込み上げた。
「……ふーん」
次の瞬間、成海くんは薄く目を細めた。
まるで獲物を値踏みするような眼差し。それを目にした途端、背筋がゾッとするのを感じた。
「……っ、嘘、やっぱなし。ごめん、忘れて」
「──じゃあ教えてもらおっかな」
身を引こうとする俺を逃すまいと、成海くんの手が俺の腕を掴む。かと思えば一人分の隙間を詰めてきた彼に、ぐいっと肩を抱き寄せられた。
「わっ……ちょっと、なるっ……な、何してるのっ」
成海くんの腕の中にすっぽり収まってしまった俺は、動揺を隠し切れずに声を荒げる。
しかし彼は平然とした様子で、俺の肩を抱いている方と反対側の手で、俺にも見えるような位置でスマホを弄り始めた。
……いつのまに俺の手からスマホを奪い返していたんだ。
何もかもが手慣れていて、悔しさが募る。
「沙也ちゃんのこと教えてくれるんでしょ。ほら、メモするから言って。まず名前の漢字はこれで合ってる?」
「合ってる、けど……」
──近い。
成海くんの腕が俺の肩に回っているのも、額に彼の髪が触るのも、喋るたびに吐息が普顔にかかるのも、いちいち気になって仕方がない。
(……っていうか、これって普通の距離感なのか)
こんなに密着したのは初めてだからか、心臓がバクバクして成海くんの話が全然頭に入ってこない。
「血液型は?」
「A……」
「好きな食べ物は? あ、俺これ知ってる。エビフライでしょ。昔から夕飯に出てくると目ぇ輝かせてるもんね」
俺の返事も待たずに当たり前のように「エビフライ」と書き込む成海くんを見て、俺は胸がじんとした。
素っ気ないように見えて、案外俺のことも見ていてくれたのか。そうわかると、心臓が更に速くなるのがわかった。
「じゃあ次は嫌いな食べ物ね」
「な、成海くん。もういいから、今日はこれで終わろう」
「なんで? まだこれだけしか埋まってないよ」
「ギブ、ギブアップです」
これ以上は心臓がもたない。
ただでさえ息がまともに吸えなくて、溺れそうなぐらいなのに。
「っくく、顔真っ赤。照れてんだ、弟相手に」
「弟っていうか、成海くんだからだよ。ずるいことばっかするから調子が狂うの」
「……それさぁ、どういう意味かわかって言ってんの」
「意味……?」
成海くんの言うことが理解できず、不思議に思ってその目を見上げる。じっと俺を見下ろしていたはずの瞳は、すぐにふいっと逸らされてしまった。
「ってか、ずるいのは沙也ちゃんの方でしょ」
「俺?」
「俺のこといちいち意識してんのバレバレ。そんなんでよく兄貴面できるよね」
嘲るように笑う彼の手が、そっと俺の髪をつまんだ。成海くんが俺の髪に触れていると意識するだけで、途端に身体が強張る。
助けを求めるように視線を絡めると、その目の奥がゆっくり細められた。
「鈍感な沙也ちゃんに教えてあげる。フツーは弟にそんな顔しねえの」
優しく言い聞かせるような柔らかさの中に、微かに甘さを含んでいる声。
気まぐれに髪を触っていた手がゆっくりと耳に降りてきて、くすぐったさに身を捩ると、近くで余裕そうに笑う声が聞こえた。
俺は今どんな顔をしているんだろう。
俺と成海くんは義兄弟で、俺は兄で、そう振る舞わないといけない。
弟の言動ひとつでこんなに心を乱されるなんて、『正しいこと』ではないとわかっているのに。
「……っそういうの、俺にするもんじゃないでしょ」
危うく成海くんのペースに呑まれるところだった。わざと涼しい顔を作って言い放って、彼の手を指先でそっと外す。不意をつかれたのか、一瞬その眉がピクリと動いた。
「もう、変なこと言ってないで早く寝るよ。ほら机の上片付けて」
「えー、まだ十時じゃん」
「”もう”十時ね! 俺はまだ少し自習するから、先に部屋戻るね」
おやすみ、と声を掛けてから、階段に向けて歩き出す。背後からじっと見られている気配がしたけど、気付かないふりをしながら階段を上っていった。
自分の部屋に戻って扉を閉めた瞬間、ふっと気が緩んで腰が抜けそうになる。
あのときはなんでもないふりをしていたが、耳まで真っ赤になっていることが自分でもわかった。
危なかった。
完全に余裕なんてなかったし、あのまま触れられ続けていたら──。
不意に机の上に置かれたスマホと目が合う。
いつもなら嬉々として弟との会話を記録しておくはずなのにその夜はなんだか投稿する気になれなくて、飲み込みきれない感情がまだ胸の中で燻っていた。
