「なんか落ち着きないね、今日の沙也」
「だろ。朝来たときからずっとこうなの」

 弁当を食べながら周囲に忙しなく視線を配る俺を、友人達は不思議そうにして見ている。
 俺が義弟への愛を吐き出すだけのアカウントを持っているなんて誰にも教えていないので、相談できる相手がいないのが惜しい。

 今朝のホームでなぴちゃから届いたDMは、明らかに現実(リアル)の俺を知っているような内容だった。
 いつどこで見られているかわからない。そう思うと途端に落ち着かなくなってしまう。

 なぴちゃにフォローされたのはおそらくつい最近のことだ。最近は特に変わったこともなく、いつも通り受験生の俺は自宅と学校の塾の往復ばかり。
 普段からあのアカウントが周囲に見られないように、かなり徹底して振る舞ってるつもりだし、もちろん個人情報だって一つも発信してない。遠藤を俺だと紐付けるのは容易じゃないと思うけど──。

 脳内で思考を巡らせていると、スマホが通知を知らせた。おそるおそる画面を開くと、通知の相手はまさに今頭の中に思い描いていた人物だった。

《返事がないけど大丈夫ぅ?怖がらせちゃったかなぁ?》
 
 相変わらず間の抜けた喋り方だが、得体が知らない今となってはそれすら恐ろしく感じる。
 ごくりと唾を呑み込んだ後、覚悟を決めて文字を入力した。

《俺のこと知ってるんですか》
《どうだろぉ。ナイショ~》

 相変わらず即座に返信が来るのはいいが、やっぱり簡単には正体を明かしてくれないらしい。

《何が目的ですか》

 俺は相手を知らないのに、相手は俺を知っている。
 その事実はとても気味が悪いし、一体どんな脅しをかけられるのかと気が気じゃない。

《ん~目的とかないけど、相談に乗ってあげよっかなって。弟くんともっと仲良くなりたいんでしょ?》
《そうですけど…》

 風向きが変わってきた。
 言うことを聞かないと遠藤だとバラすぞ、と脅されるのかと覚悟していたが、彼女は成海くんと俺の仲を取り持とうとしてくれている……?
 真意はわからないが、そうであるなら猫の手も借りたいぐらいだ。
 そわそわとしながら返信を待っていると、すぐにメッセージは届いた。

《そうだなぁ、まずは自分都合で声を掛けるんじゃなくて、弟くんのタイミングに合わせてあげたらどうかなぁ?話しかけてほしくないときだってあると思うし》
《と言っても、毎分毎秒うざがられるんですよね……》
《じゃあ、押してダメなら引いてみよ!》

「……え?」

 思いがけない提案に、思いがけず声を漏らしてしまった。
 幸いにも友人達は違う話題で盛り上がっているので、俺の声は聞こえなかったらしい。

 押してダメなら引いてみる。
 それはこれまで俺の辞書に存在しなかったもので、だからこそ試してみる価値はあるのかもしれないと、そんな風に思った。


          *
「ただいまー……」

 塾を終えて帰宅すると、ちょうど脱衣所から成海くんが出てきた。
 どうやらお風呂上がりのようで、髪がまだ少しだけ濡れている。
 これは一大事だ。風邪を引いてしまうからちゃんと乾かした方がいいよって、物凄く言いたい。
 だけど絶対に俺の言うことなんて聞いてくれるはずがないし、またキモいなんて言われてしまったら少し傷つく。

「成海くん、ただ──」

 とりあえず無難に、ただいまと声をかけようとしてハッとして口を噤んだ。昼間のなぴちゃとのやり取りを思い出したからだ。

 ──押してダメなら引いてみる。

 二十四時間三百六十五日、成海くんを見かけたら脊髄反射のように声を掛けるのが当たり前になっていた。
 でもそれって、彼の立場からしたらうざかったりするのだろうか。

「……っ」

(──ごめん、成海くん!)

 心の中で平謝りしながら、覚悟を決めるように両手をぎゅっと握り、なるべく彼の方を見ないようにして、その前を無言で通り過ぎようとした。

「うわっ、なに……」

 しかし、俺の決死の覚悟は呆気なく崩される。通り過ぎる直前、突然成海くんに腕を引かれたのだ。

「なにはこっちの台詞。俺のこと無視するなんて、珍しいね」

 成海くんは近くで俺を見下ろして、物珍しそうに俺の顔を凝視している。
 まさか家の中で成海くんの方から声を掛けられるなんて……。
 七年間一緒に過ごしてきたが、思い出す限り今までに一度だってなかった。

「どしたの。もう飽きた? どうでもよくなったんだ?」
「や、そういうんじゃ……ってかちょっと、顔近い」

 彫刻のように綺麗な顔が無垢な瞳で迫ってくるので、視線のやり場に困ってしまう。
 それが気に食わなかったのか、近くでむっとする気配を感じた。

「どうせあんたのことだから、髪乾かさないと風邪引くよ、とかなんとか言ってくるもんだと思ってたんだけど」

 さすがは成海くん。まさに俺は数秒前までそう言おうとしていたところだ。

「髪は……乾かした方がいいと思います」
「めんどくせえからイヤ」
「そんなこと言わずにさ。成海くん、風邪引くと長引くタイプだから心配なんだよ」
「はー……ちょっと咳出てるだけで大袈裟に心配すんの、やめてほしいんだよね」

 成海くんは腕を組んで壁にもたりかかりながら、気怠そうに溜息を吐いている。
 そりゃ心配もするだろう。小さい頃は喘息になりかけていたし、成海くんの咳に人一倍敏感に反応してしまうのは許してほしい。

「てかずっと言おうと思ってたんだけど」

 相変わらず小生意気な顔をした成海くんの視線が、俺に向けられた。

「部屋入ってくんなら、夕飯のすぐ後にしてよ」
「えっ……?」
「その時間なら大体課題やってて暇だから。俺、ゲーム中断されるの大っ嫌いなんだよね」

 その瞳からはいつもの蔑むような色は見えなくて、あっけらかんと発せられた言葉からは刺々しさも感じられない。
 聞き間違いだろうかと耳を疑ってしまう。
 どうやら空想の中で成海くんを愛ですぎて、現実でも自分に都合のいいようにフィルターがかかってしまっているようだ。
 だってまさか、これじゃあまるで──俺が成海くんの部屋に行ってもいいみたいな口ぶりじゃないか。

「ちょっと待って。俺、成海くんに声掛けてもいいの?」
「いいよ別に。TPOさえ(わきま)えてくれれば」
「でも、この前迷惑って……」
「それは沙也ちゃんが通話中にタイミング悪く入ってくるから。他の奴らに聞かれたらどうすんの」
「さ、サヤチャン……?」

 初めて呼ばれたあだ名に動揺を通り越して思考が止まった。
 え、沙也ちゃんって俺のこと?
 そんな呼ばれ方は今まで一度たりともされたことがないはずだ。
 目を点にする俺とは対照的に、成海くんは当たり前のような顔をして腕を組んでいる。

「とにかく、俺は言ったからね。あとで聞いてないとか泣き言言ってもノーカンだよ」

 返事のない俺を置いて成海くんが階段を上って、自分の部屋に消えていく。
 それでも今起きたことが信じられず呆然と立ち尽くしていた俺は、風呂に入ろうとリビングから出てきた父さんの「ウオッ!?」という大きな声でようやく我に返った。

「ユメ……?」

 もう一度頬をつねってみた。
 鈍い痛みを走らせるそれが、これが夢じゃないということをひしひしと物語っていた。