「おはよう、成海くん」
 
 小鳥の(さえず)りが新しい一日の始まりを知らせる、天気のいい朝。部屋を出たらちょうど成海くんが出てきたので爽やかに挨拶をしてみたところ──。

「……」

 成海くんは一瞬俺に視線を向けた後に、無言で階段を降りていった。まるで俺の声なんて聞こえなかったかのように。
 今日もいつも通りの塩対応。だけど俺の目的はそもそも、成海くんに「おはよう」と声を掛けること自体にあるのだから、返事なんて期待していない。
 毎朝の習慣の中で、成海くんの存在を確かめられるこの瞬間を大切にしたいだけだ。
 ……とかなんとかそれっぽいこと言って、本当は俺を無視する成海くんが可愛いだけなんだけど。
 
《今日の弟のTシャツ、俺のお下がりだった。俺の着てた服を弟が着てるのエモすぎる──》

 電車に揺られながらスマチャへの投稿も欠かさない。一日一善ならぬ、一日一弟が俺の信条だ。
 いつものように投稿直後にたくさんのLIKEがきて、今日も一日頑張りましょうとフォロワー達と声を掛け合う。
 その中に珍しいアカウントからのリプライを見つけた。

《お下がりの何がそんなに嬉しいのぉ~?》

 送り主はつい先日フォローを返したばかりの、なぴちゃさんだ。
 なぴちゃさんは何故か俺に興味を持ってフォローをしてくれているらしい謎の多い人で、めでたくFF(互いにフォローし合うこと)になってから初めての会話。
 しかしどこか文章に棘があるような気がするのは気のせいだろうか。

《俺ずっと一人っ子だったんで、お下がりって言葉自体に憧れあったんですよw実際経験すると俺が着てた服を着れるほど弟が大きくなったんだって思うと喜びが限界突破するんですよね…って言っても弟のが背が高いんでピチピチでしたけどwそこも可愛》
 
 送信してからハッとした。仲の良いフォロワーならまだしも、まだ繋がって日が浅いのにこの熱量は引かれてしまうのではないか。
 ハラハラとしたのは一瞬で、なぴちゃさんからの返事はすぐに来た。

《長いよぉ笑 簡潔にまとめて?》

 よかったと真っ先に思った。引かれてはなさそうだが、さすがにあれは熱が入りすぎた。
 ブラコン界隈に慣れていないこの人に、この界隈の深淵を見せてしまうのは時期尚早すぎる。
 慌てた俺は送信した自分の文章を読み直し、急いで文字を打ち直した。

《ごめん、つい興奮して…!つまり、弟の成長が目に見えて分かるから嬉しいってことですw》
《へぇ。なんか勉強になるぅ~》

 数回やりとりを交わしてわかったことだが、なぴちゃさんは文字を打つのが異常に早い。
 何を送っても数秒以内に返ってくる。きっとこの喋り方からして女性なのだと思うが、一体俺を通して何を学ぼうとしているのだろう。

 謎は深まるばかりだが、顔も知らない人間のことを気にしたって仕方がない。
 俺は今まで通り、成海くんへの愛を綴っていくだけだ。

 覚悟を決め直したところで、いつのまにか学校の最寄り駅に着いていたことに気付き、俺は慌てて電車を降りた。
 少し離れた先にスマホを弄りながら歩く成海くんを見つけて、一気に胸が高揚するのがわかる。

 ああ、俺の弟──ちょっと跳ねてる髪とか、姿勢のいい背中とか、誕生日に俺があげた白いヘッドフォンを耳に付けているところとか、世界一可愛い。
 でもホームで歩きスマホは危ない。どうしよう、声を掛けたいけどうざがられるだろうか。

 しばらく悩みながら成海くんと一定の距離を保ちながら歩いていたが、急に彼がこちらを振り向いた。
 驚いて立ち止まる俺のもとに、長い足を使って彼がこちらに向かってくる。

「何か言いたそうな顔してるね、兄さん」

 ホームには同じ学校の生徒もそれなりにいるからか、俺の前に立つ成海くんは、外向けの笑顔を貼り付けている。
 視線に気付かれたのだろうか。あれだけ見つめていたら無理はない。
 ばつが悪い気持ちになりながら、成海くんの手元のスマホに目を向けた。

「あ……えっと、歩きスマホは危ないし、特にホームだと転落する可能性もあるから……できればやめてほしいなって思って」
「……」
「ごめんね、でも心配で」

 俺の言葉を聞くなり、成海くんの顔が曇る。どこか腑に落ちないような、不思議そうな顔をした後に、いつもみたいに微笑んだ。
 
「ありがと、気をつけるね」

 去り行く弟の背中を眺めていると、ポケットの中に入れていたスマホが振動した。
 取り出して確認すると、スマチャでDMを受信したときの通知が来ていた。

《弟くんに注意するなんてやさし~ね、遠藤ちゃん》

 その文章を確認した瞬間、弾かれたように勢いよく後ろを振り返った。
 通勤通学ラッシュのホームは多くの人で溢れ返っていて、スマホを見ている人だって山ほどいる。

(──見られてた?)

 誰に、どこから?
 全身にゾクッと寒気が走って、心臓がバクバクと音を立てる。
 まだ誰かに見られているような、ねっとりと嫌な視線を背中に感じて、慌てて駆け出した。