【急募】ビジネス仲良しの義弟を攻略する方法

 それからの日々はあっという間だった。新たに志望することになった大学はもともとの志望校よりも偏差値が高いところだったから、休む間もなく猛勉強をする数ヶ月を送った。
 それまでの積み重ねのおかげか、最後の追い上げのおかげか、無事に合格通知を受け取ったときにはホッとして足腰が立たなくなってしまった。
 そんな俺をからかいながらも、無邪気に笑っていた成海くんの顔が忘れられない。
 一番聞きたかった人からの「おめでとう」という言葉は、頑張った自分への一番のご褒美だと思った。

「忘れ物ない!? スマホは? 財布は持ったの?」
「ないよ、大丈夫」

 両手に持った大きなスーツケースにはぎっしりと荷物が詰め込められている。段ボールでいくつか新居に送ったはずなのに、結局手荷物もこんなに多くなってしまった。

「新幹線の切符は!? ちゃんとある!?」
「持ったって! もう、心配しすぎだよ、母さん」
「だって……! 沙也が家を出ていくなんて、まだ信じられなくて……」

 玄関まで見送りにきてくれた母さんはハンカチで顔を覆いながら声を震わせている。その肩に手を置いたのは、隣にいる父さんではなく、反対側に立っている成海くんだった。

「大丈夫だよ。沙也ちゃんならどこでもうまくやっていけるって。だってこの人、順応性高いもん」
「ええっ、俺のことそんな風に思ってくれてたの?」
「うん。生活力も高いし、俺はそんなに心配してないよ。ね、父さん?」
「そうだね、確かに沙也は昔からしっかりしてたもんな」

 うんうんと腕を組んで頷く父さんの様子を見て、成海くんと目を合わせて笑った。

「気を付けてね。向こうに着いたら連絡してよ」
「そのつもり。じゃあそろそろ行くよ。……えっと」

 急に言葉が見つからなくなって、何て声をかけたらいいかわからなくなってしまう。
 
「いってらっしゃい」

 黙り込む俺の耳に、凛とした声が届いた。視線を上げれば、成海くんが優しげに微笑んでいる。

「……いってきます」

 成海くんのようにはっきりと返すことはできなかった。少しだけ掠れた声でそう言うと、扉を開ける。冬の朝の爽やかな日差しが顔に掛かって、眩しさに思わず目を細めた。

 住み慣れた家を離れるのはもの寂しい。扉が閉まる直前に振り返ると、成海くんも俺のことを見ていた。これで最後だからと、その姿をしっかりと目に焼き付けた。

《いよいよ引っ越し。東京の皆さんお世話になります!》

 青空の写真と共に、文章をスマチャに投稿する。瞬く間にLIKEとリプライが増えていって、タイムラインが賑やかになった。
 
《今日ですか!お気を付けて~!落ち着いたらあっちで会いましょう!》
《ぜひぜひ!一足お先に待っております!》
《お土産交換しましょうw》

 中でもすべ氏からのリプライに、ふふっと笑みがこぼれる。
 どうやら古賀くんもこっそり東京の大学を受験していたようで、新居の最寄駅も近いと知ったときには驚いたっけ。新生活は不安もあるが、一人でも知っている人がいると思うと安心できる。

 重いスーツケースを抱えながら、駆け足で電車に乗り込む。土曜の早朝なので人はそれほど多くなく、無事に座ることができた。
 これから新幹線の通る駅まで行って、乗り換えて東京まで向かう予定だ。しばらく届いたリプライを読んだりタイムラインを漁っていたけれど、少し疲れてしまって瞼を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのは、最後に見た成海くんの姿だ。
 彼のことを好きだと気付いたあの文化祭の日から、我ながら上手に自分の感情をコントロールできたように思う。あんなに離れがたいと喚いていたのが嘘のように、すっきりとした気持ちで電車に揺られている。
 
 成海くんのそばにいたいとずっと思っていた。だけど、やっぱり一番大事なのは成海くん自身の幸せだ。
 そこに俺がいなくたって、成海くんが心を開ける人はたくさんいるし、もう俺が守らなくたって成海くんは自分の足で歩んでいける。
 隣に俺がいることに固執していたのは、単なる俺のエゴだった。

《弟がこの先もずっと平和に幸せに生きられますように》

 結局手持ち無沙汰になって、スマチャを開いてしまった。まるで自分に言い聞かせるみたいに投稿した後に、ふぅと小さく息を吐いた。
 しばらくして、手元のスマホが震えた。確認すると、DMを受信した通知だった。わざわざ俺にDMなんかをしてくる人物なんて、もう随分と長いこと一人しかいない──なぴちゃからだ。

 俺はもうあの学校を卒業してしまったし、なぴちゃとの接点はなくなってしまったが、彼女には色んな場面でたくさんお世話になった。
 最後に礼ぐらい言っておこうと、軽い気持ちでDMを開いた。

《電車乗れた?スマチャばっかしてると乗り過ごすよ》

 しかしそこに記された文章を見て、一瞬思考が止まった。

「え……」

 思わず声が漏れてしまって、慌てて口を噤む。

 スマチャには一切書いていないはずなのに、どうして俺が電車に乗ったことを知っているのだろう。
 まさかまたどこかで見られているのだろうか。

 きょろきょろと辺りを見渡すが、スマホを触っている人ばかりで誰なのか見当も付かない。

すると、俺の返事も待たずに次のメッセージが送られてきた。

《今きょろきょろしてるでしょ》
《えっなんでわかったんですか》
《わかるよ。あんた死ぬほどわかりやすいし》

 どうやら俺の行動は筒抜けらしい。ということは、なぴちゃはこの場にいるわけじゃないのだろうか。
 それにしてもなんだか違和感がある。

《いまどの辺?》
《えっと、◯◯駅を通過したところです》
《いや馬鹿正直に言うなよ。ネットリテラシーどうなってんの。知らないヤツだったら取り返しつかないだろ》
《だって聞かれたから……》

 聞かれたことに答えたら怒られるなんて、理不尽にも程がある。確かに俺だって顔も知らない相手に自分の居場所を話すなんて、どうかしてるけど。
 だけどどこか安心感があるというか、今のなぴちゃになら話しても大丈夫だなっていう謎の自信があったのだ。

(……あ、わかった)

 違和感の正体。それはきっと、口調だ。
 いつもの間延びするような小文字や波線が使われていない。それに今までの女性らしさはどこへやら、まるっきり別人になったかのように口調が変わっている。
 
(なんか、まるで……)

 似てるな、と思った。俺に対して言うことも、喋り方も全部、あの人に似ていると思った。既視感はそこからきていたのだろう。だから俺も気が緩んで、馬鹿正直に自分の居場所を口走ってしまったのだ。

「……あれ? この猫……」

 ふと、なぴちゃのアイコンに目を惹かれた。ずっと画質の荒い黒猫だと思っていたそれを、初めて拡大してみる。
 すると画質が荒いと思っていたのは、猫自体が毛羽立っていたからだった。猫の絵だと思っていたものは、どうやらハンカチか何かの刺繍らしい。
 首元に赤いリボンをつけた黒い猫。その模様には、見覚えがあった。

(…………これって、俺の?)

 その昔、母さんに買ってもらったハンカチ。その刺繍に瓜二つだった。そしてそれは、()()()()の路地裏での出来事をきっかけに俺のものじゃなくなったはずだ。
 心臓がバクバクとうるさく鳴り始める。胸騒ぎがして、スマホに指を滑らせた。
 なぴちゃのユーザー名。ずっと意味不明なアルファベットの羅列だと思っていたそれがやけに引っ掛かる。
 鞄からメモ帳を取り出すと、一文字一文字正確に書き写した。その文字を一つずつ組み換えて、並べ替えていく。

(違う、これも違う、これも──……)

 とある組み合わせを当てはめたとき、思考が停止した。頭の中が真っ白になって、指の先にドクドクと自分の脈だけを感じる。
 現れた文字の意味を知ったとき、俺は声にならない声をあげた。

『@I am Narumi』

 どうして気付かなかったんだろう。
 ずっとここにヒントはあって、彼は俺に知らせてくれていたというのに。
 文字を並べ替えたら『ナルミ』になった。あの猫の刺繍だって、中学時代の成海くんが家出したあの夜に、彼の怪我の止血に使って渡したハンカチのものだ。

 成海くんだった。
 いつだって俺を気にかけて、茶化しながらも最後には助けてくれたのは、全部成海くんだったんだ。

「次は、△△駅ー、お降りの方は──……」

 降りる駅のアナウンスが鳴る。動揺と混乱で震える手のまま、何から話せばいいのか全くわからずに、画面を眺めていると。

《ごめんね、ずっと嘘ついてて》

 俺が送るより先に、なぴちゃからメッセージが届いた。

《たまたまスマホ見えてアカウント見つけちゃって、最初はからかってやろうって思って近付いた。女のふりしてたらのこのこ釣られるかなとか、意地悪いことしか考えてなかった》

 もうなぴちゃが誰なのかとか、そんな疑いは一切持たなかった。これを打っているのが誰なのかが、容易に想像ついてしまう。

《だけど段々、なぴちゃの思い通りに動くあんたのことを許せなくなってきた。自分で始めたくせに自分で自分に嫉妬して、意味わかんなくなった》

 次々に文章が送られてくる。俺はそれを、信じられない気持ちで読み進めることしかできない。

《あんなにスマホの中では俺のこと好き好きって言うくせに、実際に会うと平気な顔してんのがずっともどかしかった。でも本当は別のことでイラついてんだって気付いた》

 そこで文章は区切られていた。

《あんたの好きと俺の好きが違うから》

 俺は目を見開いた。
 それは俺が成海くんに対して感じていたことと、全く同じことだったからだ。

《家族だからって線引きされる度にわからせたくて堪らなかった。でもできなかったから、こんなやり方で誘導しようとした》

 ここまで読んだって、到底信じられるはずもない。
 だって文面通りの意味で捉えてしまうと、どうしたって俺に都合のいいように解釈してしまう。

《ごめんねさやちゃん》

 なぴちゃのアイコンからその名が出てくることが、嘘のようだ。
 俺の名を呼ぶいつもの柔らかい声を思い出して、鼻の奥がツンとした。

《好きになってごめん》

 この期に及んでそんなことを言うなんて、成海くんはどこまでもずるい。
 知らなかったんだ。俺が必死で諦めたものを、成海くんもまた諦めようとしていたなんて。
 
《元気でね》

 目当ての駅に着いたとアナウンスが入るけど、俺は画面から目を離すことができないままだった。
 ドアが閉まる直前、俺は慌てて電車を駆け降りた。 
 ホームに降りて、向かうのは新幹線の改札口じゃない。すぐにでも話がしたくて、スーツケースを転がしながら成海くんに着信をかけた。
 
『……はい』

 変なWi-Fiを拾って電波が悪いせいか、ザーザーとノイズが入る。成海くんの声も随分と遠くの方に聞こえてもどかしい。

「もしもし成海くん? 俺、今から戻るから」
『は? どこに?』
「どこにって、家しかないでしょ」
『なに言ってんの……新幹線乗り遅れるよ』

 こんな気持ちのまま気持ちよく行けるはずもない。
 俺の意思はもう固くて、新幹線の改札口からどんどん遠ざかりながら歩いていく。

「そんなのどうでもいいから……今から行くから、絶対家にいてよ」
『……』
「成海くん? ……ねえ、成海くんってば」

 ずっと電波が怪しかったが、とうとう繋がらなくなってしまった。じれったい気持ちになりながら、とりあえず家に戻るために電車を探そうと歩き出す。

「──ごめん、言いつけ守れなかった」

 もう電話は切ったはずなのに、すぐそばで聞き覚えのある声が聞こえて、足を止めた。頭が真っ白になりながらゆっくりと振り向くと、成海くんが立っていた。

「……なる、みくん、どうして」
「えーっと、ずっとついてきてた」
「えっ」
「違う車両にいました」

 驚きに声が出ない俺を、成海くんが気まずそうに笑う。近くにいたなんて、全く気づかなかった。
 もう会えないと思っていたのに、目の前に、すぐそこに成海くんがいる。

「……っ」

 まるで夢のようで、信じられなくて、頭の中はぐちゃぐちゃで──気付いたときには腕を伸ばして、その胸に飛び込んでいた。
 足元でスーツケースが倒れる音が聞こえるが、今はどうだってよかった。
 成海くんは一瞬怯んだ様子でいたが、すぐにその手が俺の背中に回ってきて、力強く抱き締め返される。

「……ごめんね。ずるいことしてもどうしても、沙也ちゃんだけは誰にも渡したくなかった」

 耳元で、低く掠れた声が聞こえた。

「許してくれなくていいから、俺のこと好きになって」

 胸がいっぱいになると自然と涙が出てくるのだと、初めて知った。とめどなく溢れる雫が成海くんの肩を濡らしていく。それに気付いたのか、喉を鳴らして笑う声が聞こえた。

「また泣いてる。意外と泣き虫だよね、沙也ちゃん」
「っ、成海くんのせいだもん」
「俺が嘘ついてたから?」
「違う。急に好きとか言うから……」
「……やっぱりイヤだった?」

 そっと身体が離される。彼は珍しく自信なさげな様子で、困ったように微笑んでいる。
 
「イヤなわけないよ。……だって俺も成海くんのこと、そういう意味で好きだから」

 勇気を出して口にしたのに、何故か彼の表情はさっきまでと一ミリも変わらない。

「そういう意味って?」
「え? えっと、だからそれは……」
「まだ勘違いしてんの? 沙也ちゃんのいうお子様みたいな好きとは違うの、俺のは」

 どうやら全く伝わっていないらしい。呆れたように諭してくる成海くんのことを、赤くなっているであろう顔で睨み付ける。
 普段はなにかと察しやすいくせに、どうして肝心なときに鈍感になるんだ……!

「……っ、だから──」

 ヤケクソになった俺は成海くんの肩に両手を置くと、少しだけ背伸びをした。覚悟を決めて瞼を伏せると、その唇に自分の唇を押し当てる。

 ふに、と柔らかな感触が自分のそれに伝わる。成海くんとキスをしているのだと自覚して、かっと頬が熱くなった。

 耐え切れなくなって顔を離して、踵を地面に付けた後にようやく瞼を開く。視線の先で成海くんは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっていた。

「俺の好きはこういう好き。……わかってくれた?」

 まだ成海くんの唇の感触が残っている。真っ赤な顔で心臓をばくばくに鳴らして、両手の先は震えていて──今の俺はちっとも格好なんかつかない。
 だけど人を好きになるって、そういうことなのかもしれない。

「はー……? 待って、今のなに」

 今日は珍しい成海くんばっかり目にするみたいだ。
 耳まで赤く染めた成海くんが、隠すように片手で顔を覆っている。

「俺のこと殺す気? 心臓ぶっ壊れるかと思った」
「……俺だって恥ずかしくて死にそう」

 居た堪れなくなって俺の方も両手で顔を覆う。

「いつから? てか、じゃあ何で急に進路変えたの」
「ずっと成海くんは、俺と家族でいたいのかと思ってたから……だから離れないと、いつか気持ち知られてキモがられると思って」

 指の隙間から成海くんを見つつ話すと、彼は俺を見下ろしながらきょとんと目を丸くした。

「家族でもいたいよ。でもそれだけじゃ全然足りない」
「でも、家族と恋人は両立できないよ。俺そんなに器用じゃないし」
「うーん、じゃあ結婚すればよくない?」
「……えっ!?」

 あまりの衝撃に大きな声を上げてしまった。
 言葉の意味を理解してじわじわ恥ずかしさが込み上げる一方で、成海くんは平然とした様子でいる。

「難しく考える必要ないんじゃない。俺はこれからも沙也ちゃんが隣にいてくれるんなら、なんでもいい」
「……そうだね、俺もだよ」

 家族とか兄弟とか、恋人とか夫婦とか。そんなの単なる飾りにすぎないのかもしれない。
 きっと大事なことは、隣にいるのが誰かということだ。

「でも本当にいいの? のこのこ戻ってきて、簡単に俺のこと許しちゃって」
「言ったでしょ。俺は成海くんがいいの」
「……言っとくけど、もう二度と手離す気ないよ」

 成海くんの右手が俺の頬に優しく触れる。

「だから沙也ちゃんも、この先の全部俺だけにして」

 砂糖を煮詰めたみたいな甘い眼差しで、柔らかな親指がそっと俺の唇をなぞる。
 俺を見つめるその瞳からは愛しさが伝わってくるようで、甘酸っぱい気持ちで胸が満たされた。
 
「そんなの簡単だよ」

 成海くんのことだけを考えるなんて、俺からしたら呼吸をするのと同じぐらい当たり前のことだ。
 例えその気持ちがほんの少し色を変えたって、根っこは何も変わらない。

「俺の頭の中には成海くんしかいないってこと、これからも一生かけて証明するね」

 込み上げる気持ちのまま微笑んでみせれば、成海くんがふっと口端を上げた。そのまま顔が寄せられて、今度は成海くんの方から口付けが降ってくる。
 薄く目を開くと甘ったるい眼差しと視線が絡まって、胸の奥が締め付けられた。

 触れるだけのキスの後、名残惜しくも唇が離れる。むず痒さと照れ臭さがぶり返してきて、その胸に顔を埋める。楽しそうな笑い声が、頭上から聞こえていた。