──そういうの見てたら、沙也ちゃんとなら家族になってもいっかなって思えたんだよ。
あの夜の成海くんの、穏やかな表情を今でも鮮明に覚えている。彼が笑顔でいられるような毎日を作ろう、そのために努力しようと、あのときに胸に誓い直したことも。
純粋に俺を兄として慕ってくれている。
それなのに俺は、自分の心の奥底に沈んでいた劣情を自覚してしまった。
「──じゃあ、プリント記入したヤツから前に回して~」
担任の声が耳に入って、思わず肩を上げた。手元の進路希望調査の紙と睨めっこすること数分、未だに用紙は真っ白なままだ。
第一志望はこの一年間、一度も揺らぐことはなかった。県内で、実家から通えて、それなりに大学生活を満喫できそうなところ。
だけどここにきて、初めて自分の気持ちに迷いが生じていることに気が付いた。
──そういえば日南くん、Y大受けるんだっけ。
──え、もったいない。何で? 九条教授の講義とりたいって言ってなかった?
思い返せばきっかけなんて些細なことだ。古賀くんに指摘されてから久しぶりに、蓋をしていたはずの自分の気持ちが再び疼き始めた。
資料室で埃まみれの九条教授の本を見つけたことだってそうだ。あの日からずっと、このままでいいのかと胸の中にモヤモヤが残っている。
(ずっと成海くんのそばにいたいって思ってた。だけどこのまま成海くんの近くにいたら、俺は──……)
助けてあげたい。支えてあげたい。寂しいからそばにいたい。俺のことを忘れてほしくない。
身勝手で自己満足な言い訳ばかり重ねて、俺は自分の人生から逃げていただけなのかもしれない。
成海くんは成海くんの人生を生きている。もうちっとも幼くない、立派な一人の青年だ。
"家族"に対してトラウマがある成海くんに、俺が彼に対して卑しい気持ちを持っていると知られたら、裏切られたと思わせてしまうに違いない。
この関係を崩したくない。そして、もう二度と傷付いてほしくない。
だからこんな気持ちはさっさと捨てて、今まで通りの俺を取り戻さないと。
「日南くん、プリントいい?」
「……あ、ごめん。貰うね」
後ろから回ってきたプリントを受け取って、悩んだ末に自分の分は白紙のまま提出した。
*
「おかえり、遅かったね」
いつもよりも疲れた身体を引き摺りながら帰宅すると、珍しく成海くんに出迎えられた。
「ただいま。……ちょっとやることがあって、遅くなっちゃった」
「ふぅん。夕飯できてるから、一緒に食べよ」
「えっ……待っててくれたの?」
随分と遅くなってしまった自覚はあったので、てっきりもう夕飯を済ませたのかと思っていた。信じられなくて目を丸くする俺を見て、成海くんの目尻が優しく下げられる。
「俺が待ちたかったの」
言いながらくしゃっと頭を撫でられて胸を弾ませた後、ちくりと小さな罪悪感に襲われた。
ただの兄弟としてのスキンシップだ。いちいちドキドキしたらいけないってわかってるのに、些細なことで反応してしまう自分はみっともない。
成海くんを好きな気持ちは一刻も早く消さなければいけない。それなのに日に日に膨らんでいくばかりで、そんな自分に反吐が出そうになる。
「なんか今日元気なくない?」
「そう?」
「いつもならそわそわしながらペラペラ喋ってるじゃん。ずーっと黙ってるから、違和感しかない」
「あー……」
向かい合って食事をしていると、とうとうそんな指摘をされてしまった。文化祭が終わってからずっと、成海くんへの気持ちと自分の進路のことで頭がいっぱいで、なかなか目の前のことに集中できないことが多い。
せっかく成海くんが俺と夕飯を食べるのを待ってくれていたのに、残念な思いをさせたくない。慌てて笑顔を取り繕った俺は、無理やり明るい声を出した。
「今日はバタバタしてたから疲れてるのかも。昼にまた生徒会室に呼ばれててさ、放課後も担任と面談があって」
「……」
「成海くんは今日どうだった? そういえば昼に偶然すれ違ったとき、珍しくコーヒー飲んでたよね。成海くんってブラック苦手だったと思うけど、いつ飲めるようになったの?」
我ながらよく回る口だ。うまく誤魔化せたと手応えを感じていたはずなのだが、何故か正面で成海くんは不満げに顔をしかめている。
「……っわ、どうしたの」
不意に前から手が伸びてきて、俺の目元を彼の親指がそっとなぞった。
「俺が指摘したからって、無理に喋んなくていいよ。クマできてるけど、ちゃんと眠れてる?」
「眠れてる……けど……」
恐るべき観察力だ。確かにここ数日、悩みすぎているせいか、眠りが浅く夜中に何度も起きてしまうことが続いている。
学校では誰にも指摘されなかったんだけどな。どうして成海くんは俺の変化に気付いてしまうんだろう。
「っあの、あんま触んないで……っ」
すぐに離れると思った指は、ずっと俺の下瞼を優しく往復するばかりで、むずむずとした変な気持ちになってくる。
好きだと自覚してしまったばかりだから、余計に居心地が悪い。そんなことを思ってはいけないと思えば思うほど、逆にそれしか考えられなくなってしまう。
「俺に嘘ついてない?」
成海くんの瞳が、何かを見透かすように俺の目を射抜いた。ドキッと心臓が跳ねるが、何事もないように振る舞う。
「……ついてないよ」
嘘って、何のことだろう。
ちゃんと寝れてるっていう嘘のことか、それとも。
誰にも吐き出していないはずのこの気持ちが、成海くんにバレているはずがない。そうわかっているのに、何故か彼には全部お見通しなような気がしてしまって、またチクチクと罪悪感が胸を刺した。
「へぇ~。あの優等生の日南くんが、進路調査を白紙で出すなんてねぇ」
学校の近くにある駅前のカフェには、制服姿の学生が溢れかえっている。放課後に古賀くんを呼び出した俺は、アイスティーを飲みながら彼の言葉に頷いた。
「さすがに白紙で出したら即担任に呼び出されて、何かあったのかって怒涛の質問攻めにあったよ。Y大と悩んでるって言ったら、むしろすごい勢いでそっち勧められたけど……」
「前は弟くんと離れたくないからY大はやめたって言ってなかったっけ? どんな心境の変化?」
「えーっと、色々と……なんか改めて考えたら、成海くんと離れたくないのとか、全部俺の自己満足だなって思っちゃって」
古賀くんの頼んだコーヒーフロートのソフトクリームが徐々に溶けて、コーヒーと混ざり合っていく。その様子をなんとなく見ながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「そばにいることが支えになると思ってたけど、このままだと逆に足を引っ張っちゃいそうっていうか」
少し前までは、自分が成海くんを守ってやるんだという気持ちが漲っていた。今だってその気持ちはあるけど、どうしたって邪な気持ちが邪魔をする。
今はまだ制御できているけど、もしもこの先自分が耐えきれなくなって、成海くんにこの気持ちを見抜かれるようなことがあったら。
成海くんを傷付けて、嫌われて、もう二度と口を聞いてくれないかもしれない。それが一番怖かった。
「……そっかそっか。まあ人間だし、気持ちなんて小さなきっかけで変わったりするよね」
言い淀んだ俺が何かを隠していることを察しているのだろうか。古賀くんはいつもの調子でにこやかに笑ってくれていて、それだけで少しだけ気が楽になる。
「日南くんはずっと弟くん一途って感じだったし、一度離れて外の世界を見てみるのもいいんじゃないかな。……って、同じブラコンの俺からしてもかなり難しいこと言ってるのはよくわかるけど」
「あはは、そうだよね。俺も最近になって初めて、自分の人生をもっとちゃんと生きないと、いつか痛い目見ることになりそうだなって思い始めて」
「そうそう。誰かの人生にずぶずぶに足突っ込んでるなって実感できるのって、結構後になってからだと思うんだよね。依存って自分じゃ気付けないでしょ」
「依存、か……」
思い当たる節があって苦笑してしまう。誰かの人生に足を踏み入れている間は、ぬるま湯に浸かっているみたいで心地良い。けれどずっとそうしているわけにはいかない。自分の足でしっかり立って前に進んでいかなければ。
「成海ィ~、こっちの席空いてる」
間延びしたような声が後ろの方から聞こえて、ドキッと心臓が跳ねた。
そっと振り向けば、こちらに向かって歩いてくる金髪の青年と、その後ろによく見知った黒髪の青年がいるのが見える。
成海くんと、その友人の……確か拓実くんと言っていただろうか。どちらにせよ、遭遇したらなんとなく気まずい。
「こっ古賀くん……どうしよう……!」
「あー……大丈夫。日南くんちょっと顔下げて。背もたれあるしギリ見えないと思う」
古賀くんに言われるがままに俯いていると、後ろの背もたれにとすん、と誰かが座るような気配がした。ゆっくり顔を上げると、古賀くんが親指を突き立てて無事だということを知らせてくる。
反射的に見つからないように隠れてしまった……。成海くんがいま後ろの席にいると思うと、ドキドキして後ろにばかり意識が向いてしまう。
「成海おまえさぁ、D組の木下さん振ったらしいじゃん」
「誰?」
「Fカップのメッチャ可愛い子。前も斎藤さん振ってたし、誰となら付き合うのよ」
「興味ないって言ってんじゃん」
「いちいち不機嫌になんなよ~」
どうやら成海くんは俺の真後ろに座っているらしい。喋る声が背中越しに伝わってきて会話が筒抜けだ。
「来週女子校と合コンあんだけど来る?」
「行くって答えると思ってる?」
「うぜ~。あーあ、なんなの。じゃあ相手がお兄ちゃんなら来んの?」
突然自分の名前が出てきて、思いがけず生唾を呑み込んだ。正面に視線を向けると、古賀くんは人差し指を口に当て、しーっとジェスチャーをしてくる。
「結局ブラコンかよ」
「うっせえ」
「文化祭でもチューしてたもんね。まあ確かにおまえのお兄ちゃん可愛い顔してるし、成海って案外男の方が好きだったりして」
軽い気持ちで盗み聞きしたことをすぐに後悔した。こんなところで成海くんの気持ちを聞くことになるなんて想像もしていなかったからだ。
ドキドキと鼓動がうるさい。成海くんの返事を聞くのが怖い。どんな風に答えるのか全く想像が付かない。
「あの人はそういうのじゃないから」
背もたれ越しに、成海くんの声が聞こえた。いつもより低いと感じるその声を、その言葉の意味を俺が理解するより先に、拓実くんの笑い声が響いた。
頭の中が真っ白になって、その先の会話はよく覚えていない。
わかりきっていたことだった。俺が勝手に成海くんに家族以上の気持ちを抱いてしまっただけだ。
でも、ほんの少し、心のどこかで、もしかして成海くんも、だなんて、淡い期待をしていたのかもしれない。
(……苦しい。胸が張り裂けそうだ)
情けない顔をしながら顔を上げると、古賀くんはわかりやすく困った顔をしていた。その表情を見て、きっと古賀くんは俺の気持ちもお見通しなんだなと悟った。
(俺はもう、成海くんのそばにはいられない。)
やっと自分の中で踏ん切りがついた瞬間だった。
*
「本当に行くの?」
「うん、もう決めたことだから」
いつもならテレビの音が響いているダイニングは、ひっそりと静まり返っていた。俺が答えると、母さんは困ったように眉を下げた。その横で父さんが母さんを宥めるように声を掛ける。
「──……わかった。この時期に進路を変えるなんて聞いたときは驚いたけど……沙也がそこまで考えてるなら、もう何も言うことはないよ」
「ありがとう。迷惑はかけないようにする」
ダイニングテーブルの前に座る二人に頭を下げ、その場を後にした。伝えてしまったからにはもう戻ることはできない。進路希望調査も提出したし、明日にでも担任と改めて面談をして、それから。
「……成海くん」
廊下に出ると、扉のすぐそばに彼がひっそりと立っていたことに気付いた。非難でもするみたいな鋭い視線が俺に向けられている。
「どういうこと?」
「……聞いてた?」
「こんな時間におかしいと思ったんだよ。Y大ってなに? 沙也ちゃん家出てくの?」
「ごめんね。ちゃんと、成海くんにも伝えるつもりだったんだけど」
進路を変更したことを、成海くんには最後に報告しようと思っていた。まさかこんな形で伝わってしまうとは、迂闊だった。
もっと冷静に聞いてくれるのではないかと予想していたのに、どこか怒りの色を滲ませてくれているのが、こんな状況だというのに少し嬉しく感じる。
「学びたいことがあるんだ。最後の最後まで悩んで、こんな時期になっちゃったけど……俺は俺のやりたいことを優先したいなって思ってる」
まっすぐに彼を見た。廊下が薄暗いせいか、成海くんの表情がいつもよりも翳って見えるのは気のせいだろうか。
突然こんなことを言って、動揺させている自覚はある。だからこそ、これだけは伝えておかなければ。
「離れてもずっと家族だよ。だから心配しないでね」
成海くんの大切にする"家族"の形を俺も守りたい。成海くんが俺のことを家族と呼んでくれるのなら、俺もその役目に徹したい。
「何かあったらすぐ連絡してくれていいから。困ったことがあったらすぐに飛んでいくし、遠慮しないで」
「……そんなの、……」
「え? 何か言った?」
うまく言葉を聞き取れなくて耳を傾けるが、次の瞬間には彼はいつも通りの顔を見せていた。
「……わかった。それが沙也ちゃんの選択なら、応援してる。頑張って」
目を細めて微笑む成海くんの言葉は、俺を励まそうとしてくれているものなのに、やけに胸に刺さって苦しくなった。
成海くんが俺の横を通り過ぎる。その瞬間、待ってと腕を引っ張って、引き留めてしまいそうになった。
すんでのところでぐっと堪えて、彼が去った後の廊下で一人立ち尽くす。
きっとこれが正解だったんだ。
後からそう思えるように、成海くんのことを好きだという気持ちも、そばにいたいという願望も全部捨てる覚悟をした。
離れたらこの気持ちを忘れられる日が来るのだろうか。そんなの今はちっとも、想像なんてできないけど。
あの夜の成海くんの、穏やかな表情を今でも鮮明に覚えている。彼が笑顔でいられるような毎日を作ろう、そのために努力しようと、あのときに胸に誓い直したことも。
純粋に俺を兄として慕ってくれている。
それなのに俺は、自分の心の奥底に沈んでいた劣情を自覚してしまった。
「──じゃあ、プリント記入したヤツから前に回して~」
担任の声が耳に入って、思わず肩を上げた。手元の進路希望調査の紙と睨めっこすること数分、未だに用紙は真っ白なままだ。
第一志望はこの一年間、一度も揺らぐことはなかった。県内で、実家から通えて、それなりに大学生活を満喫できそうなところ。
だけどここにきて、初めて自分の気持ちに迷いが生じていることに気が付いた。
──そういえば日南くん、Y大受けるんだっけ。
──え、もったいない。何で? 九条教授の講義とりたいって言ってなかった?
思い返せばきっかけなんて些細なことだ。古賀くんに指摘されてから久しぶりに、蓋をしていたはずの自分の気持ちが再び疼き始めた。
資料室で埃まみれの九条教授の本を見つけたことだってそうだ。あの日からずっと、このままでいいのかと胸の中にモヤモヤが残っている。
(ずっと成海くんのそばにいたいって思ってた。だけどこのまま成海くんの近くにいたら、俺は──……)
助けてあげたい。支えてあげたい。寂しいからそばにいたい。俺のことを忘れてほしくない。
身勝手で自己満足な言い訳ばかり重ねて、俺は自分の人生から逃げていただけなのかもしれない。
成海くんは成海くんの人生を生きている。もうちっとも幼くない、立派な一人の青年だ。
"家族"に対してトラウマがある成海くんに、俺が彼に対して卑しい気持ちを持っていると知られたら、裏切られたと思わせてしまうに違いない。
この関係を崩したくない。そして、もう二度と傷付いてほしくない。
だからこんな気持ちはさっさと捨てて、今まで通りの俺を取り戻さないと。
「日南くん、プリントいい?」
「……あ、ごめん。貰うね」
後ろから回ってきたプリントを受け取って、悩んだ末に自分の分は白紙のまま提出した。
*
「おかえり、遅かったね」
いつもよりも疲れた身体を引き摺りながら帰宅すると、珍しく成海くんに出迎えられた。
「ただいま。……ちょっとやることがあって、遅くなっちゃった」
「ふぅん。夕飯できてるから、一緒に食べよ」
「えっ……待っててくれたの?」
随分と遅くなってしまった自覚はあったので、てっきりもう夕飯を済ませたのかと思っていた。信じられなくて目を丸くする俺を見て、成海くんの目尻が優しく下げられる。
「俺が待ちたかったの」
言いながらくしゃっと頭を撫でられて胸を弾ませた後、ちくりと小さな罪悪感に襲われた。
ただの兄弟としてのスキンシップだ。いちいちドキドキしたらいけないってわかってるのに、些細なことで反応してしまう自分はみっともない。
成海くんを好きな気持ちは一刻も早く消さなければいけない。それなのに日に日に膨らんでいくばかりで、そんな自分に反吐が出そうになる。
「なんか今日元気なくない?」
「そう?」
「いつもならそわそわしながらペラペラ喋ってるじゃん。ずーっと黙ってるから、違和感しかない」
「あー……」
向かい合って食事をしていると、とうとうそんな指摘をされてしまった。文化祭が終わってからずっと、成海くんへの気持ちと自分の進路のことで頭がいっぱいで、なかなか目の前のことに集中できないことが多い。
せっかく成海くんが俺と夕飯を食べるのを待ってくれていたのに、残念な思いをさせたくない。慌てて笑顔を取り繕った俺は、無理やり明るい声を出した。
「今日はバタバタしてたから疲れてるのかも。昼にまた生徒会室に呼ばれててさ、放課後も担任と面談があって」
「……」
「成海くんは今日どうだった? そういえば昼に偶然すれ違ったとき、珍しくコーヒー飲んでたよね。成海くんってブラック苦手だったと思うけど、いつ飲めるようになったの?」
我ながらよく回る口だ。うまく誤魔化せたと手応えを感じていたはずなのだが、何故か正面で成海くんは不満げに顔をしかめている。
「……っわ、どうしたの」
不意に前から手が伸びてきて、俺の目元を彼の親指がそっとなぞった。
「俺が指摘したからって、無理に喋んなくていいよ。クマできてるけど、ちゃんと眠れてる?」
「眠れてる……けど……」
恐るべき観察力だ。確かにここ数日、悩みすぎているせいか、眠りが浅く夜中に何度も起きてしまうことが続いている。
学校では誰にも指摘されなかったんだけどな。どうして成海くんは俺の変化に気付いてしまうんだろう。
「っあの、あんま触んないで……っ」
すぐに離れると思った指は、ずっと俺の下瞼を優しく往復するばかりで、むずむずとした変な気持ちになってくる。
好きだと自覚してしまったばかりだから、余計に居心地が悪い。そんなことを思ってはいけないと思えば思うほど、逆にそれしか考えられなくなってしまう。
「俺に嘘ついてない?」
成海くんの瞳が、何かを見透かすように俺の目を射抜いた。ドキッと心臓が跳ねるが、何事もないように振る舞う。
「……ついてないよ」
嘘って、何のことだろう。
ちゃんと寝れてるっていう嘘のことか、それとも。
誰にも吐き出していないはずのこの気持ちが、成海くんにバレているはずがない。そうわかっているのに、何故か彼には全部お見通しなような気がしてしまって、またチクチクと罪悪感が胸を刺した。
「へぇ~。あの優等生の日南くんが、進路調査を白紙で出すなんてねぇ」
学校の近くにある駅前のカフェには、制服姿の学生が溢れかえっている。放課後に古賀くんを呼び出した俺は、アイスティーを飲みながら彼の言葉に頷いた。
「さすがに白紙で出したら即担任に呼び出されて、何かあったのかって怒涛の質問攻めにあったよ。Y大と悩んでるって言ったら、むしろすごい勢いでそっち勧められたけど……」
「前は弟くんと離れたくないからY大はやめたって言ってなかったっけ? どんな心境の変化?」
「えーっと、色々と……なんか改めて考えたら、成海くんと離れたくないのとか、全部俺の自己満足だなって思っちゃって」
古賀くんの頼んだコーヒーフロートのソフトクリームが徐々に溶けて、コーヒーと混ざり合っていく。その様子をなんとなく見ながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「そばにいることが支えになると思ってたけど、このままだと逆に足を引っ張っちゃいそうっていうか」
少し前までは、自分が成海くんを守ってやるんだという気持ちが漲っていた。今だってその気持ちはあるけど、どうしたって邪な気持ちが邪魔をする。
今はまだ制御できているけど、もしもこの先自分が耐えきれなくなって、成海くんにこの気持ちを見抜かれるようなことがあったら。
成海くんを傷付けて、嫌われて、もう二度と口を聞いてくれないかもしれない。それが一番怖かった。
「……そっかそっか。まあ人間だし、気持ちなんて小さなきっかけで変わったりするよね」
言い淀んだ俺が何かを隠していることを察しているのだろうか。古賀くんはいつもの調子でにこやかに笑ってくれていて、それだけで少しだけ気が楽になる。
「日南くんはずっと弟くん一途って感じだったし、一度離れて外の世界を見てみるのもいいんじゃないかな。……って、同じブラコンの俺からしてもかなり難しいこと言ってるのはよくわかるけど」
「あはは、そうだよね。俺も最近になって初めて、自分の人生をもっとちゃんと生きないと、いつか痛い目見ることになりそうだなって思い始めて」
「そうそう。誰かの人生にずぶずぶに足突っ込んでるなって実感できるのって、結構後になってからだと思うんだよね。依存って自分じゃ気付けないでしょ」
「依存、か……」
思い当たる節があって苦笑してしまう。誰かの人生に足を踏み入れている間は、ぬるま湯に浸かっているみたいで心地良い。けれどずっとそうしているわけにはいかない。自分の足でしっかり立って前に進んでいかなければ。
「成海ィ~、こっちの席空いてる」
間延びしたような声が後ろの方から聞こえて、ドキッと心臓が跳ねた。
そっと振り向けば、こちらに向かって歩いてくる金髪の青年と、その後ろによく見知った黒髪の青年がいるのが見える。
成海くんと、その友人の……確か拓実くんと言っていただろうか。どちらにせよ、遭遇したらなんとなく気まずい。
「こっ古賀くん……どうしよう……!」
「あー……大丈夫。日南くんちょっと顔下げて。背もたれあるしギリ見えないと思う」
古賀くんに言われるがままに俯いていると、後ろの背もたれにとすん、と誰かが座るような気配がした。ゆっくり顔を上げると、古賀くんが親指を突き立てて無事だということを知らせてくる。
反射的に見つからないように隠れてしまった……。成海くんがいま後ろの席にいると思うと、ドキドキして後ろにばかり意識が向いてしまう。
「成海おまえさぁ、D組の木下さん振ったらしいじゃん」
「誰?」
「Fカップのメッチャ可愛い子。前も斎藤さん振ってたし、誰となら付き合うのよ」
「興味ないって言ってんじゃん」
「いちいち不機嫌になんなよ~」
どうやら成海くんは俺の真後ろに座っているらしい。喋る声が背中越しに伝わってきて会話が筒抜けだ。
「来週女子校と合コンあんだけど来る?」
「行くって答えると思ってる?」
「うぜ~。あーあ、なんなの。じゃあ相手がお兄ちゃんなら来んの?」
突然自分の名前が出てきて、思いがけず生唾を呑み込んだ。正面に視線を向けると、古賀くんは人差し指を口に当て、しーっとジェスチャーをしてくる。
「結局ブラコンかよ」
「うっせえ」
「文化祭でもチューしてたもんね。まあ確かにおまえのお兄ちゃん可愛い顔してるし、成海って案外男の方が好きだったりして」
軽い気持ちで盗み聞きしたことをすぐに後悔した。こんなところで成海くんの気持ちを聞くことになるなんて想像もしていなかったからだ。
ドキドキと鼓動がうるさい。成海くんの返事を聞くのが怖い。どんな風に答えるのか全く想像が付かない。
「あの人はそういうのじゃないから」
背もたれ越しに、成海くんの声が聞こえた。いつもより低いと感じるその声を、その言葉の意味を俺が理解するより先に、拓実くんの笑い声が響いた。
頭の中が真っ白になって、その先の会話はよく覚えていない。
わかりきっていたことだった。俺が勝手に成海くんに家族以上の気持ちを抱いてしまっただけだ。
でも、ほんの少し、心のどこかで、もしかして成海くんも、だなんて、淡い期待をしていたのかもしれない。
(……苦しい。胸が張り裂けそうだ)
情けない顔をしながら顔を上げると、古賀くんはわかりやすく困った顔をしていた。その表情を見て、きっと古賀くんは俺の気持ちもお見通しなんだなと悟った。
(俺はもう、成海くんのそばにはいられない。)
やっと自分の中で踏ん切りがついた瞬間だった。
*
「本当に行くの?」
「うん、もう決めたことだから」
いつもならテレビの音が響いているダイニングは、ひっそりと静まり返っていた。俺が答えると、母さんは困ったように眉を下げた。その横で父さんが母さんを宥めるように声を掛ける。
「──……わかった。この時期に進路を変えるなんて聞いたときは驚いたけど……沙也がそこまで考えてるなら、もう何も言うことはないよ」
「ありがとう。迷惑はかけないようにする」
ダイニングテーブルの前に座る二人に頭を下げ、その場を後にした。伝えてしまったからにはもう戻ることはできない。進路希望調査も提出したし、明日にでも担任と改めて面談をして、それから。
「……成海くん」
廊下に出ると、扉のすぐそばに彼がひっそりと立っていたことに気付いた。非難でもするみたいな鋭い視線が俺に向けられている。
「どういうこと?」
「……聞いてた?」
「こんな時間におかしいと思ったんだよ。Y大ってなに? 沙也ちゃん家出てくの?」
「ごめんね。ちゃんと、成海くんにも伝えるつもりだったんだけど」
進路を変更したことを、成海くんには最後に報告しようと思っていた。まさかこんな形で伝わってしまうとは、迂闊だった。
もっと冷静に聞いてくれるのではないかと予想していたのに、どこか怒りの色を滲ませてくれているのが、こんな状況だというのに少し嬉しく感じる。
「学びたいことがあるんだ。最後の最後まで悩んで、こんな時期になっちゃったけど……俺は俺のやりたいことを優先したいなって思ってる」
まっすぐに彼を見た。廊下が薄暗いせいか、成海くんの表情がいつもよりも翳って見えるのは気のせいだろうか。
突然こんなことを言って、動揺させている自覚はある。だからこそ、これだけは伝えておかなければ。
「離れてもずっと家族だよ。だから心配しないでね」
成海くんの大切にする"家族"の形を俺も守りたい。成海くんが俺のことを家族と呼んでくれるのなら、俺もその役目に徹したい。
「何かあったらすぐ連絡してくれていいから。困ったことがあったらすぐに飛んでいくし、遠慮しないで」
「……そんなの、……」
「え? 何か言った?」
うまく言葉を聞き取れなくて耳を傾けるが、次の瞬間には彼はいつも通りの顔を見せていた。
「……わかった。それが沙也ちゃんの選択なら、応援してる。頑張って」
目を細めて微笑む成海くんの言葉は、俺を励まそうとしてくれているものなのに、やけに胸に刺さって苦しくなった。
成海くんが俺の横を通り過ぎる。その瞬間、待ってと腕を引っ張って、引き留めてしまいそうになった。
すんでのところでぐっと堪えて、彼が去った後の廊下で一人立ち尽くす。
きっとこれが正解だったんだ。
後からそう思えるように、成海くんのことを好きだという気持ちも、そばにいたいという願望も全部捨てる覚悟をした。
離れたらこの気持ちを忘れられる日が来るのだろうか。そんなの今はちっとも、想像なんてできないけど。
