雨が降るという予報は外れ、文化祭の当日はからっとした秋晴れに迎えられた。
午前中は模擬店で焼きそばを売ることに精を出していたが、午後になると途端にそわそわとして落ち着かなくなってくる。何度もちらちらと腕時計を確認する俺を見て、隣で焼きそばを焼いていたサトシが笑った。
「もうすぐだな。"カップル"コンテスト」
「はあ……そこ強調しないでよ」
わざとらしくニヤニヤとして肘で小突いてくるサトシにされるがままになりながら、俺は深いため息を吐いた。
「あんなに張り切ってたのに、なんでしょげてんだよ」
「だって……あのときはまさかあんな格好させられると思わなくて……」
「格好?」
きょとんと目を丸くするサトシは、まさかこの後俺が壇上にとんでもない格好で登場するとはつゆほども思っていないはずだ。
というかきっと、学校中の誰もが驚愕するに違いない。ドン引きされないことだけを激しく祈る。
*
「──……いいじゃん、なかなか似合うよ」
ところ変わって男子更衣室。
着替え終わった俺がおそるおそる後ろを振り向くと、俺の姿を爪先から頭のてっぺんまで凝視した成海くんが、愉しげに口角を上げた。
「いや、どこからどう見ても変でしょ。笑ってよ! ネタ枠だから完全に!」
「えーそう? 沙也ちゃんどっちかっていうと女顔だから違和感ないよ。腕もひょろひょろだし」
「誰がもやしやねんっ」
「言ってないし誰も。情緒不安定でウケる」
成海くんの言う通り、俺の心は激しく乱れている。理由は顕著だ。俺は今、女装をさせられているから。
胸元に大きなリボンのあしらわれた水色のドレスはなぜか膝丈で、スカートの中がやたらとスースーして違和感しかない。頭には茶色の長いウィッグを被っていて、緩やかに巻かれた髪が頬に当たってくすぐったい。
一方の成海くんは違う。深紅の軍服みたいなジャケットには金糸が縫い止められていて、白いシャツの襟元が僅かに開いている。長い足を包む白いパンツが立ち姿を引き立て、どこかの国の王子様かと見紛うほど麗しい。
かっこいい。むしろかっこいいなんて言葉はもったいなさすぎる。今すぐにスマホを出して写真を連写したい。
全ては俺がこんな格好じゃなければ……!
当初の予定では実行委員の強い希望により、二人で王子の格好をするはずだったのが、本番前日に発注ミスにより衣装が一人分しかないことが発覚したのがことの発端。
代わりに余っていると言われたのが、今俺が着ている女性物のドレスだ。
仕方なく制服で出ようとした俺を、成海くんが半笑いでドレスを差し出しながら「これで出なよ」と一蹴してきたのが決定打だった。
絶対盛り上がりますから、とか何とかあれよこれよと実行委員の子達に丸め込まれ、こんな辱めを受ける羽目になってしまった。
「せっかく可愛いかっこしてるんだから、そんな顔しないの」
回想をしながら苦い顔をしていると、近付いてきた成海くんによって、両手でむにゅっと頬を押し潰された。
「俺がエスコートするから大丈夫。沙也ちゃんは立ってニコニコしてるだけでいいから」
「うう……それが一番ハードルが高いような……」
「そういえば、約束ちゃんと覚えてる?」
「約束?」
一体何のことだろう。首を捻る俺の前で、成海くんが薄く笑った。
「ちゃんと俺の”お姫様”になりきってね」
その言葉を聞いて、やっと先日交わした会話を思い出した。
コンテストの間は”恋人のふり”をするように言われていたんだっけ。女装に気を取られすぎてすっかり忘れていた。
(そもそも何をしたら恋人っぽく見えるんだろう……)
成海くんは誰かと付き合ったことがあるのだろうか。長い間一緒にいるけど、成海くんの恋愛事情は全く聞いたことがない。女の子の告白を断ったという噂は、何度か耳にしたことがあるけど……。
「──あ、いたいた、成海くんっ」
着替えを終えて二人揃って更衣室を出ると、遠くの方から鈴を転がすような声が聞こえた。顔を向けると、ツインテールにリボンを巻いた女の子が、こちらに向かって走ってくるのが見える。
「こんにちはっ。わあ、お兄さんめっちゃ綺麗! この衣装がこんなに似合う男の人いませんよ、さすが~」
「いやそんな……ありがとう」
初対面のはずだが、距離の詰め方が上手い。胸元のリボンに触れながらキラキラとした瞳で話しかけられ、勢いに圧倒されながら返事をした。すると俺の方を向いていた女の子が、今度は俺の隣にその煌めいた瞳を向ける。
「成海くんもいつも通りかっこいいね。それって私服?」
「どう見ても違うでしょ」
「え~、でも前にクラスマッチの打ち上げしたとき、こういう服着てたじゃん」
「罰ゲームで着せられたんだよ。マジでずっといじってくるよね」
年相応な対応をする成海くんは珍しい。いつも学校ではアイドルスマイルを振り撒いている成海くんだけど、こんな風に自然体で話せる子もいたんだな、と会話の外で新鮮に驚いていた。
俺にしてきたみたいに、彼女は成海くんの肩のヒラヒラを楽しそうに触り出す。成海くんは特にそれを止めさせようとはせず、呆れたような顔でされるがままになっている。
完全に蚊帳の外の俺は、会話についていくこともできず、頓智気な格好をしたままぽつんと取り残されていた。
可愛らしく巻かれたツインテールに、桃色のリボンが似合う大きな瞳と小さな身体。それに比べて俺は、男のくせにパツパツのドレスを着てウィッグを被っている。
その対比が酷く惨めに思えて、今すぐにここから逃げ出したくなった。
「ってか何か用だった?」
「あ、そうそう。隣のクラスの子が一緒に写真撮ってほしいみたいでさ、呼んでこいって頼まれてるんだけど……」
「別にいいよ。一旦荷物置いてくるから後でいい?」
「全然おっけ。その辺うろうろしてるから準備できたらいつでも呼んで~」
女の子が去っていった後、成海くんが俺の方を向いた。
「ここから近いし沙也ちゃんの教室から行く?」
「……」
「沙也ちゃん?」
両肩が重い。腕に力が入らなくて、胸の辺がモヤモヤと苦しい。
表情筋がうまく働かない。いつもならすんなり笑えるのに、気を張らないとすぐに口角が下がりそうになる。
「あ……ぼうっとしてた。何だった?」
「荷物置きに行くの、沙也ちゃんからでいいよね。その後俺の教室まで着いてきてよ」
「……ごめん、俺あとから合流するよ」
「え?」
考える前に口をついて言葉が出ていた。きょとんとしたような成海くんの前で、なんとか愛想笑いをしてみせる。
「友達と一緒に模擬店回ろうって話してたんだよね。本番までに間に合えばいいでしょ?」
「そんなこと一言も言ってなかったじゃん」
「さっき思い出したんだよ。それに別にコンテスト出るからって、一緒にいなきゃいけないわけじゃないでしょ」
言ってからすぐ、なんだか嫌な言い方だなと気付いた。いつもなら絶対にこんな言い方しないはずなのに、今は取り繕う余裕がない。
俺の刺々しい言葉を聞いたって、成海くんは顔色一つ変えない。後ろめたさにゆらゆらと揺れる俺の目をじっと見てくるから、居た堪れない。
「そうだとしても、俺は沙也ちゃんといたい」
こんなにまっすぐに見つめられながら、こんなに嬉しいことを言ってもらえるなんて、心の底から嬉しいことのはずなのに。
それなのに、素直に受け取れない自分がとっても憎い。
(そんなこと言ったって、俺じゃなくたって楽しそうじゃん)
胸の内からふつふつと、捻くれた気持ちが込み上げてくる。卑屈になっていく思考が止められない。
頭のどこかで自分のことを惨めだと喚いているもう一人の自分がいて、感情がぐちゃぐちゃになっていく。
「成海くんと写真撮りたい子、いっぱいいるんでしょ。さっきの子だって仲良さそうだったし、せっかくの学校行事なんだから、俺なんかといないで他の子といてあげなよ」
「……話聞いてた? 俺は沙也ちゃんと、」
「──だから、そういうことじゃないんだって!」
声を荒げた後、目を丸くする成海くんを見てハッと我に返った。
こんなに感情的になるなんて俺らしくない。成海くんに当たり散らすなんてどうにかしている。
胸がざわざわする。こんなに不快なのは何故か。俺じゃない誰かに気を許したような成海くんの顔を思い出して、ぽつりと言葉を漏らした。
「俺なんかじゃなくて、あの子と出ればいいじゃん」
きっと成海くんの相手が俺じゃなくてあの子だったら、きっと誰もが振り向くほどお似合いに違いない。
腐っても俺は男だ。こんな風に着飾ったって、女の子になんか勝てるわけがない。
そんなことは最初から分かっていたし、そもそも張り合うつもりだってなかった。それなのにどうして今更こんなに苦しいんだろう。
「……ごめん、頭冷やしてくる」
背を向ける俺に、成海くんは何も返してくれなかった。
《場違いで消えたい》
こんなにメンヘラみたいな投稿をしたのは初めてだ。いつもはもっと自虐気味に笑い飛ばせるのに、やっぱり今日の俺はおかしい。
他人の目を避けるようにしてやってきた控え室には、幸いにも俺の他には誰もいなかった。模擬店のシフトもあるし、今は体育館で軽音部のライブもやっているはずだから、出払っているのだろう。
近くにあった椅子に腰を下ろし、スマホを握り締めたまま項垂れる。
最低なことをした。成海くんにあんなことを言ったって、何も変わらないのに……。
(嫌な思いさせちゃったよな。あとできちんと謝ろう……)
驚いたような成海くんの顔がずっと頭に焼き付いている。どうしてあんなにムキになってしまったのか、自分でもいまいちよくわからない。ただひたすら、あのときはあの場所にいたくなかった。
土曜だからか、すぐにいくつか反応がとんできた。そのどれもが俺を心配するような内容で、自分の気持ちを整理するために投稿したはずなのに、結果的に慰めてもらう形になってしまって申し訳なくなる。
その中で異質なリプライを見つけて、思わず目を留めた。
《メンヘラじゃん笑》
通常運転のからかいっぷりに、心がほんの少し軽くなるのがわかった。
不思議なことに、なぴちゃの言葉はいつだって突き放すようでいて、どこか素っ気ない優しさを含んでいる。
今だってきっと、ただからかうためにリプライをしてきたわけじゃないのだろう。その証拠に、リプの後にすぐにDMが飛んできた。
《やっほ~病んでる?この前はタイミング悪くて助けに行けなくてごめんねぇ。大丈夫だった?》
《全然。むしろこっちも急にすみませんでした。なんとかなりました》
最後に会話をしたのは一週間前。資料室に閉じ込められた俺が、なぴちゃが誰なのかを確かめるために、彼女を呼び出そうとしたあのときだ。
そういえばあのときは一瞬、成海くんがなぴちゃなのかと錯覚したんだっけ。冷静になるとありえないはずなのに、あのときは本気で疑って混乱してしまった。
でも──。俺に興味がないように見えて、なんだかんだ親身に相談に乗ってくれるところとか、俺に対するからかい方とか、ちょっとだけ通じるものがなくはない。
絶対にありえないと思っていても咄嗟に信じそうになったのは、そのせいなのだろうか。
《で、今度はなにを悩んでんのぉ?》
成海くんの顔を思い出していると、なぴちゃからDMが届いた。やっぱり俺のことを気にかけてメッセージを送ってきてくれたのだろう。遠回しな優しさに、ふっと笑いがこぼれる。
《このあと行われるカップルコンテストに弟と出るんですけど、俺女装してるんです。どう見ても似合ってないし、本当の女の子と比べると惨めになっちゃって、弟の横に立つのが嫌で》
絶対に他のフォロワーには言えないことがすらすら言葉にできるのは、今までにも何度か相談してきたからだろうか。今までも思い詰めたとき、なぴちゃに相談をすることで解決の糸口が見つかることは多々あった。
《しょーもな》
長々と打ち込んだ俺のメッセージに対して、返ってきたのはそんな五文字だった。
《女装ってそういうもんじゃん。なんで女子と張り合ってんのぉ?まず土俵が違うから》
《王子様の格好した弟が可愛い女の子と喋ってるの見たら、俺じゃなくてああいう子が横にいるのが自然なんだなって突き付けられちゃったっていうか》
《でも弟くんは遠藤ちゃんと出ることを選んだんでしょ?》
《それは俺が無理やり出ようって言っちゃったからで》
相変わらずなぴちゃの言葉は飾ることがなく、どこまでも直球だ。
嘘偽りのない言葉だとわかるからこそ、より心に響くのかもしれない。変に気を遣われるよりもずっと染みる。
《遠藤ちゃんは何に傷付いてるの?》
テンポよく行われていた会話が、俺で止まってしまった。
シンプルで的確な質問。だけど俺はすぐに答えを見つけることができなかった。自分のことなのに、自分の感情がわからない。
返す言葉を迷う俺を見透かすように、なぴちゃから次のメッセージが届く。
《女装が似合わないこと?それとも、》
文章はその後に続いていた。
《弟くんの隣に立つ資格がないって、勝手に決めつけてること?》
いつからか周囲に『日南兄弟』と呼ばれるようになって、セットで扱われるのが嬉しかった。成海くんの隣にいる自分が好きだった。たとえそれがビジネス仲良しだって、構わないとさえ思っていた。
だけど彼と急速に距離が縮まって、俺達の関係性も少しずつ形を変えていって、彼に対する自分の気持ちもいつしか色を変えて、もうとっくに弟としてなんて見られなくなっていた。
成海くんと仲睦まじげに話す女の子に、俺は無意識に自分を重ねて嫉妬していたんだ。だって俺と成海くんは兄弟で、俺は男で、どうしたってそのポジションにはなれないから。
きっとコンテストに出たって、兄弟として紹介されて終わってしまう。
それではもう、満足できなくなっていた。
”兄弟”としてじゃなくて、”恋人”として隣に並びたいなんていう、馬鹿げた願望が胸の中に芽生えてしまったからだ。
(ああ、そうか)
ずっと悩み続けていたことが、嘘みたいに、すとんと胸に落ちた。
(俺は成海くんのことが──)
答えがようやく見つかりかけたそのとき、背後の扉が勢いよく開いた。 うわっという馴染みのある声が聞こえて、思いがけず振り返ると、頭にハチマキを巻いたサトシが変な顔をして立っていた。
「びっっ……くりした、沙也かよ。驚かすなよ! ドアの近くに座んな!」
「ごめん、ちょっと休んでた」
「てかおまえ、こんなとこでなにしてんだよ。出番そろそろなんじゃねえの。もうコンテスト始まってたぞ」
時計を見ると時刻は十五時半を指していた。俺と成海くんの出番は四十分のはずで、もうとっくに集合時間を過ぎてしまっている。
「やばい、行ってくる。模擬店お疲れさま!」
「あいよ。ってかなんで女装?」
「それには触れないでほしい……」
勢いよく教室を飛び出した俺は、走り出そうとしてスカートの存在に気が付いた。
いつもみたいに大股で走ろうとするとスカートの中が見えそうになる。
なんて厄介な履物なんだこれは……!
チラチラと他の生徒達の視線を感じたので、愛想笑いを浮かべながら、なるべく早足で体育館へ急ぐ。
──ちゃんと俺の”お姫様”になりきってね。
成海くんの言葉が頭をよぎる。あのときだって無理だって思っていたのに、自分の気持ちを理解してしまった今、その一言はやけに胸に刺さる。
俺は、ちゃんとやれるのか──恋人のふりなんて。
体育館の近くまで来ると、中から漏れる歓声と拍手が耳に届く。
そこで待っている彼の顔を思い浮かべた瞬間、胸の鼓動が急にうるさく鳴り出すのがわかった。
*
「──さて続いては、何かと話題を欠くことのない注目の『日南兄弟』の登場です!」
体育館の後方扉から中に入ると、成海くんはもうステージの上に立っているのが見えた。
王子様の格好をした彼が、キャーッと悲鳴を上げる生徒達に順番に視線を向け、ニコッと微笑みながら手を振っている。
(やばい、出番始まってる……! 俺も早くあの場所に行かないと……!)
そう思うのに、体育館いっぱいにぎゅうぎゅうと人が埋め尽くされているせいで、なかなか前に進めそうにない。こんなことなら横着をせずに前の扉から入ればよかった……。焦っていて冷静な判断ができなかったのだ。
後ろからもどんどん生徒が入ってくる。もう後戻りもできそうにない。
身動きが取れずに四方から押し潰されながらなんとか壇上を見上げる。成海くんの隣にいる司会の生徒が、不思議そうな顔をして辺りを見渡していた。
「あれ? 弟の成海さんお一人ですか? お兄さんが見当たりませんね……」
司会の言葉を受けた周囲がざわつき始めるにも関わらず、ステージの上の成海くんは一切顔色を変えずに、涼しげな表情をしてそこに立っている。
もしかして俺のことはもう来ないものだと諦めているのだろうか。あんなに素っ気なく別れてしまったし、見放されてしまったのかもしれない。出て行って拒絶されたらと思うと、怖くて急に足が竦んでしまう。
「ねえ、ガチやばくない? 日南兄どこ行った?」
「成海くんだけとか不穏すぎ。やっぱ不仲説ホントなんじゃね?」
「えー……ショック。出るって言うから楽しみにしてたのに、裏切られた……」
近くでそんな声が聞こえてきて、俺はハッとした。
そうだ。せっかく成海くんを説得してコンテストに出てもらったのに、ここで俺が間に合わなければ不仲説を否定するどころかより強固なものにしてしまうことになる。
成海くんの健やかな高校生活のために、何とかそれだけは避けたい。
「……っ、成海くん!」
ただでさえ大音量のBGMと喧騒でうるさい体育館の中だ。俺が声を張り上げたところで、聞こえるはずもないことはわかっている。
だけど一縷の望みをかけて俺は成海くんの名前を叫んだ。握りしめた拳が震えるぐらいに力を込めて、腹の底から声を出した。
案の定、目の前にいた生徒が俺を振り返ったぐらいで、周りはちっとも俺の声に気付いていないのか、さっきと同じように会話を交わしている。
こんな調子で成海くんに声が届くはずない。絶望しながら顔を上げたそのとき、壇上の成海くんと視線が絡まった。
(えっ……今、俺のこと見た?)
そんなはずはない。だって爆音でうるさい音楽が鳴ってて、俺がいなくて会場はざわざわしていて、司会も場を繋ぐためにずっと喋ってて、こんなにありえない状況なのに。
「えーっと、成海さんっ? まだ持ち時間終わってませんけど……どうされましたか!?」
それなのに何で、成海くんは当たり前みたいな顔をして、こっちに向かってきてるんだろう。
ステージに続く階段を降りた成海くんは、まるでどこぞの王子様がレッドカーペットの上を歩いているかのような佇まいで、体育館の後方に向かってくる。彼が通ろうとする道は次々に生徒が避けていくので、一本の道ができている。
とうとう俺の前にいた生徒が視界からいなくなって、目の前に道が広がった。その少し先で、琥珀色の瞳が俺だけを射抜く。
「ごめん、待たせた?」
俺の小さな声を聞き取ってこうして迎えにきてくれるなんて、本物の王子様のようだと思った。
へんてこな格好をしている俺にようやく気が付いたのか、周囲から驚嘆の声が聞こえてくる。こんな姿で恥ずかしくて居た堪れない。
だけど俺は、もう逃げない。
「俺の方こそ、遅れてごめん」
ゆっくりと成海くんのいる方に歩み寄った。心臓がドキドキとうるさい。こんなに大勢の人の中から、彼は俺を見つけてくれた。その事実が背中を押してくれた。
「……ステージまで、連れてってくれる?」
成海くんの表情が、ふっと柔らかく緩んだ。
「──仰せのままに」
流れるように跪いた成海くんが、俺のもとに手を差し出す。ゆるりと微笑み返しながら、差し伸べられた手を取った。彼に手を引かれて、悲鳴にも似た歓声を受けながらステージに向かって歩く。
「なんと! 兄の沙也さんは客席にいたみたいです! これも何かの演出だったのでしょうか?」
興奮した様子の司会が煽るそばで、壇上に並んで立った。それでも繋がれた手を離される気配はない。客席の人達が俺達の手元に注目しているのが視線でわかって、気恥ずかしくなる。
この恋人のふりとやらも、仲良しアピールの一環なのだろうか。変にぎこちなくならないように、なんてことないふりをして微笑んだ。
「残念ながら持ち時間があと一分なんですけど、アピールしておきたいことはありますか?」
「えっと……」
眩しいスポットライトの下で渡されたマイクを握りながら、司会に急に話を振られて困惑してしまう。
今日が来るまでずっと、アピールタイムに何をしようか悩んでいたけど、どれもしっくりくることはなかった。結局何も考えずにその場の流れに任せようと決めたのだ。
「……皆さんもご存知の通り、成海くんと僕は血の繋がった兄弟じゃありません」
きっと俺達が不仲だという疑惑の目を向けてくる人達も中にはいるだろう。今までみたいに上辺だけ取り繕ったって、すぐに察してしまうに違いない。
「僕達は一見仲が良さそうに見えるかもしれませんが、最初からそうだったわけじゃなくて……。何なら最近までずっと、僕は成海くんのことをちゃんとわかってあげられていなかった」
さっきまでうるさかったはずの会場が、いつのまにかシンと静まり返っている。みんなが俺の言葉に耳を傾けてくれている。
「だけど今は違います。家でもたくさん会話をするようになって、知らなかった成海くんの新しい一面をたくさん知ることができて……」
言いながら、成海くんの方を見た。彼も同じように俺のことを見ていて、視線が重なる。
気を張っていたけど、成海くんの顔を見たら少し安心できた。少し前までは、彼の隣に立つには俺はふさわしくないと思っていた。だけど今は、隣に立てている自分を誇らしく思う。
俺は成海くんの方に身体を向けてから、少しの間を置いて、それから言葉を続けた。
「……前よりもっと、成海くんのことが大好きになったよ」
普段であれば絶対に言えないであろう言葉。だけどステージの力を借りてなら、口に出すことができた。
わあっと会場が盛り上がる声が響く。照れくさい気持ちになりながら、固まる成海くんに言葉を畳み掛ける。
「それでね、成海くん」
「……うん」
「今日は特別に、ひとつだけ俺のわがままを聞いてくれない?」
「えっ……なに?」
もちろん打ち合わせなどしていないので、成海くんは素で驚いた様子で、訝しげな顔をしている。
こんなことを言ったら後で怒られるだろうか。だけど今日ぐらいは、欲張ったってバチは当たらないだろう。
「いつもみたいに俺の名前、呼んで?」
甘えるように顔を覗き込めば、いつもは涼しい顔をしている彼の顔が、みるみるうちに悔しそうに歪んでいった。
その表情が何を意味しているのかはわからなかったけど、彼の余裕を崩せたことが嬉しい。
「兄さん。……じゃなくて」
成海くんの声が、マイクに乗って耳に届く。鼓動がいつもの倍ぐらい速く動いているのがわかる。マイクを持つ手が震えそうになって、ぎゅっと握り直した。
「──沙也ちゃん」
勘違いでなければ俺の名前を呼ぶその声は、いつもよりどことなく甘ったるい。鼓動を跳ね上げる俺のそばに、成海くんがそっと近付いた。
次の瞬間、頬に柔らかな感触が触れる。
キスをされたのだと気付いたのは、数秒遅れてからだった。
思考がうまく働かなくて、えっと声に出しながら視線だけ彼に向ける。俺の反応を楽しむように顔を覗き込む成海くんは、にやりと口角を吊り上げた。
「俺も沙也ちゃんのこと、死ぬほど好きだよ」
スポットライトよりも眩しくて綺麗な顔が、屈託なく笑うのを見た。会場が割れんばかりの悲鳴で揺れる。
胸がいっぱいで苦しくて、下手をしたら本当の気持ちを吐き出してしまいそうになった。さっき俺が伝えた大好きという言葉は、本当だけど本当じゃない。
──だって、成海くんの好きと俺の好きは違う。
「……もう勝手にヤキモチ妬かないでね」
マイクを通さない至近距離でぼそっと呟かれた言葉に、目を見開く。俺が嫉妬してたことは成海くんには話していないはずなのに、どうして見透かされているのだろう。
今日で最後にしよう。もう好きという思いは二度と表に出さないようにする。だから今日だけはどうか、彼の隣に恋人みたいな顔をして立つことを許してほしい。
この幸せが永遠に続けばいいのに──なんて、叶わない願いを胸にしまいながら、大好きな横顔を一番近くで目に焼き付けていた。
午前中は模擬店で焼きそばを売ることに精を出していたが、午後になると途端にそわそわとして落ち着かなくなってくる。何度もちらちらと腕時計を確認する俺を見て、隣で焼きそばを焼いていたサトシが笑った。
「もうすぐだな。"カップル"コンテスト」
「はあ……そこ強調しないでよ」
わざとらしくニヤニヤとして肘で小突いてくるサトシにされるがままになりながら、俺は深いため息を吐いた。
「あんなに張り切ってたのに、なんでしょげてんだよ」
「だって……あのときはまさかあんな格好させられると思わなくて……」
「格好?」
きょとんと目を丸くするサトシは、まさかこの後俺が壇上にとんでもない格好で登場するとはつゆほども思っていないはずだ。
というかきっと、学校中の誰もが驚愕するに違いない。ドン引きされないことだけを激しく祈る。
*
「──……いいじゃん、なかなか似合うよ」
ところ変わって男子更衣室。
着替え終わった俺がおそるおそる後ろを振り向くと、俺の姿を爪先から頭のてっぺんまで凝視した成海くんが、愉しげに口角を上げた。
「いや、どこからどう見ても変でしょ。笑ってよ! ネタ枠だから完全に!」
「えーそう? 沙也ちゃんどっちかっていうと女顔だから違和感ないよ。腕もひょろひょろだし」
「誰がもやしやねんっ」
「言ってないし誰も。情緒不安定でウケる」
成海くんの言う通り、俺の心は激しく乱れている。理由は顕著だ。俺は今、女装をさせられているから。
胸元に大きなリボンのあしらわれた水色のドレスはなぜか膝丈で、スカートの中がやたらとスースーして違和感しかない。頭には茶色の長いウィッグを被っていて、緩やかに巻かれた髪が頬に当たってくすぐったい。
一方の成海くんは違う。深紅の軍服みたいなジャケットには金糸が縫い止められていて、白いシャツの襟元が僅かに開いている。長い足を包む白いパンツが立ち姿を引き立て、どこかの国の王子様かと見紛うほど麗しい。
かっこいい。むしろかっこいいなんて言葉はもったいなさすぎる。今すぐにスマホを出して写真を連写したい。
全ては俺がこんな格好じゃなければ……!
当初の予定では実行委員の強い希望により、二人で王子の格好をするはずだったのが、本番前日に発注ミスにより衣装が一人分しかないことが発覚したのがことの発端。
代わりに余っていると言われたのが、今俺が着ている女性物のドレスだ。
仕方なく制服で出ようとした俺を、成海くんが半笑いでドレスを差し出しながら「これで出なよ」と一蹴してきたのが決定打だった。
絶対盛り上がりますから、とか何とかあれよこれよと実行委員の子達に丸め込まれ、こんな辱めを受ける羽目になってしまった。
「せっかく可愛いかっこしてるんだから、そんな顔しないの」
回想をしながら苦い顔をしていると、近付いてきた成海くんによって、両手でむにゅっと頬を押し潰された。
「俺がエスコートするから大丈夫。沙也ちゃんは立ってニコニコしてるだけでいいから」
「うう……それが一番ハードルが高いような……」
「そういえば、約束ちゃんと覚えてる?」
「約束?」
一体何のことだろう。首を捻る俺の前で、成海くんが薄く笑った。
「ちゃんと俺の”お姫様”になりきってね」
その言葉を聞いて、やっと先日交わした会話を思い出した。
コンテストの間は”恋人のふり”をするように言われていたんだっけ。女装に気を取られすぎてすっかり忘れていた。
(そもそも何をしたら恋人っぽく見えるんだろう……)
成海くんは誰かと付き合ったことがあるのだろうか。長い間一緒にいるけど、成海くんの恋愛事情は全く聞いたことがない。女の子の告白を断ったという噂は、何度か耳にしたことがあるけど……。
「──あ、いたいた、成海くんっ」
着替えを終えて二人揃って更衣室を出ると、遠くの方から鈴を転がすような声が聞こえた。顔を向けると、ツインテールにリボンを巻いた女の子が、こちらに向かって走ってくるのが見える。
「こんにちはっ。わあ、お兄さんめっちゃ綺麗! この衣装がこんなに似合う男の人いませんよ、さすが~」
「いやそんな……ありがとう」
初対面のはずだが、距離の詰め方が上手い。胸元のリボンに触れながらキラキラとした瞳で話しかけられ、勢いに圧倒されながら返事をした。すると俺の方を向いていた女の子が、今度は俺の隣にその煌めいた瞳を向ける。
「成海くんもいつも通りかっこいいね。それって私服?」
「どう見ても違うでしょ」
「え~、でも前にクラスマッチの打ち上げしたとき、こういう服着てたじゃん」
「罰ゲームで着せられたんだよ。マジでずっといじってくるよね」
年相応な対応をする成海くんは珍しい。いつも学校ではアイドルスマイルを振り撒いている成海くんだけど、こんな風に自然体で話せる子もいたんだな、と会話の外で新鮮に驚いていた。
俺にしてきたみたいに、彼女は成海くんの肩のヒラヒラを楽しそうに触り出す。成海くんは特にそれを止めさせようとはせず、呆れたような顔でされるがままになっている。
完全に蚊帳の外の俺は、会話についていくこともできず、頓智気な格好をしたままぽつんと取り残されていた。
可愛らしく巻かれたツインテールに、桃色のリボンが似合う大きな瞳と小さな身体。それに比べて俺は、男のくせにパツパツのドレスを着てウィッグを被っている。
その対比が酷く惨めに思えて、今すぐにここから逃げ出したくなった。
「ってか何か用だった?」
「あ、そうそう。隣のクラスの子が一緒に写真撮ってほしいみたいでさ、呼んでこいって頼まれてるんだけど……」
「別にいいよ。一旦荷物置いてくるから後でいい?」
「全然おっけ。その辺うろうろしてるから準備できたらいつでも呼んで~」
女の子が去っていった後、成海くんが俺の方を向いた。
「ここから近いし沙也ちゃんの教室から行く?」
「……」
「沙也ちゃん?」
両肩が重い。腕に力が入らなくて、胸の辺がモヤモヤと苦しい。
表情筋がうまく働かない。いつもならすんなり笑えるのに、気を張らないとすぐに口角が下がりそうになる。
「あ……ぼうっとしてた。何だった?」
「荷物置きに行くの、沙也ちゃんからでいいよね。その後俺の教室まで着いてきてよ」
「……ごめん、俺あとから合流するよ」
「え?」
考える前に口をついて言葉が出ていた。きょとんとしたような成海くんの前で、なんとか愛想笑いをしてみせる。
「友達と一緒に模擬店回ろうって話してたんだよね。本番までに間に合えばいいでしょ?」
「そんなこと一言も言ってなかったじゃん」
「さっき思い出したんだよ。それに別にコンテスト出るからって、一緒にいなきゃいけないわけじゃないでしょ」
言ってからすぐ、なんだか嫌な言い方だなと気付いた。いつもなら絶対にこんな言い方しないはずなのに、今は取り繕う余裕がない。
俺の刺々しい言葉を聞いたって、成海くんは顔色一つ変えない。後ろめたさにゆらゆらと揺れる俺の目をじっと見てくるから、居た堪れない。
「そうだとしても、俺は沙也ちゃんといたい」
こんなにまっすぐに見つめられながら、こんなに嬉しいことを言ってもらえるなんて、心の底から嬉しいことのはずなのに。
それなのに、素直に受け取れない自分がとっても憎い。
(そんなこと言ったって、俺じゃなくたって楽しそうじゃん)
胸の内からふつふつと、捻くれた気持ちが込み上げてくる。卑屈になっていく思考が止められない。
頭のどこかで自分のことを惨めだと喚いているもう一人の自分がいて、感情がぐちゃぐちゃになっていく。
「成海くんと写真撮りたい子、いっぱいいるんでしょ。さっきの子だって仲良さそうだったし、せっかくの学校行事なんだから、俺なんかといないで他の子といてあげなよ」
「……話聞いてた? 俺は沙也ちゃんと、」
「──だから、そういうことじゃないんだって!」
声を荒げた後、目を丸くする成海くんを見てハッと我に返った。
こんなに感情的になるなんて俺らしくない。成海くんに当たり散らすなんてどうにかしている。
胸がざわざわする。こんなに不快なのは何故か。俺じゃない誰かに気を許したような成海くんの顔を思い出して、ぽつりと言葉を漏らした。
「俺なんかじゃなくて、あの子と出ればいいじゃん」
きっと成海くんの相手が俺じゃなくてあの子だったら、きっと誰もが振り向くほどお似合いに違いない。
腐っても俺は男だ。こんな風に着飾ったって、女の子になんか勝てるわけがない。
そんなことは最初から分かっていたし、そもそも張り合うつもりだってなかった。それなのにどうして今更こんなに苦しいんだろう。
「……ごめん、頭冷やしてくる」
背を向ける俺に、成海くんは何も返してくれなかった。
《場違いで消えたい》
こんなにメンヘラみたいな投稿をしたのは初めてだ。いつもはもっと自虐気味に笑い飛ばせるのに、やっぱり今日の俺はおかしい。
他人の目を避けるようにしてやってきた控え室には、幸いにも俺の他には誰もいなかった。模擬店のシフトもあるし、今は体育館で軽音部のライブもやっているはずだから、出払っているのだろう。
近くにあった椅子に腰を下ろし、スマホを握り締めたまま項垂れる。
最低なことをした。成海くんにあんなことを言ったって、何も変わらないのに……。
(嫌な思いさせちゃったよな。あとできちんと謝ろう……)
驚いたような成海くんの顔がずっと頭に焼き付いている。どうしてあんなにムキになってしまったのか、自分でもいまいちよくわからない。ただひたすら、あのときはあの場所にいたくなかった。
土曜だからか、すぐにいくつか反応がとんできた。そのどれもが俺を心配するような内容で、自分の気持ちを整理するために投稿したはずなのに、結果的に慰めてもらう形になってしまって申し訳なくなる。
その中で異質なリプライを見つけて、思わず目を留めた。
《メンヘラじゃん笑》
通常運転のからかいっぷりに、心がほんの少し軽くなるのがわかった。
不思議なことに、なぴちゃの言葉はいつだって突き放すようでいて、どこか素っ気ない優しさを含んでいる。
今だってきっと、ただからかうためにリプライをしてきたわけじゃないのだろう。その証拠に、リプの後にすぐにDMが飛んできた。
《やっほ~病んでる?この前はタイミング悪くて助けに行けなくてごめんねぇ。大丈夫だった?》
《全然。むしろこっちも急にすみませんでした。なんとかなりました》
最後に会話をしたのは一週間前。資料室に閉じ込められた俺が、なぴちゃが誰なのかを確かめるために、彼女を呼び出そうとしたあのときだ。
そういえばあのときは一瞬、成海くんがなぴちゃなのかと錯覚したんだっけ。冷静になるとありえないはずなのに、あのときは本気で疑って混乱してしまった。
でも──。俺に興味がないように見えて、なんだかんだ親身に相談に乗ってくれるところとか、俺に対するからかい方とか、ちょっとだけ通じるものがなくはない。
絶対にありえないと思っていても咄嗟に信じそうになったのは、そのせいなのだろうか。
《で、今度はなにを悩んでんのぉ?》
成海くんの顔を思い出していると、なぴちゃからDMが届いた。やっぱり俺のことを気にかけてメッセージを送ってきてくれたのだろう。遠回しな優しさに、ふっと笑いがこぼれる。
《このあと行われるカップルコンテストに弟と出るんですけど、俺女装してるんです。どう見ても似合ってないし、本当の女の子と比べると惨めになっちゃって、弟の横に立つのが嫌で》
絶対に他のフォロワーには言えないことがすらすら言葉にできるのは、今までにも何度か相談してきたからだろうか。今までも思い詰めたとき、なぴちゃに相談をすることで解決の糸口が見つかることは多々あった。
《しょーもな》
長々と打ち込んだ俺のメッセージに対して、返ってきたのはそんな五文字だった。
《女装ってそういうもんじゃん。なんで女子と張り合ってんのぉ?まず土俵が違うから》
《王子様の格好した弟が可愛い女の子と喋ってるの見たら、俺じゃなくてああいう子が横にいるのが自然なんだなって突き付けられちゃったっていうか》
《でも弟くんは遠藤ちゃんと出ることを選んだんでしょ?》
《それは俺が無理やり出ようって言っちゃったからで》
相変わらずなぴちゃの言葉は飾ることがなく、どこまでも直球だ。
嘘偽りのない言葉だとわかるからこそ、より心に響くのかもしれない。変に気を遣われるよりもずっと染みる。
《遠藤ちゃんは何に傷付いてるの?》
テンポよく行われていた会話が、俺で止まってしまった。
シンプルで的確な質問。だけど俺はすぐに答えを見つけることができなかった。自分のことなのに、自分の感情がわからない。
返す言葉を迷う俺を見透かすように、なぴちゃから次のメッセージが届く。
《女装が似合わないこと?それとも、》
文章はその後に続いていた。
《弟くんの隣に立つ資格がないって、勝手に決めつけてること?》
いつからか周囲に『日南兄弟』と呼ばれるようになって、セットで扱われるのが嬉しかった。成海くんの隣にいる自分が好きだった。たとえそれがビジネス仲良しだって、構わないとさえ思っていた。
だけど彼と急速に距離が縮まって、俺達の関係性も少しずつ形を変えていって、彼に対する自分の気持ちもいつしか色を変えて、もうとっくに弟としてなんて見られなくなっていた。
成海くんと仲睦まじげに話す女の子に、俺は無意識に自分を重ねて嫉妬していたんだ。だって俺と成海くんは兄弟で、俺は男で、どうしたってそのポジションにはなれないから。
きっとコンテストに出たって、兄弟として紹介されて終わってしまう。
それではもう、満足できなくなっていた。
”兄弟”としてじゃなくて、”恋人”として隣に並びたいなんていう、馬鹿げた願望が胸の中に芽生えてしまったからだ。
(ああ、そうか)
ずっと悩み続けていたことが、嘘みたいに、すとんと胸に落ちた。
(俺は成海くんのことが──)
答えがようやく見つかりかけたそのとき、背後の扉が勢いよく開いた。 うわっという馴染みのある声が聞こえて、思いがけず振り返ると、頭にハチマキを巻いたサトシが変な顔をして立っていた。
「びっっ……くりした、沙也かよ。驚かすなよ! ドアの近くに座んな!」
「ごめん、ちょっと休んでた」
「てかおまえ、こんなとこでなにしてんだよ。出番そろそろなんじゃねえの。もうコンテスト始まってたぞ」
時計を見ると時刻は十五時半を指していた。俺と成海くんの出番は四十分のはずで、もうとっくに集合時間を過ぎてしまっている。
「やばい、行ってくる。模擬店お疲れさま!」
「あいよ。ってかなんで女装?」
「それには触れないでほしい……」
勢いよく教室を飛び出した俺は、走り出そうとしてスカートの存在に気が付いた。
いつもみたいに大股で走ろうとするとスカートの中が見えそうになる。
なんて厄介な履物なんだこれは……!
チラチラと他の生徒達の視線を感じたので、愛想笑いを浮かべながら、なるべく早足で体育館へ急ぐ。
──ちゃんと俺の”お姫様”になりきってね。
成海くんの言葉が頭をよぎる。あのときだって無理だって思っていたのに、自分の気持ちを理解してしまった今、その一言はやけに胸に刺さる。
俺は、ちゃんとやれるのか──恋人のふりなんて。
体育館の近くまで来ると、中から漏れる歓声と拍手が耳に届く。
そこで待っている彼の顔を思い浮かべた瞬間、胸の鼓動が急にうるさく鳴り出すのがわかった。
*
「──さて続いては、何かと話題を欠くことのない注目の『日南兄弟』の登場です!」
体育館の後方扉から中に入ると、成海くんはもうステージの上に立っているのが見えた。
王子様の格好をした彼が、キャーッと悲鳴を上げる生徒達に順番に視線を向け、ニコッと微笑みながら手を振っている。
(やばい、出番始まってる……! 俺も早くあの場所に行かないと……!)
そう思うのに、体育館いっぱいにぎゅうぎゅうと人が埋め尽くされているせいで、なかなか前に進めそうにない。こんなことなら横着をせずに前の扉から入ればよかった……。焦っていて冷静な判断ができなかったのだ。
後ろからもどんどん生徒が入ってくる。もう後戻りもできそうにない。
身動きが取れずに四方から押し潰されながらなんとか壇上を見上げる。成海くんの隣にいる司会の生徒が、不思議そうな顔をして辺りを見渡していた。
「あれ? 弟の成海さんお一人ですか? お兄さんが見当たりませんね……」
司会の言葉を受けた周囲がざわつき始めるにも関わらず、ステージの上の成海くんは一切顔色を変えずに、涼しげな表情をしてそこに立っている。
もしかして俺のことはもう来ないものだと諦めているのだろうか。あんなに素っ気なく別れてしまったし、見放されてしまったのかもしれない。出て行って拒絶されたらと思うと、怖くて急に足が竦んでしまう。
「ねえ、ガチやばくない? 日南兄どこ行った?」
「成海くんだけとか不穏すぎ。やっぱ不仲説ホントなんじゃね?」
「えー……ショック。出るって言うから楽しみにしてたのに、裏切られた……」
近くでそんな声が聞こえてきて、俺はハッとした。
そうだ。せっかく成海くんを説得してコンテストに出てもらったのに、ここで俺が間に合わなければ不仲説を否定するどころかより強固なものにしてしまうことになる。
成海くんの健やかな高校生活のために、何とかそれだけは避けたい。
「……っ、成海くん!」
ただでさえ大音量のBGMと喧騒でうるさい体育館の中だ。俺が声を張り上げたところで、聞こえるはずもないことはわかっている。
だけど一縷の望みをかけて俺は成海くんの名前を叫んだ。握りしめた拳が震えるぐらいに力を込めて、腹の底から声を出した。
案の定、目の前にいた生徒が俺を振り返ったぐらいで、周りはちっとも俺の声に気付いていないのか、さっきと同じように会話を交わしている。
こんな調子で成海くんに声が届くはずない。絶望しながら顔を上げたそのとき、壇上の成海くんと視線が絡まった。
(えっ……今、俺のこと見た?)
そんなはずはない。だって爆音でうるさい音楽が鳴ってて、俺がいなくて会場はざわざわしていて、司会も場を繋ぐためにずっと喋ってて、こんなにありえない状況なのに。
「えーっと、成海さんっ? まだ持ち時間終わってませんけど……どうされましたか!?」
それなのに何で、成海くんは当たり前みたいな顔をして、こっちに向かってきてるんだろう。
ステージに続く階段を降りた成海くんは、まるでどこぞの王子様がレッドカーペットの上を歩いているかのような佇まいで、体育館の後方に向かってくる。彼が通ろうとする道は次々に生徒が避けていくので、一本の道ができている。
とうとう俺の前にいた生徒が視界からいなくなって、目の前に道が広がった。その少し先で、琥珀色の瞳が俺だけを射抜く。
「ごめん、待たせた?」
俺の小さな声を聞き取ってこうして迎えにきてくれるなんて、本物の王子様のようだと思った。
へんてこな格好をしている俺にようやく気が付いたのか、周囲から驚嘆の声が聞こえてくる。こんな姿で恥ずかしくて居た堪れない。
だけど俺は、もう逃げない。
「俺の方こそ、遅れてごめん」
ゆっくりと成海くんのいる方に歩み寄った。心臓がドキドキとうるさい。こんなに大勢の人の中から、彼は俺を見つけてくれた。その事実が背中を押してくれた。
「……ステージまで、連れてってくれる?」
成海くんの表情が、ふっと柔らかく緩んだ。
「──仰せのままに」
流れるように跪いた成海くんが、俺のもとに手を差し出す。ゆるりと微笑み返しながら、差し伸べられた手を取った。彼に手を引かれて、悲鳴にも似た歓声を受けながらステージに向かって歩く。
「なんと! 兄の沙也さんは客席にいたみたいです! これも何かの演出だったのでしょうか?」
興奮した様子の司会が煽るそばで、壇上に並んで立った。それでも繋がれた手を離される気配はない。客席の人達が俺達の手元に注目しているのが視線でわかって、気恥ずかしくなる。
この恋人のふりとやらも、仲良しアピールの一環なのだろうか。変にぎこちなくならないように、なんてことないふりをして微笑んだ。
「残念ながら持ち時間があと一分なんですけど、アピールしておきたいことはありますか?」
「えっと……」
眩しいスポットライトの下で渡されたマイクを握りながら、司会に急に話を振られて困惑してしまう。
今日が来るまでずっと、アピールタイムに何をしようか悩んでいたけど、どれもしっくりくることはなかった。結局何も考えずにその場の流れに任せようと決めたのだ。
「……皆さんもご存知の通り、成海くんと僕は血の繋がった兄弟じゃありません」
きっと俺達が不仲だという疑惑の目を向けてくる人達も中にはいるだろう。今までみたいに上辺だけ取り繕ったって、すぐに察してしまうに違いない。
「僕達は一見仲が良さそうに見えるかもしれませんが、最初からそうだったわけじゃなくて……。何なら最近までずっと、僕は成海くんのことをちゃんとわかってあげられていなかった」
さっきまでうるさかったはずの会場が、いつのまにかシンと静まり返っている。みんなが俺の言葉に耳を傾けてくれている。
「だけど今は違います。家でもたくさん会話をするようになって、知らなかった成海くんの新しい一面をたくさん知ることができて……」
言いながら、成海くんの方を見た。彼も同じように俺のことを見ていて、視線が重なる。
気を張っていたけど、成海くんの顔を見たら少し安心できた。少し前までは、彼の隣に立つには俺はふさわしくないと思っていた。だけど今は、隣に立てている自分を誇らしく思う。
俺は成海くんの方に身体を向けてから、少しの間を置いて、それから言葉を続けた。
「……前よりもっと、成海くんのことが大好きになったよ」
普段であれば絶対に言えないであろう言葉。だけどステージの力を借りてなら、口に出すことができた。
わあっと会場が盛り上がる声が響く。照れくさい気持ちになりながら、固まる成海くんに言葉を畳み掛ける。
「それでね、成海くん」
「……うん」
「今日は特別に、ひとつだけ俺のわがままを聞いてくれない?」
「えっ……なに?」
もちろん打ち合わせなどしていないので、成海くんは素で驚いた様子で、訝しげな顔をしている。
こんなことを言ったら後で怒られるだろうか。だけど今日ぐらいは、欲張ったってバチは当たらないだろう。
「いつもみたいに俺の名前、呼んで?」
甘えるように顔を覗き込めば、いつもは涼しい顔をしている彼の顔が、みるみるうちに悔しそうに歪んでいった。
その表情が何を意味しているのかはわからなかったけど、彼の余裕を崩せたことが嬉しい。
「兄さん。……じゃなくて」
成海くんの声が、マイクに乗って耳に届く。鼓動がいつもの倍ぐらい速く動いているのがわかる。マイクを持つ手が震えそうになって、ぎゅっと握り直した。
「──沙也ちゃん」
勘違いでなければ俺の名前を呼ぶその声は、いつもよりどことなく甘ったるい。鼓動を跳ね上げる俺のそばに、成海くんがそっと近付いた。
次の瞬間、頬に柔らかな感触が触れる。
キスをされたのだと気付いたのは、数秒遅れてからだった。
思考がうまく働かなくて、えっと声に出しながら視線だけ彼に向ける。俺の反応を楽しむように顔を覗き込む成海くんは、にやりと口角を吊り上げた。
「俺も沙也ちゃんのこと、死ぬほど好きだよ」
スポットライトよりも眩しくて綺麗な顔が、屈託なく笑うのを見た。会場が割れんばかりの悲鳴で揺れる。
胸がいっぱいで苦しくて、下手をしたら本当の気持ちを吐き出してしまいそうになった。さっき俺が伝えた大好きという言葉は、本当だけど本当じゃない。
──だって、成海くんの好きと俺の好きは違う。
「……もう勝手にヤキモチ妬かないでね」
マイクを通さない至近距離でぼそっと呟かれた言葉に、目を見開く。俺が嫉妬してたことは成海くんには話していないはずなのに、どうして見透かされているのだろう。
今日で最後にしよう。もう好きという思いは二度と表に出さないようにする。だから今日だけはどうか、彼の隣に恋人みたいな顔をして立つことを許してほしい。
この幸せが永遠に続けばいいのに──なんて、叶わない願いを胸にしまいながら、大好きな横顔を一番近くで目に焼き付けていた。
