「な、成海くんっ……」
俺の手を引っ張ったまま早足で廊下を進む成海くんの背に呼びかけると、ようやく彼は立ち止まってくれた。
窓の外からは運動部の声や笛の音が聞こえてくる。その活気に満ちた向こう側とは対照的に、人気の少ない廊下で立ち尽くす俺達の間には重たい沈黙が流れていた。
「……あの、俺は人間です。尻尾とかないし」
「知ってるし」
勇気を出して打ち明けたつもりだったのに、成海くんからは呆れたような声が返ってくるだけだった。あまりにも即答だったので、馬鹿なことを言ってしまったみたいで恥ずかしくなってくる。
「だったらなんであんな変なこと言うの……あとなんでずっと怒ってるの」
付け足すように足した方が一番聞きたいことだなんて、きっと彼にはわかりきっているはずだ。
成海くんはじっと俺を見下ろしたまま、口を開こうとしてくれない。
「やっぱり家に友達を呼んだのが嫌だった?」
「は? 別にそんなのどうでもいいよ」
「じゃあ何で」
成海くんと義兄弟になってからずっと素っ気ない態度は当たり前だったけど、こんな風に怒りを露わにされるのは初めてだ。
彼の様子がおかしくなったのはあの日からだ。古賀くんが来たあの日。
てっきり俺は友達を家に呼ばれるのが嫌だったんだと思っていた。でもそうじゃないらしい。だとしたら考えられる可能性は何だろう。
──ヤキモチ妬いて拗ねてるんですよ、弟くんは。
不意にすべ氏から送られてきた言葉が、頭をよぎった。
まさか。絶対にそんなはずはない。だけどもう、選択肢がそれしか残っていない。
冗談めいた感じで言えば怒られないだろうか。ごくんと唾を吞んでから、意を決して口を開いた。
「……寂しかったとか?」
ヘラヘラと笑いながらそう口にすると、俺の手首を掴んだままの成海くんの手が、僅かにピクリと反応した。
「俺が他の人と遊んでて、寂しくて拗ねちゃったとか……あはは、なんちゃって。自惚れにも程があるよね」
「そうだよ」
「………………えっ?」
”ありえない”という前提で話していた俺が成海くんの言ったことを理解するまでに、少しの時間を要した。
聞き間違いかと顔を上げるのと同時に、ぐっと手を引かれて顔が近付く。
「だって沙也ちゃんは俺のでしょ」
額がこつんと触れた。
焦点の合わないほど近い距離に綺麗な瞳が見えて、頭の中が一瞬で真っ白になる。
手首を握られていたはずなのに、いつのまにか手を握られていることに気付いた。一見華奢なように見える成海くんの手は、触れると意外とゴツゴツとしている。
冷たい表情とは裏腹に、その手はびっくりするほど熱かった。
「他のヤツにうつつ抜かしてんなよ。いつもみたいに盲目に俺のことだけ見てればいいじゃん。誰かに相手してほしいなら、俺がいるだろ」
言われている言葉が素直に頭の中に入ってくれない。
理解が追い付かなくて意味のない母音を垂れ流す俺を見かねたのか、ようやく綺麗な顔が離れていった。
沙也ちゃんは、俺の。俺のって、成海くんの?
誰が?
……俺が?
「……エエッ」
「リアクションおそ」
「だ、だって」
遅れて意味を理解した瞬間に、沸騰しそうなほど顔が熱くなってくる。
知らなかった。俺って、成海くんの所有物だったんだ。
兄弟になるとそういう暗黙の了解でもあるのか?
さすがにそんな話は聞いたことはないけど、一つ確かに言えることは。
「顔真っ赤。なんで?」
「違っ……! むりごめん、いま見ないで」
全然嫌じゃないっていうかむしろ、そんなことを言われて喜んでいる自分がいる。
己の趣向が信じられない。もしかして俺ってマゾ寄りなのか。
……いやでも、成海くん以外にそんなことを言われたって絶対に鳥肌モノだし、成海くんが言う台詞だから全部嬉しいに決まってる。
例えこの場限りの気まぐれな言葉だって構わない。気の迷いだとしても、俺に対して一瞬でもヤキモチを妬いてくれたということが、どうしようもなく嬉しい。
「俺のせい?」
真っ赤な顔を見られたくなくて両手で覆い隠していると、手一枚挟んだ向こう側から甘ったるい声が聞こえてきた。
いつものからかうような声とはどこか違うからこそタチが悪い。
このスイッチが入った成海くんに己が弱いことは、俺が一番よくわかっている。
「っはは、必死に隠してんのかーわいー。とっくにバレてんのに。そんなに顔見られたくない?」
「っ成海くん、ちょっと、悪ふざけが過ぎる……!」
「なんで? 俺は見たいよ。だって俺のせいなんでしょ。見せてよ」
「ちょ、本当まって、だめだって」
俺の制止をまったく聞かない成海くんは、見かけによらず物凄い力で俺の手を退かそうとしてくる。
このままだと兄としては不甲斐ない醜態を成海くんに晒すことになってしまう。
それだけはなんとかして避けたい。
(どうしよう、何か成海くんの気を逸らせること……っ!)
混沌とした状況の中、あることを思い出す。その瞬間に俺は考える間もなく、自らの腕を思いっきり前に伸ばして、勢いよく成海くんの胸に飛び込んだ。
「……っ」
頭上で成海くんが息を呑む音が聞こえた。
彼のシャツからは俺と同じ柔軟剤の香りがして、華奢だと思っていた胸は思っていたよりももっと逞しかった。ぎゅっと両腕を背中に回すと、彼が困惑したように硬直するのがわかった。
「……仲直り、の、ハグ」
ぎこちなく呟く俺の声が、シンと静まり返った廊下の壁に吸い込まれていく。
こうすれば顔を見られないだろう、と裏をかいたつもりでいた。
だけど間違えた、と真っ先に思った。
こんなはずじゃなかった。
もっと軽く、ふざけた感じでするつもりだったのに。
「……妬ける」
「え、なにが」
「いいようにされてんじゃねえよ」
意味のわからないことを呟いて、何故か怒っている成海くんは、言葉とは裏腹に俺の背に腕を回して、ぎゅっと力強く抱きしめ返してくれた。
「……まだ怒ってる?」
「知らない」
「さっきの、成海くんが俺の相手してくれるって……本当?」
いつもなら絶対に口にできないようなことも、不思議と、彼の腕の中でなら言えるような気がした。
今どんな顔をしているんだろう。
俺の顔を見られない代わりに、成海くんの顔が見えないのは寂しいと思った。
「できれば家でも普通に会話したいし、これからは避けないでほしいな。あとまた弁当作っていくから、学校で一緒に食べたいなーなんて……」
「……いきなり注文多すぎ」
「あっごめん……舞い上がっちゃって」
気が緩んで、つい調子に乗ってペラペラと喋ってしまった。耳元で彼の嘆息が聞こえる。
「わかった。その代わり、こういうことすんの全部俺だけにしてね」
こういうことって、どこまでのことを指すのだろう。
聞き返したかったけど、それを言って身体が離れてしまったらと思うと寂しくて、大人しく頷いておいた。
俺の手を引っ張ったまま早足で廊下を進む成海くんの背に呼びかけると、ようやく彼は立ち止まってくれた。
窓の外からは運動部の声や笛の音が聞こえてくる。その活気に満ちた向こう側とは対照的に、人気の少ない廊下で立ち尽くす俺達の間には重たい沈黙が流れていた。
「……あの、俺は人間です。尻尾とかないし」
「知ってるし」
勇気を出して打ち明けたつもりだったのに、成海くんからは呆れたような声が返ってくるだけだった。あまりにも即答だったので、馬鹿なことを言ってしまったみたいで恥ずかしくなってくる。
「だったらなんであんな変なこと言うの……あとなんでずっと怒ってるの」
付け足すように足した方が一番聞きたいことだなんて、きっと彼にはわかりきっているはずだ。
成海くんはじっと俺を見下ろしたまま、口を開こうとしてくれない。
「やっぱり家に友達を呼んだのが嫌だった?」
「は? 別にそんなのどうでもいいよ」
「じゃあ何で」
成海くんと義兄弟になってからずっと素っ気ない態度は当たり前だったけど、こんな風に怒りを露わにされるのは初めてだ。
彼の様子がおかしくなったのはあの日からだ。古賀くんが来たあの日。
てっきり俺は友達を家に呼ばれるのが嫌だったんだと思っていた。でもそうじゃないらしい。だとしたら考えられる可能性は何だろう。
──ヤキモチ妬いて拗ねてるんですよ、弟くんは。
不意にすべ氏から送られてきた言葉が、頭をよぎった。
まさか。絶対にそんなはずはない。だけどもう、選択肢がそれしか残っていない。
冗談めいた感じで言えば怒られないだろうか。ごくんと唾を吞んでから、意を決して口を開いた。
「……寂しかったとか?」
ヘラヘラと笑いながらそう口にすると、俺の手首を掴んだままの成海くんの手が、僅かにピクリと反応した。
「俺が他の人と遊んでて、寂しくて拗ねちゃったとか……あはは、なんちゃって。自惚れにも程があるよね」
「そうだよ」
「………………えっ?」
”ありえない”という前提で話していた俺が成海くんの言ったことを理解するまでに、少しの時間を要した。
聞き間違いかと顔を上げるのと同時に、ぐっと手を引かれて顔が近付く。
「だって沙也ちゃんは俺のでしょ」
額がこつんと触れた。
焦点の合わないほど近い距離に綺麗な瞳が見えて、頭の中が一瞬で真っ白になる。
手首を握られていたはずなのに、いつのまにか手を握られていることに気付いた。一見華奢なように見える成海くんの手は、触れると意外とゴツゴツとしている。
冷たい表情とは裏腹に、その手はびっくりするほど熱かった。
「他のヤツにうつつ抜かしてんなよ。いつもみたいに盲目に俺のことだけ見てればいいじゃん。誰かに相手してほしいなら、俺がいるだろ」
言われている言葉が素直に頭の中に入ってくれない。
理解が追い付かなくて意味のない母音を垂れ流す俺を見かねたのか、ようやく綺麗な顔が離れていった。
沙也ちゃんは、俺の。俺のって、成海くんの?
誰が?
……俺が?
「……エエッ」
「リアクションおそ」
「だ、だって」
遅れて意味を理解した瞬間に、沸騰しそうなほど顔が熱くなってくる。
知らなかった。俺って、成海くんの所有物だったんだ。
兄弟になるとそういう暗黙の了解でもあるのか?
さすがにそんな話は聞いたことはないけど、一つ確かに言えることは。
「顔真っ赤。なんで?」
「違っ……! むりごめん、いま見ないで」
全然嫌じゃないっていうかむしろ、そんなことを言われて喜んでいる自分がいる。
己の趣向が信じられない。もしかして俺ってマゾ寄りなのか。
……いやでも、成海くん以外にそんなことを言われたって絶対に鳥肌モノだし、成海くんが言う台詞だから全部嬉しいに決まってる。
例えこの場限りの気まぐれな言葉だって構わない。気の迷いだとしても、俺に対して一瞬でもヤキモチを妬いてくれたということが、どうしようもなく嬉しい。
「俺のせい?」
真っ赤な顔を見られたくなくて両手で覆い隠していると、手一枚挟んだ向こう側から甘ったるい声が聞こえてきた。
いつものからかうような声とはどこか違うからこそタチが悪い。
このスイッチが入った成海くんに己が弱いことは、俺が一番よくわかっている。
「っはは、必死に隠してんのかーわいー。とっくにバレてんのに。そんなに顔見られたくない?」
「っ成海くん、ちょっと、悪ふざけが過ぎる……!」
「なんで? 俺は見たいよ。だって俺のせいなんでしょ。見せてよ」
「ちょ、本当まって、だめだって」
俺の制止をまったく聞かない成海くんは、見かけによらず物凄い力で俺の手を退かそうとしてくる。
このままだと兄としては不甲斐ない醜態を成海くんに晒すことになってしまう。
それだけはなんとかして避けたい。
(どうしよう、何か成海くんの気を逸らせること……っ!)
混沌とした状況の中、あることを思い出す。その瞬間に俺は考える間もなく、自らの腕を思いっきり前に伸ばして、勢いよく成海くんの胸に飛び込んだ。
「……っ」
頭上で成海くんが息を呑む音が聞こえた。
彼のシャツからは俺と同じ柔軟剤の香りがして、華奢だと思っていた胸は思っていたよりももっと逞しかった。ぎゅっと両腕を背中に回すと、彼が困惑したように硬直するのがわかった。
「……仲直り、の、ハグ」
ぎこちなく呟く俺の声が、シンと静まり返った廊下の壁に吸い込まれていく。
こうすれば顔を見られないだろう、と裏をかいたつもりでいた。
だけど間違えた、と真っ先に思った。
こんなはずじゃなかった。
もっと軽く、ふざけた感じでするつもりだったのに。
「……妬ける」
「え、なにが」
「いいようにされてんじゃねえよ」
意味のわからないことを呟いて、何故か怒っている成海くんは、言葉とは裏腹に俺の背に腕を回して、ぎゅっと力強く抱きしめ返してくれた。
「……まだ怒ってる?」
「知らない」
「さっきの、成海くんが俺の相手してくれるって……本当?」
いつもなら絶対に口にできないようなことも、不思議と、彼の腕の中でなら言えるような気がした。
今どんな顔をしているんだろう。
俺の顔を見られない代わりに、成海くんの顔が見えないのは寂しいと思った。
「できれば家でも普通に会話したいし、これからは避けないでほしいな。あとまた弁当作っていくから、学校で一緒に食べたいなーなんて……」
「……いきなり注文多すぎ」
「あっごめん……舞い上がっちゃって」
気が緩んで、つい調子に乗ってペラペラと喋ってしまった。耳元で彼の嘆息が聞こえる。
「わかった。その代わり、こういうことすんの全部俺だけにしてね」
こういうことって、どこまでのことを指すのだろう。
聞き返したかったけど、それを言って身体が離れてしまったらと思うと寂しくて、大人しく頷いておいた。

