「いぶきが立派に旅立つ日まで、恋愛も結婚もいいわ」

 そういう忍に、父や母はもとより、祖父母でさえ何も言わなかった。言っても無駄だと思ったのかもしれない。もしくはその内気も変わるだろうと楽観的に受け止めたのか。

 実際にいぶきが旅立ってしまえば、いぶきを覚えていない両親たちの目に映る自分の奇異さに申し訳ない気もしたが、それでも男はこりごりだと思ったのは本当だ。
 自分がもう一度恋をするとはとても思えなかったし、自分の見る目のなさもわかったから。
 先輩と元夫は入籍だけ済ませ、男の子が生まれたという(実際は籍を入れずに逃げようとしていたらしいが、どうでもいことだ)。

「あの人も、今度こそ、ちゃんとお父さんになれるといいねぇ」

 そう本気で言えるほどには、もう元夫は他人であり、他人事だった。
 新しい町で忍はしみじみと自分の見る目のなさを反省し、新しい生活に慣れるようただがむしゃらに頑張った。
 最初だけ両親と同居し、いぶきの小学校入学と同時にアパートで二人暮らしを始めた。
 そして時は飛ぶように過ぎていき――。

   * * *

 二〇一九年七月。いぶきは二十歳になった。

「お母さん、今日バイト先に浅倉さんが来たよ」
「ふーん」

 いぶきの作った夕食を食べながら、忍は適当に相槌を打つ。今日のカレーライスとサラダも絶品だ。

「普通のルーを使ってるはずなのに、どうしてこう美味しいのかしらね。うちの娘ってば天才じゃないかしら」
「ふふん、たぶん天才なのよ。好みを熟知してる、お母さん限定だけどね」
「そんなことないでしょ。あっちの世界にもカレーはあるのかしら?」

 あっちの世界とは、いぶきが大人になったらいく世界のことだ。

「どうなんだろう? なかったら開発してカレー屋さんを開こうかしら?」

「あら、いいわね。若き美人実業家!」

「美人は自画自賛ですか? 私、お母さん似なんですけど」

「いいじゃない、美人親子ってことで」

「言うわ~。こんな人だけど浅倉さん頑張れー」

「なんでそこで浅倉さんが出るかな?」

「えー、だって早くお母さん引き取ってもらわなきゃ、私安心して向こうに行けないよ?」

「じゃあ行かなくていいよ。私ずっと独身でいいわ」

「もう!」

 いつもの軽口に笑いあう。
 二人の食卓はいつも賑やかだ。



 誰にも内緒だけど、いぶきが初潮を迎えてからの日々は、忍にとっては恐怖と隣り合わせの毎日だった。
 あれは夢で、いぶきは本当は私の子なんじゃないかという希望。
 でもそれは違うという理性。
 あの何かは約束を守ってくれるのか。それを保証してくれる物は何もない。
 日本が成人年齢を引き下げると聞いたときは、本気で青ざめた。だがいぶきの年代は二十歳で成人。条件は変わらないからね! と、忍は時々何もない空間に訴え続ける。

 いぶきが中学生になって間もないころ、ぼんやりと不思議な夢をよく見ると教えてくれたことをきっかけに、あの不思議な何かの話を伝えた。おとぎ話のように。
 一瞬戸惑ったそぶりを見せたものの、いぶきはすぐに理解していた。

 本当は理解してほしくなかった。それは忍のエゴだ。
 笑い飛ばしてほしかった。あるわけないと言ってほしかった。でもいぶきは完全に理解していた。どこかで知っていたかのように。
 だから初めて大喧嘩もした。対等な立場でとことん言い合って怒って泣いて――。

「なんでそんなこと引き受けたんだって言われたって、私は、どおっっっしてもいぶきのお母さんになりたかったんだもん! 絶対幸せにしたかったの!」

 どうしてもこの子が欲しかった。期間限定でも構わなかった。
 その気持ちがなんだったのかなんて、とても説明なんかできなかったのだ。
 ただ欲しかった。抱きしめて愛して、絶対に幸せにしたかった。ただそれだけなのだ。

「そんな男前なセリフ、私は王子様みたいな人からから言われたかったよ!」

 プクッとふくれた娘に、いつか現れるわよと微笑んだのがつい昨日のようだ。結局泣き疲れたあとは、旅立つその日まで一緒に楽しく過ごそう! という、どこか仲間のような意識が芽生えた。あれも多分、娘の親離れの第一歩だったのだろう。

 だからいぶきが、いつか旅立つものとして行動していても驚かなかった。
 ほとんどの場合、誰かと二人きりで行動しないらしいことのもそのひとつだろう。いぶきが集団の中の一人なら思い出の齟齬(そご)も勘違いで済むだろう……と。たぶん、そんな必要はないだろうに。

 そのころ、二人で流行りの異世界転生物の小説や漫画を読みまくった。
 多分いぶきは、異世界から預かった娘。それが一番しっくりくるねということで落ち着いたから。